第22話 監視される龍太
【教師の目、監視の目】
川井・良子は、職員室の自分の机で溜息をついていた。
机の上には教科書や参考書、さらに自分で作成している授業内容のノートなどが広げられていたが、全く手が付けられていない。
昨日、教頭の寺西・恵三から言われた言葉が頭から離れない。
「君のクラスの茂野・龍太君のことなんだけど、色々と調べてほしいんだ」
「これは市長からの指示なんだ」
市長から……その言葉の意味を考えれば考えるほど、気持ちが重くなっていく。
ただ、本音を言えば、彼女自身も茂野・龍太に対してとても興味を持っていた。
教師として特定の子供を監視することには抵抗がある。
しかし、彼は普通の子供ではない。それは間違いなかった。
遠足で森林公園に行った時、森の奥で不良高校生達に囲まれ、とても怖かった。
まあ、広いとは言え、昼間の公園で最悪の事態にはならなかっただろうが、それでもかなり際どいことをされた可能性はある。
そうならなかったのは、茂野・龍太が不良達をたった一人で追い払ってくれたからだ。
小学1年生が3人の高校生を……。龍太は彼等が急用を思い出したとか言っていたが、あの状況でそれを信じられるはずがない。
それ以外の子供らしからぬ言動も含めて、彼が何者なのか気になって仕方がなかった。
川井・良子は教頭の指示に疑問を持ちつつも、龍太の監視……いや、観察を始めた。
そして改めて驚かされる。
クラスメイトの1人が校庭で転んで膝を擦りむいた時、彼はすぐに駆け寄り、
「安心しろ、傷は浅いぞ」
と、妙に冷静な口調で手当てをした。
彼が凄いのか、それとも親御さんが心配性なのか分からないが、龍太はポケットに消毒薬と絆創膏を持ち歩いていたのだ。
「ありがとう」
「気にするな、仲間だろう」
泣きべそをかいているクラスメイトに、爽やかな笑顔でそう答える龍太。
また、ある時。
一人の女子が突風で帽子を飛ばされ、運悪くそれが大きな木の枝に引っかかってしまった。
子供どころか、大人がジャンプをしても届かない高さだ。
お気に入りの帽子が大変なことになり、女の子が泣きそうな顔でそれを見上げている。
すると、
「どうした? ああ、帽子が枝に引っかかったんだな」
偶然通りかかった龍太が、それに気付いてそう言う。
普通に考えれば、身軽に木によじ登り帽子を取るか、もしくは枝を揺すって下に落とすところだ。
しかし、龍太はその場でピョンピョンと軽くアップをするようにジャンプすると、ハッ!と軽く気合を入れて地面を強く踏み込んだ。
驚いたことに、龍太は帽子が引っかかる枝の高さまで飛ぶと、帽子を掴んで着地をしたのだった。
ポカンとした表情になっている女の子に帽子を返すと、
「気を付けてね」
と言って、颯爽と去っていく龍太。
それを少し離れて見ていた川井・良子が、彼の後ろ姿が見えなくなってから、その木に近付き、頭上の枝を見上げる。
身長が155cmと小柄ではあるが、それでも小学1年生の龍太よりは約50cmも高い。
その彼女が背伸びをして手を伸ばしても指先が掠りもしない。それどころか、その場でしゃがんで全身のバネを使ってジャンプをしても、とても届かなかった。
「あの子……一体どんな体をしているの?」
茂野・龍太は軽々とジャンプをしていたというのに。
また、ある日。
廊下で二人の上級生の男子が喧嘩をしていた。
おそらく二人とも3年生だろう。どちらかが足を踏んだのに謝らなかったとか、わざとじゃないし謝っただろう、といった感じで、どんどん声が大きくなっていく。
そして、子供ならよくある、ちょっと悪ぶって不良っぽい台詞を言い出す。
「やんのか、お前!!」
「なめんなよ!!」
そして、お互いに相手に掴みかかろうとした時、
偶然通りかかった……いや、もうここまでくると、トラブルを察知したとしか思えない茂野・龍太が、二人の間に割って入った。
「まあ、落ち着いて。まずはお互いの話を聞いて」
そう言うと、伸ばされていた上級生の腕を掴んで降ろさせる。
「えっ? 足を踏まれたのに謝らなかった? なるほど……で、こっちは、わざと踏んだわけじゃないし、ちゃんと謝った? なるほど、なるほど」
二人の3年生も、迫力に押されたのか、素直に彼の質問に答えている。
「わざとじゃなくても、人の足を踏んだのなら謝るべきだよね。あと、踏まれて痛かったから、謝られても聞いていなかったんでしょ。なら、もう一度きちんと謝るべきだと思うよ。そしてあなたも、悪意を持って攻撃をされたわけじゃないんだから、それで水に流そうよ」
龍太が笑顔でそう言って、そのあと二人の3年生は、
「足を踏んでゴメン」
「いや、もういいよ」
と、簡単に和解をした。
本音を言うと、二人はまだ腹が立っていたし、なにより1年生に仲裁をされて恥ずかしかったはずなのだが、なんとなく龍太には逆らえなかったようだ。
「い、一体何者なの……」
それを見ていた川井・良子が、そう呟いた。
児童同士の喧嘩を仲裁するのはかなり難しいのだ。
基本は喧嘩両成敗で、最後に「はい、仲直りをして握手」と言って強引に仲直りをさせるのだが、一歩間違うと、先生が一方を贔屓したと言われ、保護者が乗り込んできたり、ネットに書き込まれたりする。
しかし、さすがに1年生に喧嘩の仲裁をされたなどとは言えないだろう。
さらに、ある日。
授業が終わり、川井・良子が教壇で黒板を消し、教科書を片付けていると、茂野・龍太の側に1人の女子が近付いていくのが見えた。
このクラスには、幼稚園時代からの龍太の友人が何人かいる。その女子もそのうちの一人で、神崎・あかりだった。
とても可愛らしく、元気でよく笑う、良い意味で目立つ女の子だ。
「ねえねえ、龍太君」
「なに?」
次の授業の準備をしていた龍太が顔を上げる。
「これって、なんて読むの?」
そう言って、あかりが取り出したのは1枚のハンカチだった。
なんというか、お経を書き写したように漢字がぎっしりと書き込まれている。
「お父さんが、お仕事で遠くに行った時のお土産なんだけど、難しくて読めないの」
それはそうだろう。小学1年生で習う漢字など、たかが知れている。
「どれどれ」
そう言うと、龍太がそのハンカチを手に取り、自分の顔の前で広げた。
「これは魚の名前だな」
「お魚さんの?」
「そう。これは、ぶり、あゆ、まぐろ、このしろ、なまず。そして、こっちが、はも、はや、すずき、めばる」
龍太が一文字ずつ指で指しつつ、そう言う。
「うわぁ~、凄い!!」
素直に感動して喜ぶ、あかり。
そして、それ以上に、私、「このしろ」や「すずき」なんて読めない、と驚く川井・良子。
な、何で小学1年生がそんな漢字が読めるの? たまにテレビなんかに出てくる天才少年?!
「ブリは出世魚とも呼ばれていて、大きくなるに従って名前が変わるんだ。小さい方からワカシ、イナダ、カラサ、そしてブリ。ちなみにこれは関東での呼び名で、関西だとツバス、ハマチ、メジロ、そして最後がブリになる」
「へぇ~、成長すると名前が変わるんだ。面白いね。私も大きくなったら名前を代えようかな」
「あかりはとても素敵な名前だから、代えない方がいいぞ」
そのような歯が浮くような台詞まで言うことにも驚いたが、なにより、
「出世魚の東西の呼び名の違いまで知ってるなんて……」
思わず凄いと感心してしまった。
「どうしよう、教頭先生になんて報告したらいいの?」
ブツブツと呟きつつ、川井・良子は校舎の外を歩いていた。
職員室で考え事をしていると、いつ教頭室のドアが開いて呼びつけられるか分からないので、とても落ち着かない。
茂野・龍太は何一つ悪いことはしていない。しかし、あまりにも良いことをし過ぎている。
普通に考えれば、彼のことをそのまま伝えても信じてもらえないかもしれない。少なくとも、担任の川井・良子が自分の教え子を依怙贔屓していると思われるはずだ。
かと言って、虚偽の報告をして後でそれがバレたら面倒なことになる。
その時、
「先生、危ない!!」
グラウンドの方から突然、鋭い声が聞こえてきた。
「えっ?」
驚いて顔を向けると、ボールが物凄い速度で自分めがけて飛んでくるのが見える。
しかし、視覚で認識した時には、すでに手遅れだった。
彼女の反射神経や運動能力では、受けることも避けることもできない。
唯一できることは、目を閉じて体を強張らせることだけだった。
しかし、いつまでたってもボールが直撃しない。
「…………」
どうやらボールは自分に当たらなかったみたいだと考え、恐る恐る目を開ける。
すると、目の前に茂野・龍太が立っていた。そして、その右手が真上、つまり川井・良子の顔の前に真っすぐ伸ばされていた。
その右手にはボールが握られている。
「えっ?」
驚く川井・良子。そして、それはグラウンドで野球をしていた生徒達も同じだったようだ。
この時グラウンドで野球をして遊んでいたのは6年生で、ボールも硬球ではなくゴム製だった。
そして、ファールになった打球が、偶然通りかかった彼女に直撃しそうになっていたのだ。
「いくぞ!!」
龍太がその場でボールを握り直すと、6年生達めがけて投げ返した。
それはノーバウンドで相手に届く。
「あ、ありがとう」
6年生達は驚きながら、そう礼を言った。
「先生、怪我はありませんか?」
そんな彼等に背を向けると、龍太が川井・良子にそう聞いてくる。
「えっ? ええ、大丈夫」
うそっ? この子、どこにいたの? 少なくとも視界には入っていなかったので、背後にいたのだろうが、それにしても、飛んで来る打球より素早く動けなければキャッチはできない。
「そうですか。それは良かった」
そう言うと、龍太がニコッと笑って歩き出す。
な、何なの、この子……。それは、映画やアニメに出てくるヒーローそのものだった。
心臓の鼓動が速くなり、頬が熱くなる。
「私、何で20年遅れて生まれてこなかったんだろう……」
思わず、そのようなことを呟いてしまった。
ちなみに彼女には、このままいけば結婚しそうな恋人がいて、その彼氏は市役所で働いていた。
その彼氏も、まさか自分の恋人が小学1年生の教え子にときめいているなどとは、夢にも思っていないだろう。




