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あなたがお嫁さんだったら良かったのにと、今更言われましても。私は辺境伯様に大切にされていますので  作者: 黒猫と珈琲


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2/2

あなたがお嫁さんだったら良かったのにと、今更言われましても。(後編)

 アーヴィン・グランディスとの縁談は、驚くほど穏やかに進んだ。


 華やかな恋愛小説のような展開はなかった。


 胸が苦しくなるほどの情熱もない。


 けれど、エレノアは彼と会うたびに肩の力が抜けていくのを感じていた。


 アーヴィンは必要以上に踏み込まない。


 けれど、決して無関心でもない。


 ある日、王都の庭園を散策していた時のことだった。


 少し冷たい風が吹き、エレノアは思わず肩をすくめた。


 するとアーヴィンは何も言わず、自分の外套を差し出した。


「風が冷たい」


「ですが、アーヴィン様が」


「私は慣れている」


 ただそれだけだった。


 恩着せがましさもなければ、気障な言葉もない。


 けれど、その何気ない優しさが心に残った。


 彼はいつもそうだった。


 大げさな言葉ではなく、行動で示す人だった。


 そしてエレノアは、少しずつ気づいていった。


 彼といる時、自分は無理をしていない。


 好かれようと必死にならない。


 嫌われないように顔色を窺わない。


 ただ自然に笑えている。


 それがどれほど心地よいことなのか、初めて知った。


 やがて婚約が整い、一年後に二人は結婚した。


 北の辺境領は王都とはまるで違っていた。


 冬は長く、風は厳しい。


 けれど人々は温かかった。


 辺境伯夫人となったエレノアを、領民たちは歓迎してくれた。


 最初は慣れないことばかりだった。


 王都の貴族社会しか知らなかったエレノアにとって、領地経営も、領民との交流も、何もかも新鮮だった。


 失敗もした。


 戸惑うこともあった。


 けれど、そのたびにアーヴィンは隣にいた。


「焦らなくていい」


「ですが……」


「一年で全てできる人間などいない」


 彼はいつもそう言った。


 できなかったことを責めない。


 失敗を笑わない。


 ただ、次はどうするかを一緒に考えてくれる。


 それがどれほどありがたいことか。


 エレノアは日を追うごとに理解していった。


 そして結婚して半年ほど経ったある夜。


 暖炉の火が静かに燃える執務室で、エレノアはついに過去の話をした。


 アレクシスのことだった。


 初恋だったこと。


 彼を支えたこと。


 期待してしまったこと。


 そして、選ばれなかったこと。


 全てを話し終えた時、エレノアは少し俯いた。


「……申し訳ありません」


「なぜ謝る」


 アーヴィンが静かに言う。


「夫に話すべきではなかったでしょうか」


「違う」


 彼は首を振った。


「なぜ謝る必要がある」


 エレノアは答えられなかった。


 するとアーヴィンは椅子から立ち上がり、彼女の前に来た。


「エレノア」


「はい」


「今もその男が好きか」


 エレノアは即座に首を横に振った。


「いいえ」


 迷いはなかった。


 本当に、なかった。


 あの恋は終わっている。


 傷跡は残っていても、もう戻りたいとは思わない。


 するとアーヴィンは小さく頷いた。


「なら問題ない」


「え?」


「過去は消えない」


 低く落ち着いた声が響く。


「私にも過去はある。お前にもある。それだけだ」


 そして彼は、そっとエレノアの手を包み込んだ。


「私は、お前の過去ごと受け入れると決めて求婚した」


 エレノアは息を呑んだ。


「最初から……?」


「ああ」


「知っていたのですか」


「ある程度は」


 辺境伯ともなれば、縁談相手の調査くらいする。


 そう言われれば当然だった。


 けれどアーヴィンは、その過去を理由にエレノアを否定しなかった。


「初恋をしたことは罪ではない」


 静かな声だった。


「誠実でなかったのは、その男の方だ」


 その瞬間。


 エレノアの目から涙が零れた。


 ずっと誰にも言えなかった。


 自分が悪かったのかもしれない。


 期待した自分が愚かだったのかもしれない。


 そんな思いを抱えていた。


 けれど今、初めて許された気がした。


 アーヴィンは泣くエレノアを責めなかった。


 ただ黙って隣にいてくれた。


 その温かさに、エレノアはようやく過去を手放した。


◇◇◇


 それから三年が過ぎた。


 辺境領での暮らしは忙しくも充実していた。


 アーヴィンとの関係も良好だった。


 派手な愛情表現はない。


 けれど朝になれば「おはよう」と言ってくれる。


 帰宅すれば無事を喜んでくれる。


 寒い日は暖炉の近くの席を譲ってくれる。


 体調を崩せば真っ先に医師を呼ぶ。


 その積み重ねが、どれほど大切なものなのか。


 エレノアは知っていた。


 そんなある日、一通の手紙が届いた。


 差出人を見た瞬間、エレノアは思わずため息をついた。


 レイン伯爵夫人。


 アレクシスの母だった。


 縁を切って久しい。


 それでもなぜか、年に数回手紙が届く。


 最初は心配だったのだろう。


 だが今となっては、ほとんど愚痴だった。


 エレノアは手紙を開く。


『ご無沙汰しております』


『辺境での生活はいかがでしょうか』


 ここまでは普通だった。


 問題はその後だった。


『最近のアレクシスは相変わらずです』


『帰宅するたびに妻への不満ばかり』


『話を聞いているだけで疲れてしまいます』


 エレノアは頭を抱えた。


 なぜ自分に送るのか。


 本当に意味が分からない。


 さらに続く。


『私は何度も言ったのです』


『エレノアさんのような方を選ぶべきだったと』


 エレノアは天井を見上げた。


 聞きたくない。


 本当に聞きたくない。


 息子夫婦の問題に巻き込まないでほしい。


 そして最後の一文を見て、思わず笑ってしまった。


『本当に、あなたがお嫁さんだったら良かったのに』


 しばらく無言になった。


 それからゆっくりと便箋を畳む。


 その時だった。


「何かあったか」


 執務を終えたアーヴィンが部屋へ入ってきた。


 エレノアは手紙を差し出した。


 アーヴィンは目を通し、眉をひそめる。


「……奇妙な手紙だな」


「でしょう?」


「なぜお前に送る」


「私も知りたいです」


 二人で顔を見合わせる。


 そして同時にため息をついた。


 その様子がおかしくて、エレノアは吹き出してしまった。


 久しぶりだった。


 昔なら傷ついていたかもしれない。


 けれど今は違う。


 もう過去だから。


「返事を書くのか」


 アーヴィンが尋ねる。


「ええ」


「断るのか」


「もちろんですわ」


 エレノアは机に向かった。


 新しい便箋を取り出す。


 ペンを持つ。


 そして丁寧に文字を綴った。


『ご連絡ありがとうございます』


『お気遣い感謝いたします』


 そこまで書いて、一度ペンを止める。


 窓の外を見る。


 北の空は青く澄んでいた。


 遠くには雪山が見える。


 この景色も。


 この屋敷も。


 隣にいる人も。


 今では大切な居場所だった。


 だから迷わない。


 エレノアは再びペンを走らせた。


『ですが、そのお申し出は』


 さらさらと文字が流れる。


『謹んでお断りいたしますわ』


 そして最後に。


『私は現在、とても幸せですので』


 そう書き添えた。


 封を閉じる。


 それだけで、長い長い過去が終わった気がした。


「終わりました」


 エレノアが振り返ると、アーヴィンが近づいてきた。


「何か困り事だったか」


 からかうような声音だった。


 エレノアは笑う。


「いいえ」


 そして夫の腕にそっと手を添えた。


「昔の縁を一つ終わらせただけですわ」


 アーヴィンは何も言わなかった。


 ただ静かに肩を抱き寄せる。


 その腕は温かかった。


 エレノアはそっと目を閉じる。


 昔は知らなかった。


 恋とは、追いかけるだけのものではない。


 愛とは、不安になるものでもない。


 大切にされること。


 尊重されること。


 安心して笑えること。


 それこそが本当の幸せなのだと、今なら分かる。


 だから。


 もしあの日に戻れたとしても、彼を選ぶことはないだろう。


 今の自分があるから。


 今の幸せがあるから。


 エレノアはアーヴィンを見上げた。


「愛しておりますわ」


 珍しく自分から言うと、アーヴィンはわずかに目を見開いた。


 そして小さく笑う。


「私もだ」


 窓の外では、辺境の風が穏やかに吹いていた。


 過去は過去。


 そして未来は、愛する人と共にある。


【完】


読んでくださりありがとうございました。

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