あなたがお嫁さんだったら良かったのにと、今更言われましても。(後編)
アーヴィン・グランディスとの縁談は、驚くほど穏やかに進んだ。
華やかな恋愛小説のような展開はなかった。
胸が苦しくなるほどの情熱もない。
けれど、エレノアは彼と会うたびに肩の力が抜けていくのを感じていた。
アーヴィンは必要以上に踏み込まない。
けれど、決して無関心でもない。
ある日、王都の庭園を散策していた時のことだった。
少し冷たい風が吹き、エレノアは思わず肩をすくめた。
するとアーヴィンは何も言わず、自分の外套を差し出した。
「風が冷たい」
「ですが、アーヴィン様が」
「私は慣れている」
ただそれだけだった。
恩着せがましさもなければ、気障な言葉もない。
けれど、その何気ない優しさが心に残った。
彼はいつもそうだった。
大げさな言葉ではなく、行動で示す人だった。
そしてエレノアは、少しずつ気づいていった。
彼といる時、自分は無理をしていない。
好かれようと必死にならない。
嫌われないように顔色を窺わない。
ただ自然に笑えている。
それがどれほど心地よいことなのか、初めて知った。
やがて婚約が整い、一年後に二人は結婚した。
北の辺境領は王都とはまるで違っていた。
冬は長く、風は厳しい。
けれど人々は温かかった。
辺境伯夫人となったエレノアを、領民たちは歓迎してくれた。
最初は慣れないことばかりだった。
王都の貴族社会しか知らなかったエレノアにとって、領地経営も、領民との交流も、何もかも新鮮だった。
失敗もした。
戸惑うこともあった。
けれど、そのたびにアーヴィンは隣にいた。
「焦らなくていい」
「ですが……」
「一年で全てできる人間などいない」
彼はいつもそう言った。
できなかったことを責めない。
失敗を笑わない。
ただ、次はどうするかを一緒に考えてくれる。
それがどれほどありがたいことか。
エレノアは日を追うごとに理解していった。
そして結婚して半年ほど経ったある夜。
暖炉の火が静かに燃える執務室で、エレノアはついに過去の話をした。
アレクシスのことだった。
初恋だったこと。
彼を支えたこと。
期待してしまったこと。
そして、選ばれなかったこと。
全てを話し終えた時、エレノアは少し俯いた。
「……申し訳ありません」
「なぜ謝る」
アーヴィンが静かに言う。
「夫に話すべきではなかったでしょうか」
「違う」
彼は首を振った。
「なぜ謝る必要がある」
エレノアは答えられなかった。
するとアーヴィンは椅子から立ち上がり、彼女の前に来た。
「エレノア」
「はい」
「今もその男が好きか」
エレノアは即座に首を横に振った。
「いいえ」
迷いはなかった。
本当に、なかった。
あの恋は終わっている。
傷跡は残っていても、もう戻りたいとは思わない。
するとアーヴィンは小さく頷いた。
「なら問題ない」
「え?」
「過去は消えない」
低く落ち着いた声が響く。
「私にも過去はある。お前にもある。それだけだ」
そして彼は、そっとエレノアの手を包み込んだ。
「私は、お前の過去ごと受け入れると決めて求婚した」
エレノアは息を呑んだ。
「最初から……?」
「ああ」
「知っていたのですか」
「ある程度は」
辺境伯ともなれば、縁談相手の調査くらいする。
そう言われれば当然だった。
けれどアーヴィンは、その過去を理由にエレノアを否定しなかった。
「初恋をしたことは罪ではない」
静かな声だった。
「誠実でなかったのは、その男の方だ」
その瞬間。
エレノアの目から涙が零れた。
ずっと誰にも言えなかった。
自分が悪かったのかもしれない。
期待した自分が愚かだったのかもしれない。
そんな思いを抱えていた。
けれど今、初めて許された気がした。
アーヴィンは泣くエレノアを責めなかった。
ただ黙って隣にいてくれた。
その温かさに、エレノアはようやく過去を手放した。
◇◇◇
それから三年が過ぎた。
辺境領での暮らしは忙しくも充実していた。
アーヴィンとの関係も良好だった。
派手な愛情表現はない。
けれど朝になれば「おはよう」と言ってくれる。
帰宅すれば無事を喜んでくれる。
寒い日は暖炉の近くの席を譲ってくれる。
体調を崩せば真っ先に医師を呼ぶ。
その積み重ねが、どれほど大切なものなのか。
エレノアは知っていた。
そんなある日、一通の手紙が届いた。
差出人を見た瞬間、エレノアは思わずため息をついた。
レイン伯爵夫人。
アレクシスの母だった。
縁を切って久しい。
それでもなぜか、年に数回手紙が届く。
最初は心配だったのだろう。
だが今となっては、ほとんど愚痴だった。
エレノアは手紙を開く。
『ご無沙汰しております』
『辺境での生活はいかがでしょうか』
ここまでは普通だった。
問題はその後だった。
『最近のアレクシスは相変わらずです』
『帰宅するたびに妻への不満ばかり』
『話を聞いているだけで疲れてしまいます』
エレノアは頭を抱えた。
なぜ自分に送るのか。
本当に意味が分からない。
さらに続く。
『私は何度も言ったのです』
『エレノアさんのような方を選ぶべきだったと』
エレノアは天井を見上げた。
聞きたくない。
本当に聞きたくない。
息子夫婦の問題に巻き込まないでほしい。
そして最後の一文を見て、思わず笑ってしまった。
『本当に、あなたがお嫁さんだったら良かったのに』
しばらく無言になった。
それからゆっくりと便箋を畳む。
その時だった。
「何かあったか」
執務を終えたアーヴィンが部屋へ入ってきた。
エレノアは手紙を差し出した。
アーヴィンは目を通し、眉をひそめる。
「……奇妙な手紙だな」
「でしょう?」
「なぜお前に送る」
「私も知りたいです」
二人で顔を見合わせる。
そして同時にため息をついた。
その様子がおかしくて、エレノアは吹き出してしまった。
久しぶりだった。
昔なら傷ついていたかもしれない。
けれど今は違う。
もう過去だから。
「返事を書くのか」
アーヴィンが尋ねる。
「ええ」
「断るのか」
「もちろんですわ」
エレノアは机に向かった。
新しい便箋を取り出す。
ペンを持つ。
そして丁寧に文字を綴った。
『ご連絡ありがとうございます』
『お気遣い感謝いたします』
そこまで書いて、一度ペンを止める。
窓の外を見る。
北の空は青く澄んでいた。
遠くには雪山が見える。
この景色も。
この屋敷も。
隣にいる人も。
今では大切な居場所だった。
だから迷わない。
エレノアは再びペンを走らせた。
『ですが、そのお申し出は』
さらさらと文字が流れる。
『謹んでお断りいたしますわ』
そして最後に。
『私は現在、とても幸せですので』
そう書き添えた。
封を閉じる。
それだけで、長い長い過去が終わった気がした。
「終わりました」
エレノアが振り返ると、アーヴィンが近づいてきた。
「何か困り事だったか」
からかうような声音だった。
エレノアは笑う。
「いいえ」
そして夫の腕にそっと手を添えた。
「昔の縁を一つ終わらせただけですわ」
アーヴィンは何も言わなかった。
ただ静かに肩を抱き寄せる。
その腕は温かかった。
エレノアはそっと目を閉じる。
昔は知らなかった。
恋とは、追いかけるだけのものではない。
愛とは、不安になるものでもない。
大切にされること。
尊重されること。
安心して笑えること。
それこそが本当の幸せなのだと、今なら分かる。
だから。
もしあの日に戻れたとしても、彼を選ぶことはないだろう。
今の自分があるから。
今の幸せがあるから。
エレノアはアーヴィンを見上げた。
「愛しておりますわ」
珍しく自分から言うと、アーヴィンはわずかに目を見開いた。
そして小さく笑う。
「私もだ」
窓の外では、辺境の風が穏やかに吹いていた。
過去は過去。
そして未来は、愛する人と共にある。
【完】
読んでくださりありがとうございました。
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