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あなたがお嫁さんだったら良かったのにと、今更言われましても。私は辺境伯様に大切にされていますので  作者: 黒猫と珈琲


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あなたがお嫁さんだったら良かったのにと、今更言われましても。(前編)

 エレノア・フォルクナーが、アレクシス・レインを初めて見たのは、王宮で開かれた春の夜会だった。


 その夜、王都の空には薄い雲がかかっていて、月明かりはやわらかく庭園を照らしていた。大広間には楽団の奏でる音楽が流れ、貴族たちは華やかな衣装をまとい、笑顔と礼儀を重ねながら挨拶を交わしている。


 侯爵家の一人娘であるエレノアもまた、その場にふさわしい令嬢として立っていた。淡い藤色のドレスに身を包み、母から何度も注意された通り、背筋を伸ばし、微笑みを絶やさず、誰に対しても失礼のないよう振る舞う。


 けれど、心のどこかはいつも少しだけ退屈だった。


 夜会で交わされる会話は、どれも似ている。天気のこと。流行のこと。どの家の誰が婚約したかという話。誰が昇進したか、誰が失脚したかという噂。


 貴族の娘として生まれた以上、それらが大切なことだとは分かっていた。分かってはいたが、胸が躍るようなことはほとんどなかった。


 その退屈な夜を変えたのが、アレクシスだった。


 彼は王宮騎士団に所属する若き騎士だった。名門伯爵家の次男で、爵位を継ぐ立場ではないものの、剣の腕は確かで、将来を期待されていると噂されていた。


 銀糸のような金髪に、澄んだ青い瞳。騎士服をまとった姿は華やかで、けれど決して浮ついてはいない。大広間の隅で年配の貴族に声をかけられた時も、彼は丁寧に頭を下げ、相手の話に真剣に耳を傾けていた。


 その姿を見た瞬間、エレノアは目を離せなくなった。


 美しい人だと思った。


 けれど、それ以上に惹かれたのは、彼が誰に対しても誠実そうに見えたからだった。


 その後、父の紹介で短く挨拶を交わした。


「フォルクナー侯爵家のエレノア嬢ですね。お会いできて光栄です」


「こちらこそ、レイン卿」


 ほんの短い会話だった。


 けれどアレクシスは、エレノアの言葉を遮らず、急かさず、まっすぐに見てくれた。


 それだけで、胸の奥が熱くなった。


 その日から、エレノアの初恋は静かに始まった。


 ただし、その恋は最初から叶わないものだった。


 アレクシスには恋人がいた。


 相手はリリアナ・ベルクという商家の娘だった。貴族ではないが、王都でいくつもの店を持つ裕福な家の令嬢で、明るく華やかで、誰とでもすぐに打ち解ける女性だった。


 アレクシスとリリアナは、誰の目にも仲睦まじく見えた。


 夜会でも、街の祝祭でも、二人は自然に寄り添っていた。アレクシスは彼女を見る時、柔らかく笑った。リリアナは当然のように彼の腕に手を添え、彼の隣で楽しそうに笑っていた。


 エレノアは、それを遠くから見ることしかできなかった。


 好きだと気づいた頃には、もう彼の隣には別の人がいた。


 だからエレノアは、自分の気持ちを胸にしまった。


 侯爵令嬢として、見苦しい真似はできない。恋人のいる男性に近づくようなこともしたくなかった。たとえ誰にも気づかれない小さな恋でも、自分の中でだけはきれいなものにしておきたかった。


 アレクシスと会えば挨拶をする。必要があれば微笑む。それ以上は求めない。


 そう決めていた。


 けれど、人の心は、決めた通りには動いてくれない。


 ある日、アレクシスとリリアナが別れたという噂が王都に流れた。


 最初にそれを聞いた時、エレノアは耳を疑った。


「本当なのですか?」


 思わず問い返すと、友人の令嬢は扇の陰で小さく頷いた。


「ええ。どうやらリリアナ様の方から距離を置いたらしいわ。商会の事業で忙しくなるとか、他にも色々あるようだけれど」


「そう……ですか」


 胸の奥で、いけない期待が芽生えた。


 不謹慎だと分かっていた。


 誰かの別れを喜ぶような人間にはなりたくない。


 それでも、長く閉ざされていた扉が少しだけ開いたような気がしてしまった。


 もし今なら。


 もし、彼の隣が空いているのなら。


 私にも、少しくらい近づくことが許されるのではないか。


 それからエレノアは、少しずつアレクシスに近づくようになった。


 もちろん、露骨なことはしなかった。侯爵令嬢としての節度は守った。夜会で顔を合わせれば言葉を交わし、騎士団への慰問の席では彼を気遣い、共通の知人を通じてお茶会にも招いた。


 アレクシスは拒まなかった。


 むしろ、エレノアの誘いを喜んでいるように見えた。


「エレノア嬢と話していると落ち着く」


 ある午後、侯爵家の庭園でお茶を飲みながら、アレクシスはそう言った。


 その日は風が穏やかで、薔薇の香りが庭に満ちていた。エレノアは紅茶のカップを持ったまま、思わず彼を見つめた。


「私と、ですか?」


「ああ。君は人の話をよく聞いてくれる。無理に慰めようともしないし、軽々しいことも言わない」


「それは……私が口下手なだけかもしれませんわ」


「そうかな。俺には、それがありがたい」


 アレクシスは柔らかく笑った。


 その笑顔を見た瞬間、エレノアの胸は苦しくなった。


 期待してはいけない。


 そう思うのに、彼の言葉は甘かった。


 彼は時々、エレノアだけに弱音を見せた。


 騎士団での立場のこと。伯爵家の次男として、家に頼らず自分の道を築きたいこと。いずれ騎士としての務めだけでなく、自分の事業も持ちたいと考えていること。


 その夢を聞いた時、エレノアは素直に素敵だと思った。


「事業、ですか?」


「ああ。辺境の薬草や革製品を王都に流通させる商いを考えている。騎士団の遠征で地方に行くたびに思うんだ。王都では手に入らない良い品が、地方にはたくさんある。それをもっと広められたらと」


「とても良いお考えだと思いますわ」


「だが、俺には商いの知識が足りない。人脈もない。騎士として剣を振るうことはできても、帳簿や契約のことは分からないことばかりだ」


 アレクシスは苦笑した。


「情けない話だろう?」


「いいえ。知らないことを認められるのは、誠実な証ですわ」


 エレノアは本心からそう言った。


 そして、その言葉を口にした瞬間、自分が彼を助けたいと思っていることに気づいた。


 彼の力になりたい。


 彼の夢が叶うところを見たい。


 その隣に、自分がいられたら。


 そんな願いが、心の奥に静かに積もっていった。


 エレノアは侯爵家の人脈を使い、信頼できる商人を紹介した。父に頼み、地方との取引に詳しい家令にも話を聞かせてもらった。アレクシスが作った拙い事業計画書には、分かる範囲で助言もした。


 もちろん、表向きは友人としての協力だった。


 けれどアレクシスは、何度も感謝を伝えてくれた。


「君がいてくれて本当に助かった」


「大げさですわ」


「大げさじゃない。エレノアがいなければ、俺はきっと最初の契約書でつまずいていた」


「それは少し困りますわね」


「だから、君には感謝している」


 彼はまっすぐにエレノアを見た。


「俺にとって、君は特別な人だ」


 その言葉を聞いた夜、エレノアは眠れなかった。


 特別な人。


 その響きだけで、胸がいっぱいになった。


 恋人になりたいと言われたわけではない。結婚を望まれたわけでもない。それでも、彼の中で自分が他の令嬢とは違う場所にいるのだと思いたかった。


 アレクシスの両親も、エレノアを歓迎してくれた。


 レイン伯爵夫妻は、息子の事業を支えるエレノアにとても好意的だった。特に母親であるレイン伯爵夫人は、会うたびにエレノアの手を取って微笑んだ。


「エレノアさん、いつも息子がお世話になっております」


「いいえ。私は大したことはしておりませんわ」


「そんなことありません。あの子はあなたと会った日は、いつも穏やかな顔をして帰ってくるのですよ」


「そう、なのですか?」


「ええ。あなたのような方がそばにいてくだされば、あの子もきっと良い方向へ進めるでしょう」


 その言葉に、エレノアは頬が熱くなるのを感じた。


 伯爵夫人は、まるで未来の嫁に向けるような眼差しでエレノアを見ていた。


 それが嬉しくて、怖かった。


 期待してしまうからだ。


 アレクシス本人だけでなく、彼の両親にまで受け入れられているような気がしてしまう。もしかしたら、このまま本当に彼の隣に立てる日が来るのではないかと、夢見てしまう。


 けれどアレクシスは、最後の一歩を踏み出さなかった。


 優しい言葉はくれる。頼ってくれる。会えば笑ってくれる。エレノアを特別だと言う。


 それなのに、恋人になってほしいとは言わなかった。


 エレノアもまた、怖くて聞けなかった。


 私たちは、どういう関係なのですか。


 そう尋ねてしまえば、今あるものまで壊れてしまいそうだったから。


 季節が一つ過ぎた頃、アレクシスの事業は少しずつ形になり始めていた。


 最初の契約がまとまり、地方から届いた薬草を王都の薬師に卸す道筋もできた。アレクシスは忙しくなり、以前ほど頻繁には会えなくなったが、それでも手紙は届いた。


『君のおかげだ』


『落ち着いたら、改めて礼をしたい』


『一番に報告したかった』


 そんな文面を、エレノアは何度も読み返した。


 そのたびに胸が温かくなった。


 けれど同時に、不安も大きくなっていった。


 彼は私を好きなのだろうか。


 それとも、ただ便利な協力者として大切にしているだけなのだろうか。


 答えが出ないまま、ある日、その不安は最悪の形で現実になった。


 王都の小さな茶会でのことだった。


 親しい令嬢たちと席を囲んでいたエレノアは、何気ない会話の中でその名前を聞いた。


「そういえば、アレクシス様とリリアナ様、よりを戻されたそうね」


 カップを持つ手が止まった。


 世界から音が消えたようだった。


 エレノアはゆっくりと顔を上げる。


「……今、何とおっしゃいました?」


 相手の令嬢は、悪気のない顔で瞬いた。


「あら、ご存じなかったの? アレクシス様、以前の恋人と復縁されたらしいわ。商会の方でも一緒に動いているとか。やっぱりお似合いだものね」


 お似合い。


 その言葉が、胸に深く刺さった。


 エレノアは何とか微笑もうとした。


 けれど頬がこわばって、うまく笑えなかった。


「そう……でしたの」


「ええ。近いうちに婚約の話も出るのではないかしら」


 誰かが楽しそうに言った。


 エレノアは、もうそれ以上その場にいられなかった。


「少し、風に当たってまいります」


 そう告げて席を立ち、庭へ出た。


 外の空気は冷たかった。


 つい先ほどまで穏やかだったはずの胸が、今は痛くてたまらなかった。


 知らなかった。


 何も聞いていなかった。


 彼は手紙に書いてくれなかった。


 一番に報告したいと言った人が、こんな大切なことを、私には知らせてくれなかった。


 エレノアは庭園の奥で足を止めた。


 目の前の花壇には、白い花が咲いていた。けれど視界が滲んで、花の輪郭はぼやけていた。


 泣いてはいけない。


 ここは他家の茶会だ。


 侯爵令嬢として、取り乱すわけにはいかない。


 そう思うのに、胸の奥からこみ上げてくるものを抑えられなかった。


 彼は、私を好きなのだと思っていた。


 少なくとも、少しは特別に思ってくれているのだと信じていた。


 けれど違った。


 彼にとってエレノアは、夢を支えてくれる都合の良い相手だったのかもしれない。


 相談に乗ってくれる人。


 人脈を紹介してくれる人。


 自分を否定せず、励ましてくれる人。


 けれど、恋人ではない。


 選ぶ相手ではない。


 その事実を突きつけられた瞬間、エレノアの中で何かが静かに崩れた。


 数日後、アレクシスから手紙が届いた。


 内容は、事業の進展についてだった。


 いつもと同じように、エレノアへの感謝が綴られている。丁寧な文字。優しい言葉。けれどそこに、リリアナとの復縁については一行も書かれていなかった。


 エレノアは便箋を握りしめた。


 そして、初めて返事を書かなかった。


 さらに数日後、王宮でアレクシスと顔を合わせた。


 彼はいつものように笑顔で近づいてきた。


「エレノア、久しぶりだな。最近返事がなかったから心配していた」


 その声を聞いた瞬間、以前なら嬉しくて胸が弾んだはずだった。


 けれど今は、苦しいだけだった。


 エレノアは背筋を伸ばし、静かに彼を見た。


「お話は伺いましたわ」


「話?」


「リリアナ様と復縁されたそうですね」


 アレクシスの表情が、わずかに固まった。


 その反応だけで、噂が事実なのだと分かった。


「ああ……そのことか」


 そのこと。


 まるで些細な話のように言われ、エレノアの胸がさらに冷えた。


「なぜ、私には教えてくださらなかったのですか」


「いや、言う機会がなくて」


「機会なら、いくらでもありましたわ。手紙にも書けたはずです」


「それは……」


 アレクシスは困ったように視線を逸らした。


 その顔を見て、エレノアははっきりと悟った。


 彼は、分かっていたのだ。


 エレノアが自分に好意を抱いていることを。


 そして、分かっていながら、曖昧なままそばに置いた。


 利用していたとまでは言わない。


 けれど、誠実ではなかった。


「私、勘違いしておりましたのね」


 エレノアは静かに言った。


 アレクシスが顔を上げる。


「エレノア?」


「あなたにとって私は、ただの友人であり、協力者だった。そういうことなのでしょう?」


「そんな言い方をしなくてもいいだろう。君は大切な人だ」


 大切な人。


 以前なら、その言葉だけで救われた。


 けれど今は、ひどく残酷に聞こえた。


「便利な言葉ですわね」


「エレノア」


「大切だけれど、選びはしない。特別だけれど、隣には置かない。そういう意味なのでしょう?」


 アレクシスは何も言えなかった。


 沈黙が答えだった。


 エレノアは小さく息を吸った。


 泣きたくなかった。


 ここで泣けば、自分がもっと惨めになる気がした。


「これまでのお付き合いは、ここまでにさせていただきます」


「待ってくれ。俺は君を傷つけるつもりはなかった」


「傷つけるつもりがなければ、傷つけてもよいわけではありません」


 自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。


「どうぞ、リリアナ様をお大事になさってください」


 そう告げて、エレノアは淑女の礼をした。


 アレクシスは手を伸ばしかけたが、結局何もできなかった。


 エレノアは振り返らずに歩き出した。


 一歩。


 また一歩。


 遠ざかるたびに、胸が裂けるように痛んだ。


 けれど同時に、どこかで分かっていた。


 ここで離れなければ、自分はずっと都合の良い人のままでいることになる。


 彼の言葉に期待し、彼の笑顔に振り回され、彼が別の人を選ぶたびに傷つく。


 そんな場所に、もう戻ってはいけない。


 その夜、エレノアは自室で一人泣いた。


 初恋だった。


 長い間、胸の中で大切にしてきた恋だった。


 叶わないと分かっていた頃よりも、叶うかもしれないと期待した後の方が、ずっと痛かった。


 けれど、どれほど泣いても朝は来る。


 翌朝、エレノアは腫れた目元を冷やし、鏡の前に立った。


 そこに映っていたのは、少し疲れた顔の侯爵令嬢だった。


 でも、背筋は伸びていた。


 エレノアは鏡の中の自分に向かって、小さく呟いた。


「もう、終わりにいたしましょう」


 その日から、エレノアはアレクシスへの手紙をすべて箱にしまった。


 事業に関する資料も、引き継げるものは父の家令を通じて返した。今後の協力は難しいと、丁寧な言葉で伝えた。


 レイン伯爵夫人からは何度か手紙が届いた。


『息子と何かありましたか』


『あなたのことを心配しております』


『どうかまたお茶にいらしてください』


 けれどエレノアは、最低限の返事だけをした。


 もう近づかない。


 そう決めたからだ。


 それでも心の傷は、すぐには癒えなかった。


 夜会でアレクシスとリリアナが並んでいる姿を見かけるたび、胸は痛んだ。リリアナが彼の腕に手を添えて笑う姿を見るたび、自分のしたことがすべて無駄だったように思えた。


 けれどエレノアは、顔を上げ続けた。


 泣くのは自室だけ。


 人前では、侯爵令嬢として微笑む。


 それがせめてもの矜持だった。


 そうして季節が巡り、エレノアの初恋は少しずつ過去になっていった。


 完全に忘れられたわけではない。


 けれど、触れるたびに血が滲むような痛みは、いつしか鈍い傷跡へと変わっていった。


 そしてその頃、エレノアのもとに一つの縁談が持ち込まれた。


 相手は、北の辺境を治める若き辺境伯。


 アーヴィン・グランディス。


 王都では、冷徹で無口な男として知られている人だった。


 社交界では滅多に笑わず、必要なことしか話さない。北方の魔獣討伐で功績を上げた武人であり、領地経営にも厳しい。多くの令嬢たちは、彼の端正な容姿に惹かれながらも、その近寄りがたい雰囲気に怯えていた。


 エレノアも、最初は戸惑った。


 なぜ、そのような人が自分に縁談を申し込んだのか分からなかった。


 けれど父は言った。


「アーヴィン殿は誠実な男だ。少なくとも、軽薄な噂は一つもない」


 その言葉を聞いた時、エレノアの胸が小さく揺れた。


 誠実。


 今のエレノアが、何よりも欲しかったものだった。


 こうしてエレノアは、アーヴィンと会うことになった。


 初めて対面した日、アーヴィンは噂通り無口だった。


 黒に近い濃紺の髪。冬の湖のような灰青色の瞳。背が高く、騎士とはまた違う重みのある立ち姿をしていた。


 彼はエレノアに向かって深く礼をした。


「アーヴィン・グランディスです。本日はお時間をいただき、感謝いたします」


「エレノア・フォルクナーです。こちらこそ、お会いできて光栄ですわ」


 会話は決して弾まなかった。


 けれど、不思議と居心地は悪くなかった。


 アーヴィンは軽々しい褒め言葉を口にしなかった。意味ありげな笑みを浮かべることもなかった。エレノアの反応を試すようなことも言わなかった。


 ただ、尋ねたことには誠実に答えた。


 領地のこと。北方の暮らしのこと。結婚相手に望むこと。


「私は、華やかな夫にはなれません」


 アーヴィンは静かに言った。


「王都の夜会に頻繁に出ることも難しい。領地は冬が長く、暮らしも楽ではない。あなたが望むような生活ではないかもしれません」


「では、なぜ私に縁談を?」


 エレノアが尋ねると、アーヴィンは少しだけ黙った。


 そしてまっすぐに彼女を見た。


「あなたが、自分の役目から逃げない人だと聞いたからです」


 エレノアは目を瞬かせた。


「私が、ですか?」


「はい。騎士団の支援活動でも、慈善事業でも、名前だけ貸すのではなく、最後まで関わる方だと。北の領地には、飾りの妻ではなく、共に立ってくれる人が必要です」


 その言葉は、甘くはなかった。


 けれど、不思議と胸に残った。


 あなたは美しい。


 あなたは優しい。


 あなたは特別だ。


 そんな言葉よりも、ずっと確かなものに聞こえた。


 アーヴィンは、エレノアを夢の道具として見ていなかった。


 都合の良い慰めとしても見ていなかった。


 一人の人間として、その在り方を見てくれている。


 エレノアはその日、久しぶりに穏やかな気持ちで家に帰った。


 まだ恋ではなかった。


 胸が跳ねるようなときめきもない。


 けれど、彼のそばなら、自分を粗末にせずにいられるかもしれない。


 そう思った。


 それが、エレノアとアーヴィンの始まりだった。


※後編は本日21時30分頃公開予定です。

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