page2:カフェ・マグノリア
【カフェ・マグノリア】
あの波。
私は、以前にも感じたことがある。
あの感覚で思い出す光景は、"崩壊"だ。
崩れる博物館。悲鳴、怒号、そして波の気持ち悪さ。
今まで、記憶のどこかで蓋をされていたのだろうか。
そして、その崩壊の中心には、幼い少女がいる。
その少女は、どんな顔をしていたんだっけ…
記憶の少女がこちらへ顔を向けるその瞬間、私の意識は引き上げられた。
………。
……。
…。
香り。
よく知った、でも、少しだけ違うような。
目を開くと、優しい白色の壁紙と天井。空気を循環させるブラウンのシーリングファンが穏やかに回っている。
ゆっくりと身体を起こす。
衣擦れで今は布地のソファの上だということがわかった。
「ここ、は…」
ぼそりと呟きながら部屋を眺める。
家の中のリビングのようだ。部屋は明るいが、外はもう日が沈んでいる。
奥を見ると、テーブルの奥に少し無機質な厨房が広がっているように見える。
そこから、知っている人がひょっこりと顔を覗かせた。
「…ああ、目覚めましたか。少しお待ちを」
楠木、と呼ばれた男だ。
彼の顔を見て、考えを巡らせる。
何故、ここにいる。
ここはどこ。
さっきまで、何してたっけ。
自分の服装を見ると、今日の服装から上着のカーディガンを省いたものだ。バイト中のエプロンもない。
バイト。その様子を思い出そうとすると、少し頭痛がした。
こめかみを指で押さえていると、楠木さんがトレーを持って来た。
「落ち着かないでしょうが、まずはこちらを」
テーブルに、水が入ったグラスと、湯気の立つカップが置かれた。
「…ありがとう、ございます」
はじめに水を飲み干し、潤ったところでカップを持つ。
コーヒーだ。落ち着く香りがする。
一口すすると、少し驚いた。
「…ブラジル、ですか」
正面に腰掛けた楠木さんは、少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
「さすがですね。あのお店とは違う豆かもしれませんが。実は私も、ブラジルが一番好きなんです」
楠木さんはあの女子高生と話していたときよりも、少しゆったりと話していた。
きっと、意図的なんだろう。
「でも、ブレンドを注文されてましたよね」
「ええ。理由は…なんだと思いますか」
「あなたも、コーヒーをよく飲む人だか、ら…」
おかしい。
このコーヒーはとても美味しい。
ならば、何故この人はわざわざあのカフェに通っている?
そして、何より。
「どうして私の名前を」
自分の胸元を見る。ネームプレートは無い。付ける店もあるが、あの店では付けない。
グルグルと頭の中で疑問や記憶が回る。カラカラと音を立てている気もする。
カップを置いて、楠木さんを見た。
「あなたは、どうしてあの店に」
楠木さんもカップを置いて、こちらと視線を合わせる。少し目を細めて口を開いた。
「順を追って話しましょう…澄空さん、あなたは最近…いや、もしかしたらずっと前から…自分自身に何か不思議な変化が起きた、と感じていませんか」
例えば、と彼は続ける。
「聞こえるはずのない距離から、鮮明な音が聞こえたり、人の些細な機微に気づいてしまったり」
「っ…」
息を呑んだ。
「澄空さん、あなたはさっき答えました。私が何故ブレンドを注文しつづけたのか。その答えは、私はあなたとは話していません」
「…ズボンの裾も、私を試したんですか」
『ズボンの裾が捲れているのを教えた方がよかったでしょうか』
あの時の、楠木さんと女子高生の会話。
あれはきっと、彼の策略だ。
楠木さんは頷く。
「そうです。あの時、私たちは今の半分の声量も出していない。そして距離は今の距離の何倍もある。普通、気付けません。でも、あなたは気づいた」
「…単に耳がいいことと、私がここにいることになんの関係があるんですか」
少し語気を強めてしまう。
しかし、楠木さんは態度を変えず、ゆったりと話した。
「単に、で済まないからここにいるんです。決定的なのは…あなたも感じたでしょう。あの不審な男。あの男と、"ぶつかりませんでしたか"?」
不審な男。その話題が出てようやく思い出す。
「あの、波のような」
「そのように表現する人もいます。あれが決定的でした。寶川さん…あのセーラー服の女子があなたに色々質問した時も、あなたから出ていたものです」
おすすめを聞かれた時だろうか。私には、頭痛しか感じられなかったが。
楠木さんは再度カップを口に運ぶと、わざとらしく冷ましながら言った。
「簡単に言うと、あなたは一般的な人とは違う。だから、その違いを知っていただくために、少し時間をいただきたいのです」
柔らかな物腰のわりに、有無を言わせぬ圧があった。
その圧で思い出した。
「…"ローマー"。あの男が言っていました」
「はい。あなたを含む、一般的ではない人を指す呼称の一つです。呼称がある程度には、全世界にいます」
そんな…今まで暮らしてて全く気がつかなかった。
…なんだ?
何が起きている…?
困惑する私に、楠木さんは笑いかけた。
「…そろそろ冷めてしまいます。冷めても香りが分かりやすくなってまた違った味わいが楽しめますが…今のうちに、飲んでください」
私は返す言葉を持たないまま、それでも口を塞ぐようにカップを運んだ。
美味しい。
温度が下がった代わりに、ナッツのような香りがより一層感じられる。
その愛すべき"いつも"にすがるように目を閉じると、楠木さんがつぶやいた。
「…いったい、コーヒーの味わいを愉しめるような人のどこが一般的じゃないんでしょうね」
「…え」
「…いえ、独り言です。あなたに話してほしい人がいます。カップはそのままテーブルへ。ついてきてください」
そう言うと、楠木さんは立ち上がる。私がカップを傾けた角度で飲み干したことをわかってのタイミングなのだろう。
言われるがまま着いていくと、つっかけのようなサンダルを履いて厨房を通り、知っているような空間に出た。
「カフェ…?」
厨房はカフェのカウンターにつながっていた。そこからは店の入り口やカウンター席、2つと少なめなテーブル席を眺めることができた。
そして、そのテーブル席の一つに制服姿が2人、向かい合うように腰掛けている。
一人はバイト先で見たセーラー服の高校生。もう一人は、誰だろう。こちらはブレザータイプの制服を着ている。下手したら中学生にも見えるけど。
ブレザータイプの方がこちらに気付き、口を開いた。
「あ、目が覚めたんだ…碧、ありがとうね」
彼女の視線を追うと、楠木さんに向いていた。楠木碧、それが彼のフルネームのようだ。それにしても、あの外見の女の子に名前呼び捨てで呼ばれる楠木さん…どんな関係なんだろうか。
「いえ。澄空さん、彼女は神蔵時音さん。この店のマスターです」
「マっ、マス、ター…?彼女が、ですか」
「はい。彼女が。そして、もう一人が…先ほども会いましたね。寶川澪莉さんです。アップルパイの」
寶川さんはその紹介に少し顔を赤くしつつ、席を立って会釈をする。
マスターは手で席を示す。そこに座れと言う意味だろう。
寶川さんとすれ違うようにして、その席に座る。
マスターはこちらに一度笑顔を向けたあと、楠木さんと寶川さんに視線を向けた。
「2人も一応同席してね。瑞葉ちゃんの隣に澪莉ちゃん、私の隣に碧で」
言われた2人はそのようにして座り、このテーブル席が埋まった。
「さて、改めまして、ここのマスターの神蔵時音です。時音って呼んでね。よろしくね、瑞葉ちゃん」
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・CASE FILE 01: 狼男は完結しています。全16話完結(7/1完結予定)。
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