1-8.パパと工房
翌朝のリモナは爽快に目覚めた。
昨夜はベッドに入ってすぐに寝れたし、いい匂いの爽やかな風に包まれて、すごく寝心地が良かった。
いつもの作業服に着替えて、背の中頃まであるシナモン色の髪を雑に編み込む。
昨日はめちゃくちゃ刺激的で楽しかったな。空を飛んだり竜巻に乗ったり、ミラージャの町を眺めたり。
ああ、あの町並みを何かに残せたら。
こんなときに絵描きの趣味があったら良かったんだけど、何か考えよう。
リモナはご機嫌に食卓についた。
他のみんなは、やけに静かだった。
「みんな、どうしたの? 何かあった?」
リモナは、視線が定まらないお姉ちゃんと、両手を揃えてパパを伺うママと、難しい顔をしたパパを順に見た。
パパが咳払いした。「リモナ、もう十分堪能しただろう」
リモナは首を傾げた。「何のこと?」
「もう夢から覚める頃だ」パパは構わず続けた。
「パパ、何言ってるの?」リモナは苦笑まじりに返すが、ママが鋭い目を向けて来たので神妙にした。
「リモナ」パパは真剣な目を向けた。「指輪を捨てなさい」
リモナは目をぱちくり瞬きした。
パパと、ママとお姉ちゃんを順に見渡す。
重たい空気を、リモナは笑わずにいられなかった。
「もう、パパってばまだそんなこと言ってんの?」
「リモナ」ママが嗜めた。「お父さんは真剣なのよ」
「でも大袈裟だよ。アズも指輪も別に何もしないし」
「それはお前が——っ」パパは言いかけて口つぐんだ。
リモナは眉をひそめた。
意味が分からなくてお姉ちゃんを見ると、お姉ちゃんは目を逸らした。
パパはもう一度咳払いした。
「とにかく、あの魔神は危険だ。町に危害を及ぼすし、お前も危ない目に遭っただろう」
「あたし、この通りピンピンしてる」リモナはムッとパパを睨む。「それにアズだって昨日、水車の歯詰まり取ってくれたんだよ。パパの書類だって——」
「父さんの書類は飛ばされたんだ、あの悪魔のせいで」
「でもパパがアズに嫌がらせしたからじゃん!」
「父さんがどれだけ心配したと思ってるんだ!」パパはドンと食卓を叩いた。「お前があの悪魔に攫われたかと思うと……」
パパが激しく咳き込んだので、ママが背中を撫でて水を飲ませた。
リモナは助けを求めてお姉ちゃんを見るが、お姉ちゃんはやっぱり目を合わせてくれない。
「昨夜、お前が寝た後に教会に行ったんだ。お前が帰って来たことを知らせに」落ち着いたパパは、ゆっくり言う。「そしたら変な噂が流れてて」
「パパが大騒ぎしたからじゃないの?」リモナは呆れて返すが、再びママに怖い顔された。「どんな噂なの?」
パパは水をもう一口飲んだ。「お前が……あの悪魔に誑かされて……堕落したって」
なにそれ。
リモナは、ママとお姉ちゃんを見た。昨夜一緒に帰って来たのに。
ママはリモナと目を合わせて、分かってると瞬きした。
リモナはパパに目を戻した。「パパ、それ聞いて何て返したの?」
「否定したさ」パパは首を振った。「だがリモナ」
「ならもういいよね。噂なんてどうせすぐ無くなるし」
「そういうことじゃない、リモナ!」パパはリモナの腕を掴んだ。「ただでさえ、お前は変わり者で浮いているんだ。そんな噂が流れたら、もうお前の評判が——」
「パパ、そんな風に思ってたの?」
パパはハッと口を閉じた。娘の顔を、そっと見る。
リモナは、茶色のまんまる目を見開いて、悲しそうな顔をしていた。
次の瞬間、リモナはパパを睨みつける。思いっきりパパの腕を振り払い、家を飛び出した。
リモナにつけた風から、ピリピリした空気が伝わってくる。昨夜のこともあり、アズラクは気になってリモナのところへ行こうとした。
すると道の向こうから、眉間にしわを寄せたリモナが、ずんずん歩いてきた。
「リモナ、どうしたんだ?」アズラクは飛びながらリモナに近づいた。
リモナはアズラクを見上げると、茶色のまんまる目を揺らした。
何があったんだ?
リモナはアズラクの腕をぎゅっと取った。
「アズは悪くないんだよ」
そうぶつぶつ言いながら、浜辺の工房へ向かう。
ということは、リモナのこの不機嫌は俺が絡んでるんじゃないのか?
工房に踏み入れると、リモナは入り口で立ち止まった。右へ左へ工房を見渡す。
「リモナ、どうし——」
リモナはくるっと振り返り、キラキラした目でアズラクを見上げた。
「これ、アズが片付けてくれたの?」
「あ……あぁ」そんなこともしてたな。「怒ってたんじゃないのか?」
「これ見たら吹っ飛んじゃった」
きれいになった床や、整然と並んだ棚の部品箱を、リモナは嬉しそうに眺める。たまっていた埃や砂も、きれいに吹き払われていた。
リモナは窓際のオレンジのかごに向かおうとして、作業台の上の『新しい失敗作』に目を落とした。
インクがへばり付いたままだった。
「流石にこれは自分でやらないとだよね」リモナは肩をすくめた。
アズラクは首を傾げた。「これも片付けた方が良かったのか?」これは触ってはいけない気がしてたんだが。
「ううん、大丈夫」リモナはかごのオレンジを取ると、皮を剥き、半分をアズラクに差し出した。「アズ、ありがとう」
「どういたしまして」
これくらい、空中に浮くくらい大したことないのに。
アズラクは、オレンジの半分を一気に口に放り込んで、作業台の端っこに置いてある水車の歯車を回した。
リモナはオレンジを咥えたまま手洗い場に消えた。ほどなくして布と別のオレンジの皮を持ってやって来ると、『新しい失敗作』にへばり付いたインクの上で、オレンジの皮を絞った。
アズラクはぎょっとした。「何してるんだ?」
「ひゃひっへ、ひんふほほふほ」
「はあ?」
アズラクは眉をひそめるが、リモナがオレンジ汁で濡れたあたりを拭き始めて察した。
「インク、消してるのか?」
「ほうはほ」リモナはオレンジを咥えたまま、あっけらかんと返した。
アズラクは、インクが拭き取られていくのを見て、羽織を剥ぎ取られたような感覚を覚えた。
あ、でもオレンジとインクが混ざると、こんな匂いなのか。
オレンジでインクを消すという新たな神秘を、アズラクは複雑な気持ちで眺めた。
「うーん、でも落ち切らないなぁ」リモナは、オレンジとインクがついた手で額を拭った。
「落とさないとダメなのか?」アズラクは『新しい失敗作』とインクとオレンジ汁が点々とついたリモナの服を見比べた。
リモナは不可解そうにこちらを見た。「何言ってんの?」
いや、それはこっちのセリフなんだが。
「まぁ、文字盤は字が見えればいいんだけど、ギアと空圧スライダはきれいにしないと動かないしさ」
くうあ? スライダ?
何言ってんだ?
アズラクはリモナの『新しい失敗作』を覗き込んだ。「それ何の機械なんだ? 書類を簡単に写すとかぺぺが言ってたが」
リモナは弾けるように振り返った。「そうだよ、転写機!」はちきれんばかりの笑顔で言う。
「転写機?」これまた新しい言葉だ。「どうやって動くんだ?」
「えっとね、ここにアルファベットの文字盤があるでしょ」
リモナはアズラクの腕を引っ張り、小さな四角いアルファベットが刻まれた部品を指差した。そのうちの一つを押すと、奥でカチッと音が鳴った。アズラクももう一つ押してみる。
「で、このレバーを下げるんだよね」リモナは右上の棒状の金属を下げるふりをした。「するとギアと空圧スライダが動いて——」言いながら歯車と、二本の棒が通った角状の部品がどう動くかを、手を動かして見せる。
このスライダが動き、上からハンマーで細い線を押せば、紙に文字が印字されるらしい。
アズラクは驚いてリモナをまじまじと見つめた。
リモナは得意げに鼻を揺らした。「もう手、痛くならないんだよ」言いながら、また鼻の下にインクが薄くついた。「昨日は失敗しちゃったんだけど」
アズラクにしてみれば、こんな仕組みを考えられるリモナの発想力が、驚きだった。
「すごいな、リモナは。本当に魔法みたい」
「そうだよ、技術は魔法なんだよ! 面白いよね」リモナはにこにこ笑った。「アズの国——時代? はどうしてたの?」
「俺がいたところは、何でもかんでも手作業か、魔法だな、あいつの」
「あいつ?」リモナは首を傾げた。
「何でこれを作ろうと思ったんだ?」アズラクはピアノ線をいじりながら聞いた。
「元々はパパの書類を——」
リモナは言いかけて口をつぐんだ。
オレンジみたいな明るい顔が、みるみる暗くなっていく。
リモナは肩を落として、歯車のインクを布でこすった。
「何かあったのか?」
「パパと喧嘩した」リモナはそっけなく言った。
アズラクは、昨夜やたら騒ぎ立てていたリモナの父親を思い浮かべた。アズラクを相当恐れていた。
しかし、指輪を無理矢理抜こうとしていた以外、悪いやつには見えなかったが。
「何で喧嘩したんだ?」
「なんか、あたしは変わり者で浮いてて堕落してて恥ずかしいんだって」
何だそれは。
そんなことを言うのは、昨夜のミヒャエル神父とかいうやつだけじゃないのか?
「別に分かってるけどさぁ、変わってんのは」リモナはぶちぶち言いながら、スライダを磨く。「腹立つよね、パパだってあたしの発明品めっちゃ使ってんのに」
「他にどんなのがあるんだ?」
「えっとね」
リモナはインクを消す作業を中断し、昨夜アズラクが片付けて棚にしまった紙束へ手を伸ばした。インクとオレンジ汁がベタベタ紙に染みていく。
「これはね、砂がこっちに落ちるとベルが鳴るんだ」紙には砂時計が乗った回転台みたいなのが付いていた。
「こっちはね、蓋開けると中の書類が飛び出すようになってるの」底にバネがついた木箱の絵。
「あ、あとこれはお姉ちゃんの糸紡ぎ。お姉ちゃん使い方下手で使ってくれてないけど」大きな歯車のかみ合わせから、細い線が伸びていた。どうやって動くのかアズラクにはさっぱり分からなかった。
「これは――懐かしいなぁ」
下の方の紙をめくって、リモナは目を細めた。
そこには、小さな球がいくつも溝に入った円柱状の二つの塊が、上下に重なっていた。
「これ、一番最初に作ったの。ママの粉挽き」
「粉挽き?」
リモナは頷いた。「ここの穴に小麦を入れてこっちの紐を引っ張ると、小麦の粉が落ちるようになってるんだよ。ママが腰痛めてたから、パパと一緒に考えたんだ」
リモナは懐かしそうに笑みを浮かべながらも、まとわりつく空気は沈んでいた。
アズラクはリモナの発明品の歴史書を、ぺらぺらとめくった。
それぞれの発明品の中身も想像の域を超えているのに、リモナはそれを家族のために作っている。
こんなに家族のことを思う娘が、アズラクのいた世界にいただろうか?
すると別の空気が流れてきた。
扉が叩かれる。
「もしもし、リモナ。いますか?」
「神父さまだ!」
リモナは扉を開けに行った。
頭頂部に髪のないローブを着た初老の男がやって来た。手に下げたかごから、オレンジの匂いがしている。
神父は工房に踏み入れると、目を見開いてにっこり笑った。「少し見ない間にとてもきれいになりましたね」
「アズがやってくれたの!」
リモナがそう言うと、神父は目を丸くしてアズラクを見た。上から下までまじまじと眺める。
そして、神父は目を和らげた。
「あなたが噂の魔神さんですね」神父は胸に手を当て、頭を下げた。「私はミラージャ教会の神父。あなたの活躍は聞いていますよ」
アズラクも軽く頭を動かした。
この神父は、昨夜の落ち着いていた方の神父だ。あんまり不快な雰囲気は感じなかった。
神父はリモナに顔を向けた。「最近はどんなものを作っているのですか?」
「転写機。見る?」
リモナは神父の袖を引っ張り、転写機の前に連れて行く。先ほどアズラクに話した仕組みを、今度は神父に説明する。
「ミャ~ア<あの神父、ほとんど分かってないにゃあ>」
お前は分かってるのかよ。
アズラクは、窓枠に乗ったペペの隣に並んで、リモナと神父のやりとりを眺めた。
「文字を写す! 素晴らしいですね、きっと写本係の子が喜びます」
「そうだよね。書類書き写すの、手痛くなるもん」
神父はにっこり頷いた。「完成を楽しみにしています。きっとハリルも喜びますよ」
「どうかな」
弾んでいたリモナの声が、一気にしぼんだ。
父親に言われた言葉が、相当堪えているらしい。
「神父さま。あたしって堕落してるの?」
神父は息を飲んだ。「どうしたのですか、急に」
「だってそんな噂があるって、パパが……」
それを聞いて、アズラクは昨夜のとんがり屋根で聞いた話を思い出した。あのミヒャエル神父とかいうやつが言いふらしてるのか?
「詮無い噂ですよ」神父はため息をついた。「あなたは確かに少し変わっていますが、思いやりのある善良な市民です」
「ミャア<リモニャは変わってるにゃあ>」ペペが冷やかすが、人間二人には伝わっていない。
「それにアズのこと悪く言うし……」
俺?
アズラクの耳がピクリと動いた。
神父はちらりとアズラクの方を見てから、リモナの背中を優しく叩いた。「皆、見慣れないものを見て、動揺しているだけです」
「そうなの? でもパパは……」
「リモナ」神父はリモナの前に回り込み、微笑みかけた。「父親とは、時として過剰に心配するものです」
リモナは神父を見上げた。
神父は両手を広げた。
「時間を与えてあげなさい。そうすれば、あなたのことも――」神父はアズラクへ視線を向けた。「彼のことも、きっと分かってくれますよ」
リモナは、神父とアズラクへ順に視線を向け、頷いた。「そうだよね」
神父はにっこり微笑んだ。
リモナのオレンジのような笑顔がよみがえった。
「そうと決まったら、早くこれ、完成させないと」リモナは腕まくりした。
「そうそう。あなたが喜ぶと思ってこれを持ってきましたよ」
神父は持ってきたかごを作業台に置いて、かぶせていた布を取った。
やはり中にオレンジが入っていた。
「また教会に来てくださいね。今度は彼も連れて」
神父はそう言って、リモナの工房を後にした。
リモナは神父が置いて行ったオレンジをもの欲しそうに眺めつつも、渋い顔を転写機に向けた。まだインクの汚れが残っている。
アズラクはいいことを思いついた。「なぁ、それどこまで落とせばいいんだ?」
リモナは茶色のまんまる目を丸くした。「ギアの部分とハンマーの周り」
「ならこうしようぜ」
アズラクが腕飾りの付いた手をじゃらじゃら動かすと、オレンジの皮が浮き上がる。器用に歯と歯の隙間にオレンジ汁を絞り、局所的に風が吹く。するとインクがきれいに消えていた。
リモナは驚いた顔でアズラクを見上げて、目をキラキラさせた。「すごいね、魔法!」
アズラクはにやりと笑った。
「ここはこいつらに任せようぜ」神父が置いて行ったオレンジを二つ手に取る。「いいもの見せてやる」
「いいもの?」
「からくり時計の裏だ」
リモナは目を見開き、そして大喜びした。




