1-9.ミヒャエル神父
紺色の頭に異国風の羽織を着た人形の化け物が、リモナと一緒に空を飛んでいく。その光景は、あまりにも異様で不気味で、神の教えに反していた。
ミヒャエル神父は、飛び去って行く二人を、息を詰めて眺めていた。
あんなものが存在していいのか?
あんな……。
ミヒャエル神父は頭を横に振った。
私としたことが。目が離せなくなるとは、あの恐ろしい魔力にやられたのか?
ミヒャエル神父は、小さくなっていくリモナの背中を睨んだ。
あの娘だ。
あの娘がこの不浄を持ち込んだ。
前から気に入らなかったが、とうとう本性を出したらしい。
ミヒャエル神父は緑色の瞳を細めながら、リモナの工房に近付いた。
しかし窓から見えた光景に、ミヒャエル神父は恐れ慄いた。
オレンジの皮が、一人でに浮いて動いている。
「悪魔の所業だ……」
しかも工房から漂うピリピリした匂いは、頭をくらくらさせる。
ミヒャエル神父は、胸元の十字架をぎゅっと握りしめ、後ずさる。
そもそもこの工房自体、あってはならないものだ。女がからくりを作る? まったく秩序に反しているのに、この町はそれを看過しているどころか依存している。
狂っている。
数ヶ月前にミラージャの町に赴任して以来、ミヒャエル神父はこの町の堕落した空気を嫌っていた。
海に面した町だというのに、危機感のかけらもなければ、女が大きな顔で遅い時間まで歩いている。このオルテンザ王国が一体どういう状況か分かっていないのか? イルサームと戦争しているのだぞ。それなのにあの老いぼれ神父は腑抜けて対処しないし、あんな小娘をのさばらせている。
なんだ、この悪魔の装置は。
浮いているオレンジの皮だけでもおぞましいのに、あの娘はまた訳の分からない堕落のがらくたを作っている。挙げ句の果てにイルサームの魔物だ。
まったく気に入らない。
「ニャーアオ」
黒い猫が、工房の棚の上からふてぶてしい目をこちらに向けている。これまた汚らしい野良猫だ。
ミヒャエル神父は、鼻を摘んだ。
すると砂を踏む音が聞こえてきた。
「神父様……」
ハリルだ。
役場の中間官吏と聞いているが、この男もまったく冴えない上に、娘を管理出来ていない。
「娘が、どうかしましたか?」ハリルが恐る恐る尋ねる。
「あれをごらんなさい」ミヒャエル神父は宙を浮いて動くオレンジの皮を示した。「あなたの娘は大変な状況に瀕している」
ハリルはオレンジの皮を見て引き攣った声を上げた。しかしよく見ると、オレンジの皮が通ったあたりから、インク汚れが消えていく。
ハリルはどう判断したら良いか分からなかった。
「いいですか、ハリル。あなたの娘はイルサームの魔物につけこまれている」
「そう……なのでしょうか」
「元々つけこまれる要素しかなかった。この工房を見たら一目瞭然でしょう」
ミヒャエル神父は忌々しく顔を歪めた。
この工房のありとあらゆるものが気に入らない。
「この工房とあの魔神に……どういう関係が?」ハリルは困惑した。
まったく、これだから田舎の人間は。
呆れてものが言えない。
「敬虔で善良な市民であるならば、親の言うことを聞き、神に尽くすものです」
「し、しかし、娘は町に貢献しています」
「本当にそうでしょうか?」ミヒャエル神父は鋭く見返した。「町に尽くしていると見せかけた女子が実は魔女だった、なんてことは、珍しくありません」
「ま、魔女!?」ハリルの声はひきつった。「なんてことを言うのですか! うちの娘は――」
「あくまで前例の話ですよ」ミヒャエル神父は肩をすくめて言った。「ただ、都市部では疫病が蔓延したり火災が広がったりすると、大抵世の理に外れたものが原因だったりしますからね。ミラージャは近くの都市から離れているから実感が湧かないかも知れませんが」
ハリルの顔が見る見る青ざめていく。
ミヒャエル神父は内心ほくそ笑んだ。
異端を恐れないほど鈍感ではないのは、まだ好ましい。
「しかし、娘は……」
ハリルは工房の中へ視線を移した。
リモナは確かに変わっているが、町の人は娘を疎んではいない。浮いている等と言って今朝あの子を傷つけてしまったが、ミラージャの町はリモナを愛しているはずだ。
まさか、そんな風にあの子が見られることは――。
「神はすべて見ていますよ」
ミヒャエル神父は低い声で言って、その場を後にした。
去り際に見たハリルの顔は、色を無くしていた。
ふん、これでいい。
これであの小娘は大人しくなるだろう。
ミヒャエル神父は、リモナが消えていった方を見上げた。
次はあのイルサームの魔物だ。
あれを退治し浄化したら、私の活躍は知れ渡ることだろう。そうなればこんな片田舎とはおさらばだ。
しかし、あの魔物を思い出すと、心臓が激しくなり身体が熱くなる。
ミヒャエル神父は眉間にしわを寄せた。
なんと恐ろしい魔物だ。




