1-10.異端加速
リモナとアズラクは、丘の上の白亜の塔の屋根に、二人して寝そべっていた。
「高いところで寝そべるの、こんな気持ちいいんだね。景色もいいし」
「俺にもまだ自慢できるものがあるとすれば、こういう使い方だな」アズラクは寝ながら足を組んだ。
「いいじゃんこれも」リモナはごろんと寝返りを打ってアズラクの方を向いた。「からくり時計の裏なんてなかなか見れないし、アズ来てから新しいことめっちゃ知った」
アズラクはやや目を見開き、ほんのり顔を赤くした。「リモナが望むなら、どんなところでも連れて行ってやるよ」
「でもミラージャの町もまた見れたし、からくり時計の裏も見ちゃったからなぁ」
「こんなのでいいのかよ」アズラクは上体を起こした。「もっと大がかりなからくりの街とかさ」
リモナは想像してみた。
そういえば前にミラージャの町に来た都会の人が、ここよりももっと複雑で美しいからくり時計があると自慢してたっけ。大きな街に行ったら、からくり技師とかもいっぱいいるのかな?
ほんのり香ってきた焼き魚の匂いも相まって、リモナは思わずよだれを垂らした。
アズラクは笑った。
屋根の上にもう一度横になり、海の向こうを眺める。
「なぁ、ミラージャってどこの国?」
「ん? オルテンザだよ。町の外行ったことないけど」
「じゃあイルサームは?」
リモナは水平線を指さした。「海の向こうの国らしいよ。アズ、あっちから来たんだっけ?」
「いや、分からねぇ。何千年も前だし」
アズラクもパパも昨日からそんなこと言ってるけど、何千年も前の世界がリモナには想像もつかなかった。アズラクの反応だと、からくりもない時代みたいだし。
あ、でも工具箱持って行ったら、色々作れたりするのかな? あぁでも旋盤とかあるかなぁ?
考えていたら、いよいよ焼き魚の匂いが苦しくなってきた。
「お腹空いたね」
「なんだよそれ」
二人は塔の屋根から降り、坂を下って焼き魚の匂いが香ばしい浜辺の食堂に向かった。
すれ違う人たちが、リモナとアズラクをまじまじ見た。
張り詰めた空気を、アズラクは感じ取った。
「リモナ……」昨夜の鵜焼きの娘が、アズラクをちらちら見ながら寄ってきた。「あんた、ちゃんと無事だったんだね」
ちゃんと?
この娘にはリモナを家に返した話を昨夜のうちにしたはずだが。
「なんのことだっけ?」リモナは目を丸くした。「今日は魚の日だから、鵜焼きはまた今度ね」
鵜焼き娘がそわそわ目を泳がせる一方で、リモナは鼻をひくつかせて焼き魚の匂いに向かって行く。
この気分の良くない妙な空気。
昨夜のとんがり屋根の煙突から伝わってきたのと似ている。
——白昼堂々と歩いてるぞ。
——神父が言うにはイルサームの呪いとか。
——ほーかっこいいなー。
——すげぇ色気だな。
——ばかっ見ちゃだめ。リモナみたいになるよ。
風が運ぶ噂話に、アズラクは眉を顰めた。通ってきた道を振り返ると、通りに出ていた町の人間があからさまに目を逸らした。張り詰めた空気は隠しきれていない。
すると羽織の袖を引っ張られた。
「よそ見してると転ぶよ」
「あ、ああ」人間みたいに転ぶことはないが。
「今日はからくり時計も見れたし、いい一日」リモナは、んーっと両手を伸ばした。「お昼食べたら、転写機直すんだ。今ならいける気がする!」
よだれを垂らしながら歩いて行くリモナの後ろ姿を、アズラクはなんとも言えない気持ちで追った。
嫌な風が、背中を撫でた。
「ねぇ、この吊り干し糸巻き機、変な音してる。多分部品噛んでて危ないよ」
食堂で焼き魚を平らげると、店の外の魚干してある紐の端にあるからくりを見て、リモナが言った。
「そ……そうなのか? でも普通に問題なく使えてるが」店主は目を泳がせた。リモナたちが店に行ったときからこんな感じだ。
「ダメだよ、ほったらかしちゃあ。変な音ってのは機械の悲鳴なんだから、ちゃんとお手入れしないと」
店主の不自然な様子を意に介さず、リモナは店の壁をよじ登り、からくりを見ようとする。
しかし足を滑らせた。
「わぁあ!」
「あっぶねえなあ」アズラクはすかさず風でリモナを浮かした。
「あ、ありがと」周囲がどよめく中、リモナはアズラクを見上げて言った。
「どこがおかしいんだ?」
アズラクはリモナと一緒に紐を引っ張ってるからくりの位置まで浮き上がる。周囲のどよめきが濃くなった。
「多分このあたりだと思うんだけど……」リモナは紐を通している滑車をつついた。
アズラクは自分たちを見上げている町の人間を見渡した。
伝わる空気と聞こえる噂は、さっきの坂道と同じだ。店に来てからもずっとそうだった。
緊張、戸惑い、警戒、恐怖。
昨日よりも濃くなっている。
違和感があるのは、それがリモナにも向いていることだ。
「あ、ここをこうすればいいかな」
リモナは片手で紐を持ち上げ、滑車を回している歯車をググッと指で押した。
すると紐が滑車からずり落ち、干していた魚が宙に舞う。
「わぁ、やばっ」
リモナは片手で魚へ手を伸ばした。
いや、無理だろ。
アズラクは風で魚を動かし、吊り紐に戻す。地上から伝わる空気が、更にピリつく。
「どこをどうすればいいんだ?」不快さを感じながらも、アズラクはリモナに聞いた。
「紐をこうして、これをこうしてちゃんと噛ましたいんだけど」リモナは指を動かして雑に説明した。
「こうすればいいのか?」アズラクは部品全部を浮かして、滑車の間に紐を引っ掛けて歯車を戻した。もちろん一切手は動かしていない。
「あ、そうそう!」リモナは両手を叩いた。「すごいね、これ結構重いんだよ!」
そんな重い部品をどうやって組んだんだ?
アズラクはリモナを地上に下ろした。見ていた人間がいちいち反応する。
リモナは構わず店主の方へ賭けて行った。「紐引っ張ってみてよ! きっと前より動きスムーズだよ」
しかし店主は硬い顔でリモナと吊り紐を交互に見た。
「もう疑り深いなぁ。ほら、来てよ」リモナは店主の腕を引っ張った。
店主は——リモナの手を振り払った。
リモナは驚いて店主を見る。
「あ……た、助かるよ」店主は目を逸らして、吊っている魚を見上げた。「あれ全部、持ってけよ」店主は定まらない声で言う。
リモナは目を丸くした。「え、いいの?」振り払われたことも忘れて、嬉しそうな笑顔が広がる。「ママ喜ぶだろうなぁ」
「あ、ああ……俺用事あるから、さっと取ってて」店主はそそくさとその場を離れた。
——あんなの食えるわけないだろ。
——あれで喜ぶとか、リモナはもう……。
そんな声が聞こえてきた。
「ねぇアズ」リモナがアズラクの袖を引いた。「流石にあれ直で持つのやだから、運んでくれない? ウロコ刺さるし」
アズラクはリモナを見た。
嬉しそうに涎を食っている。食べたばっかなのに。
アズラクは周囲を見渡してから、魚に向かって手を動かした。吊られていた魚が全部、一瞬にして風に消えていく。
恐怖が更に濃くなった。
「き……消えた!?」「黒魔術か!?」
くそっ。
一瞬で済まそうとしてもダメなのか?
すると間近から急速な怒りを感じた。
「アズ! 何で消しちゃうの!」リモナはアズラクを叩いた。
「え……」アズラクは困惑した。「超特急で工房に飛ばしただけだが」
するとリモナはパッと眉を上げた。「そうなの? ごめん、怒って。じゃあ早く帰って干さなきゃ」
リモナはアズラクを引っ張って、店の前を離れた。
気持ち悪いざわめきが、広がっていくのがアズラクには伝わった。
——これ、気持ち悪くてもう使えねえよ。
——早く壊そうよ、こんなもの。
アズラクは反射的に振り返った。
町の人間が一斉に目を逸らす。
何にも隠せてねぇんだよ。
アズラクは、漂う空気と聞こえてくる噂に目を細めた。
これはきっと、普通じゃない。
***
役場にはひっきりなしに町民が駆け込み、役場の中は噂話で騒がしかった。
「あぁ、やたらと大袈裟だなぁ。特に何かあったわけでもないのに」同僚が面倒臭そうに書類を仕分けた。
ハリルは俯きながら、曖昧な相槌を打った。
昨日よりも噂が大きくなっている。ただの噂だけで収まればいいのだが……。
しかしハリルは、今朝娘の工房の前でミヒャエル神父が言っていたことが、頭から離れなかった。
「ハリル。ちょっと来い」
廊下の向こうで町長が呼んだ。
ハリルは町長室に向かった。
「ハリル、お前のところで飼っているとかいう魔物だが——」
「いえ、飼ってはいませんで——」
「どっちでもいい。とにかくなんとかしろ」町長は面倒臭そうに襟を引っ張った。「昨夜はうちも大変だったんだから」
曰く、昨夜町に現れた指輪の魔神を見た町長の娘が、それ以来塞ぎ込んでベッドから出られなくなったらしい。妻が言うには、あんな堕落の化身を見た自分は婚約者に捨てられると喚いているそうだ。同じく妻も騒いで落ち着かなかったとか。
「挙げ句の果てに町の連中がうちに来るもんだから、家内がヒステリック起こしてさ」町長はあくびを噛み殺して言う。「お前も娘の心配があるだろう?」
まったくもってそのとおりだ。
上の娘には今、縁談話が来ている。あまり変な噂は立てたくない。リモナがただのからくり好きの変わりものなら話は簡単だったのだが……。
「とにかく今日明日中に解決しろ」
そう言われて町長室を後にしたはいいが、果たしてどうしたものか。リモナは指輪を手放そうとしないし、魔神は確かに今のところ悪さをしてはいない——昨夜、娘を抱えて飛び立っていたのは肝が冷えたが。
しかし、イルサームの呪いやリモナの堕落の噂が、あまりに広がってきている。
魔女……。
ミヒャエル神父の言い様はあんまりだが、今の噂は不穏な響きを帯びている。仮にそんなでたらめが出回ったら、リモナは……。それから家内や上の娘は——。
いや、そんな噂にはならなくとも、このままではリモナは嫁の貰い手がなくなるのでは。
そんなことを思いながら、廊下の窓へ視線を向けた。
漁船がゆっくり横転するのが見えた。
坂道を、町民が駆け降りて行く。
女子供が走って行く様を見て、ミヒャエル神父は、眉間に皺を寄せた。
「何かあったのですか?」老神父が、近くにいた町民に尋ねた。
「船が……船が転覆したとか……」婦人が答えた。
「なんと」老神父は目を見開いた。「それは大変ですね。神のご加護がありますように」
老神父は人々が向かう先について行く。
ミヒャエル神父も同様について行こうとしたが、道端で青ざめた顔で座り込んでいる婦人を見つけた。腕には赤子を抱いている。
「神父様。私は後から向かいます」ミヒャエル神父はそう言うと、婦人に歩み寄った。「どこか具合でも?」
「夫が……」婦人は言いながら赤子を抱きしめた。
まだ状況も分からないのに、これだから女は。「落ち着きなさい。神のご加護を信じるのです」
「し、神父様。これもあの悪魔の……仕業でしょうか?」別の町民が尋ねてきた。
「今日見たんです……魚が浮いて……」と言うのはまた別の男。
「あんな恐ろしいけだものが白昼堂々と町を歩いて……外に出られやしません」言いながら寄ってくる女。
町民から集まる噂への恐怖と縋り付くような眼差しに、ミヒャエル神父は戦慄した。
この危機感のかけらもなかったミラージャの磯臭い町に救いがあるとすれば、町民が神を信じ、異端を恐れる心を忘れていないところだ。
「皆さん」
ミヒャエル神父は優しい声で町民に話しかけた。
「皆さんの恐れは正しい。そしてそれを思うと、とても心が苦しみます」
胸に手を当てると、町民は両手を合わせて息をついた。
ミヒャエル神父はゆっくり見渡す。
「教会としてはなんとかしたい。しかし相手の力は計り知れない。皆さんのお力が必要です」
「な……何をすれば?」一人が尋ねた。
「二つあります」
ミヒャエル神父は低い声で言った。
「一つは、からくり。悪魔を寄せる道具を壊すのです」
町民がざわめいた。「しかし、そんなことをしたら不便に——」
「おや、神に背きますか?」
ミヒャエル神父は言った男へ視線を向けた。
町民は張り詰めた顔で口つぐんだ。
「もう一つは……?」別の町民が尋ねた。
ミヒャエル神父は優しく微笑んだ。




