1-11.イルサームの魔物
不穏な風が吹き、カモメが騒いでいる。
——あの魔物のせいだ。
そんな叫び声が聞こえ、アズラクは窓の外を見た。
軒先に干した魚をぺぺが捕まえようと奮闘している。
「ミャア! ミャア!<くそっくそっ。逃げるにゃあ!>」
「お前さっき一匹食ったろ」アズラクは風を吹かせて魚を揺らした。
「ニャアアア!<それとこれとは別にゃ!>」
アズラクは吊り糸から一匹魚を外して、ぺぺの上に浮かせた。ぺぺは何としても捕まえようと、ジャンプする。それを窓の外の風に任せ、アズラクはオレンジを手に取り剥き始めた。
転写機に真剣な目で向き合うご主人を眺める。
工房に帰ってきてから、魚の処理をアズラクに丸投げして、リモナはこんな様子だった。
思えばからくり作りしている姿は初めてだ。昨日はアズラクの魔法にずっと興奮していたし、町のからくり修理ももう少し緩かった。
それでもぶつぶつ言いながらコロコロ変わる表情を見ているのは、全く飽きなかった。顔も手もインクだらけだし。
本当に、好きなんだな。
こうして新たな魔法が生まれるのかと想像すると、アズラクも楽しみになってきた。
オレンジの粒をまとめて口に放り込み、窓の外へ顔を戻した。
誰かが近づいて来る気配がした。
扉がノックされる。「リモナ? 入るよ」
入ってきたのは、リモナの姉だった。
リモナの姉は、部屋の奥にいるアズラクを見て、不安と恐怖に身体を揺らした。
「お姉ちゃん。どうしたの?」
リモナは手元に目を戻した。
右手にレンチ、左手にピアノ線。手が離せない。
仕方がないので、アズラクは風でそのままの状態を維持した。
「手離して良いぞ」
リモナは恐る恐る手を離す。
レンチがありえない姿勢で止まり、リモナの姉は息を飲んだ。
姉の反応に構わず、リモナは嬉しそうに姉に近づく。「どうしたの?」
リモナの姉は後ずさった。「いや、えっと……」
「ねえねえ、それより見てあれ!」リモナは窓の外を指差した。「魚いっぱいもらってきた!」
リモナの姉は、窓の外で魚が猫の上で浮いているのを見て、顔と声を引き攣らせた。
「お姉ちゃん今から帰るなら、あれ持って帰って——」
「持って帰れるわけないでしょ!」
リモナの姉は数歩後ずさった。
困惑する妹を睨みつけながら、アズラクを指差した。
「あんた、あの人をどうにかして! 指輪か何か知らないけど、早く捨ててよ!」
「どういうこと?」リモナの声は少し沈んだ。
「昼間、仕立て屋で色々聞いたの! あの人は悪魔だとか、イルサームの呪いだとか!」
そればっかりだな。
アズラクは呆れたように眺めた。
リモナは眉を顰めた。「お姉ちゃんまでそんなこと言うの? アズは別に——」
「船が! 転覆したの!」
リモナの姉は、悲鳴のように叫んだ。
リモナはアズラクと顔を見合わせた。
なるほど。
さっき聞こえてきた叫び声はそれか。
「俺は何もしてない」どうせそんな話になっているのだろうが。
「そうなの……? でもあなた……」リモナの姉は、窓先で浮いている魚に目をやった。
「アズじゃないよ」リモナは姉をまっすぐ見た。「ずっとここにいたし、アズはそんなことしない」
リモナの姉は、揺れる瞳で妹とアズラクを交互に見た。ゆっくり唾を飲み込む。
「だとしても……やっぱりその人にはどっか行ってもらって」
「なんで?」リモナは姉に一歩踏み出した。「なんでアズが出てかなきゃならないの?」
「なんであんたには分からないの?」リモナの姉は、首を横に振りながら後ずさった。「その人がいると、うちがどうなるか分からないの?」
「お姉ちゃんの理屈のが意味分からない! なんで? アズは何もしてないどころか、色々手伝ってくれてるんだよ?」
「でも……! それでうちが堕落の烙印押されていいの? 私の縁談は?」
「なにそれ!」
リモナは両手に拳を握って更に詰め寄った。
リモナの姉は妹を無視してアズラクに向き合った。
「お願い、あなたなら分かってくれるでしょう? あなたがいるとうちの家族が危ないの」
「お姉ちゃん!」
アズラクは、リモナと姉を交互に見た。
リモナの姉の表情は、真剣だ。
彼女の理屈は理解できる。ありもしない噂で家系が潰れるのは、何千年前に嫌と言うほど見てきたし、アズラクもその一端を担ったこともある。
しかし——。
アズラクは、リモナの右の中指に嵌ったサファイアの指輪を見た。仮にリモナが指輪を捨てたとして、それだけで収まるのか?
「その、イルサームの呪いだとか言ってるのはどいつだ?」
窓の外からは、不快な風と声が絶えず伝わって来る。工房に帰ってきたときの不愉快な残り香は、だいぶ薄まったが、まだ微かにする。
「町の人が……」リモナの姉はぽつりと言う。「ミヒャエル神父が言ってたんだって……」
「ミヒャエル神父!」リモナは叫んだ。「あの人、いつもでたらめじゃん!」
「でもあの人、世の中のことに関して詳しいし……」リモナの姉はゆるゆると扉側へ後ずさる。「と、とにかく、分かったでしょう?」弱々しくアズラクを見た。
アズラクは狼のような青い目を細めた。
「リモナ。俺ちょっと出る」
「え! なんで?」
「すぐ戻る。作業続けてろ」
戸惑うリモナをよそに、護衛用の風を残してアズラクは窓から飛び出た。
***
ミヒャエル神父は、教会の庭になったイチジクを手に取り、齧った。甘く熟した果汁が、口に広がる。
思いの外、ことはうまく運んだ。町民は早速家の中のからくりを壊し始めている。
これでよい。あの老いぼれ神父には分かるまい。これが有るべき在り方なのだ。
あとは予定時間になるまで待つのみ。
思わず笑いがこぼれた。
「これで町は救われる」
そしてその功績は認められるのだ。
ミヒャエル神父は両手を振り上げた。
「——よぉ」
ミヒャエル神父は反射的に振り返った。「だっ誰だ!」見渡しても人影はない。
「どこ見てんだよ、上だ」
ミヒャエル神父は見上げた。
教会の屋根の縁に、異国風の羽織を着た人形の化け物が、金飾りの付いた片足を垂らして座っていた。夕陽に照らされるその姿は、破滅的だった。
「ばっ化け物め!」ミヒャエル神父は胸元の十字架を青い魔物に向けた。
「なんだよそれ、昨日も見たが。意味あんのか?」魔物は薄く笑った。
それを見て、ミヒャエル神父の心臓が跳ねた。「なんてことだ! 神よ、お守り下さい」胸の前で十字を切る。
青い魔物はミヒャエル神父の前に一瞬で降り立った。
神父は思わず腰を抜かした。草の上を、尻を突きながら後ずさる。
なんてことだ。
目の前に立ちはだかる青い魔物から、目が離せない。ミヒャエル神父がこの魔物を真正面から見たのは、これが初めてだった。
惜しみなく晒した浅黒い肌に、手足につけた金飾り。イルサーム風の羽織が良く似合う。
何よりこの狼のような青い目。
こんな青い目を、これまで見たことがあっただろうか? 油断していると飲み込まれるような、海の色だ。
更にこの魔物から放っている気や匂いは、身体の奥を煮えたぎらせる。
なるほど、町民が騒ぐわけだ。
この魔物は恐ろしく美しい。この私でさえも惑わされるくらいに。
青い魔物は一歩近付くと、ミヒャエル神父の前にしゃがみ込んだ。ミヒャエル神父は、引き攣った声を上げて後ろに仰反る。
「お前だろ、町で余計なこと言いふらしてんの」
「な……何のことだ?」
狼のような青い目が、冷たく光った。「俺を舐めてんのか? 全部筒抜けなんだよ、お前がリモナのありもしない噂流してんのも、町でからくり壊し始めてんのも」
「な……私は何も……」何故知っているんだ? やはりそういう魔物だからか?
「あくまでシラを切るつもりなんだな」
魔物は乾いた笑いを上げた。
ミヒャエル神父は唾を飲み込んだ。
こんな間近に忌むべき悪魔なのに、まるで身体が動かない。それどころかこの鼻を刺す匂いに、頭がくらくらする。
恐ろしい魔力だ。
魔物は薄く歯を見せて笑うと、ミヒャエル神父に顔を近づけた。金飾りをじゃらじゃら鳴らして、顔の横に手を挙げる。
「頭の悪そうなお前に教えてやるよ、神父サマ」
「な……っ私をなんだと……!」
魔物は嘲笑った。
しかし次の瞬間、表情が消える。
「リモナに何かしてみろ。お前を消すことなど造作もない」
ミヒャエル神父は震え上がった。
口がカラカラに乾く。
「あの……娘が寄越したのか……?」
「あ? リモナがこんなん言うわけねえだろ、頭湧いてんのか?」魔物は見下すように顔を顰めた。「主人に危険が近付けば、俺ら魔神はそれを取り除く。何千年も前からそう叩き込まれてんだよ」
「な、なんぜん……」
本当に神話の魔神なのか?
いや、まさか。
そんなものが存在してなるものか……!
しかし——。
目の前のこれをどう説明する?
「クソしょうもねえ」魔物は立ち上がった。ミヒャエル神父を冷たく見下す。「思ってたより小物だな、お前」
「こも……っ! 私は由緒正しい家系の——」
「知らねぇよ、どうせ毛ぇ生えたてなんだろ?」魔物は面倒臭そうに顔を歪めた。「分かったらさっさと噂止めて、からくり壊すのやめさせろ」
「何故私がそんなことを……!」
すると魔物の手が、ミヒャエル神父の首に掛かった。冷たく、そして雷に打たれたような震えが、全身に走る。
「これで分かったよな、神父サマ」
再び間近に迫った青い瞳が、ミヒャエル神父を鋭く睨んだ。
ミヒャエル神父は、その深い海の色に囚われた。
首に掛かった手が、次第に離れていく。
「俺は容赦しないからな。覚えてろよ」
そう言い残して、青い魔物は空へ飛んで行く。
ミヒャエル神父は、震えながらもその背中を睨み付ける。
なんと恐ろしい異形……。あんなもの、間違っている。
それにしても許せない。この私を脅すばかりか、侮辱するとは。あの魔物は始終こちらを見下していた。許せない。
あぁ、しかしなんだこの身体の震えは。心臓がうるさいし、下腹部が熱い。あの青い目が焼き付いて離れない。
あの小娘は、あんな悪魔を従えているのか?
そう考えた途端、急に乾きを感じた。よろよろと立ち上がり、イチジクをもぎ取った。
縋るように齧り付く。
あの娘は、やはり間違いだ。今の一幕が物語っている。
そしてあの魔物は——消す前に踏み付けにしてやりたい。
私を嘲笑ったことを、必ず後悔させてやる。
甘い汁が、顎を伝った。




