1-3.リモニャの世界①
「ご……ご主人様?」リモナは竜巻のクッションの上で後ずさった。「どういうこと?」
アズラクは呆れた様子で顔を上げた。
「お前がその指輪を見つけたんだろ? で、一番最初に擦った」
「え? 指輪の……」
リモナは指輪に目を落とした。
サファイアの石は、見ていると吸い込まれそうな変な感覚を覚える。
「でもあたしは拾っただけだよ」リモナは指輪のついた黒い中指を眺めながら首を捻った。「そもそもあたしは——あ」
「あ?」
「どうしよう」リモナは両手を顔に当てた。「小瓶なくしちゃった!」
「は? 小瓶?」
「そうだよ小瓶!」リモナはまた身を乗り出した。「アズが脅かしてきたせいだよ! インクタンクにちょうどよかったのに」
「アズ……? インクタン……?」アズラクは眉を寄せて口をぽかんと開けた。
「あーあ。今日はツイてないや」
リモナは両手を広げて、竜巻のクッションに身を投げ出した。
アズラクは困惑した。「あのさ」
「なに?」
「この状況、分かってんのか?」恐る恐るリモナの顔を覗き込む。
リモナは青い瞳を見ると、がばっと起き上がった。「ごめん、こんな言い方良くなかったよね」
「あ、ああ……」アズラクはリモナから距離を離した。
リモナはふわふわ浮いているアズラクと、彼の後ろに広がるミラージャの町並みを眺める。
思わず笑いがこぼれた。
「アズのおかげでこんな素敵な体験出来たんだよね。ありがとう」
アズラクは目を見開いて、リモナをまじまじ見た。
竜巻のクッションが小刻みに揺れ、風がゆっくりとうねる。冷たいのか熱いのかよく分からない細い風が、リモナの髪を揺らした。
するとリモナのお腹がぐぅと鳴った。
「なんかお腹空いちゃったね」リモナは鼻をひくつかせた。香ばしい磯の香りが流れてくる。「鱈のペッパー焼きだ!」
リモナは露店の一つを指差し、アズラクを見た。
「アズはミラージャ初めてなんでしょ? 美味しいお店案内するから、そろそろ降りよ」
「え、いやお前……」アズラクは不可解そうに首を横に振った。「もっと他にあるだろう」
「どういうこと?」リモナは首を傾げた。
「お前は俺の主人になったんだぞ」
「うん」リモナは逆側に首を傾げた。「まぁよく分からないんだけど」
「だからお前は俺を色々使えるんだよ」アズラクは腕飾りをじゃらじゃら鳴らして手を動かした。「船動かしたりとか、矢とか石とかを命中させたりとか!」
リモナは竜巻のクッションの上で膝を抱えて、何度も首を傾げた。「でも全部魔法なんでしょ?」
「は?」アズラクは口を開けて固まった。
「確かに物浮かしたり出来て便利そうだけど、タダじゃないんでしょ、それ」
「は? いや、だからお前が主人で——」
「そうだ!」
リモナはパンと手を叩いた。
アズラクはびくりと身体を揺らす。竜巻のクッションが上下に激しく揺れた。リモナはわわっとクッションに掴まった。
「びっくりしたぁ」
「いや、それ俺のセリフ。何だよ急に手叩いて」
「だっていいこと思いついたんだもん」
リモナはインクだらけの手を口に当てて、くすくす笑った。
「アズの困りごとあたしが叶えるから、またこんな風にミラージャの町見せてよ」
アズラクはまた固まった。
さっきの温冷がよく分からない細い風が、幾筋も流れてくる。風のうねりが少し激しくなった。
リモナのお腹がぐぅぐぅ鳴る。
「ねぇほら、降りて何か食べに行こ!」
「あ、あぁ……」
アズラクは困惑したまま、近くの浜辺にリモナを降ろした。竜巻のクッションが霧に消える。
「すごいね、これ。めっちゃ楽しかった!」
リモナは両手を広げて伸びをした。
アズを見上げてにっこり笑う。
「また乗せてね、約束だよ!」
そう言って、アズラクの腕を取った。
***
何なんだ、この女?
アズラクは、自分の腕を引っ張って前を歩くちんちくりんを見た。
いや、これが俺の新しい主人か。
そのはずなのに、この状況にまったく動じていない。
指輪の魔神だぞ?
これでも海に捨てられるまでは、取り合われていた身なのに。
それなのにこの女はそばかすだらけの顔を輝かせて、アズラクに笑いかける。自分がどんな間抜けな黒い髭を付けているかも気にしていない。
あんな、大したことない風の魔法で楽しそうにはしゃいで——。
「ニャア……」どこからか、猫が顔を覗かせた。顔の一部が白い黒猫だ。
「あ、ぺぺ! さっきあたしを見捨てたでしょ!」
女はアズラクの手を離し、香木を削ったような色合いの縛った髪を揺らして走って行く。乾いた風が、アズラクの脇を通り過ぎた。
猫は女の足元に擦り寄り、警戒するようにこちらを睨む。「ニャア<にゃんにゃんだ、おまえは?>」
「俺はアズラク。そいつの魔神だ」アズラクは猫に話しかけた。
「アズ? 何言ってんの?」女は目を丸くした。
猫は目を細くした。「ニャオ<にゃら、お前もぼくの奴隷だにゃ>」
「どういうことだ?」
「ミャアミャア<リモニャはぼくの奴隷にゃ。だからお前もそうにゃ>」猫は顎を上げてアズラクを見下すような姿勢を取った。
アズラクは困惑した。
どういうことだ?
今は動物が偉いのか?
「アズ、さっきから誰と話してんの?」女がこっちに戻ってきた。
「いや、そこの猫が……」アズラクは猫を指差した。「お前……リモニャはそいつの奴隷なのか?」
「え、何言ってんの?」
リモニャは不可解そうに眉間に皺を寄せた。
何故か分からないが、この女にこんな目向けられるのは釈然としない。
「だからそこの猫が……」
「ぺぺのこと?」リモニャは猫を抱き上げ、また目をきらめかした。「アズ、今ぺぺと話してたの?」
「まぁ……」
アズラクはリモニャとぺぺを交互に見た。ぺぺはリモニャの腕の中で、得意げに彼女の首筋に頭を擦り付けている。
「まぁ空飛べるくらいだもんね」リモニャはぺぺを覗き込んだ。「ぺぺ、何て言ってたの?」
「リモニャが……そいつの奴隷だって」
「奴隷!」リモニャはぺぺを抱え直し、目線の高さを合わせた。「ぺぺ、あたしのことそんな風に思ってたの?」
「にゃあん<ぼくのかわいい奴隷にゃ>」ぺぺは喉を鳴らしながら言った。
アズラクはますます分からなくなった。「違うのか……?」
「違うに決まってるでしょ!」リモニャはぺぺをアズラクに向けた。「ペペは近所の野良猫! 本当に生意気なんだから」
「ミャーア<リモニャに言われたくにゃいわい>」ペペはペロンと舌を出した。
とりあえず、動物に支配されているわけではなさそうだ。
アズラクは胸を撫で下ろしていいのか分からなかった。ここに至るまでに知らない感覚がありすぎて。
「やっと見つけた! リモナ!」
丘の向こうから、女が走ってきた。リモニャみたいなへんてこな服を着ている。
女はアズラクを不審な目で見た。「誰この人」そうは言いつつも顔を赤らめている。
「この人はアズラク。指輪の魔神なんだって」リモニャは何でもないように言った。
「ゆび……は?」女は眉をひそめた。
そりゃあそうだろう。
アズラクは内心思った。
ていうかそんなさらっと言うやつがあるか?
「ミャア<やれやれ>」いつの間にかリモニャの腕から降りたぺぺが、アズラクの足元に寄った。
「それよりどうしたの?」
女は瞬きをしてリモニャに顔を向けた。「そうそう水車が——ってあんた、顔にインクついてるよ」
「ええ、何でそんなところに付くの?」リモニャは女に髭を擦られながら顔をしかめた。
「ミャーア<いつものことにゃ>」ぺぺはあくびした。
「とにかく水車が調子悪いのよ。見に来てくれない?」
「えぇお腹空いてるんだけどなぁ」リモニャの腹はずっとぐぅぐぅ鳴っている。
女はリモニャに両手を合わせた。「お願い。鵜焼き、サービスするからさ」
リモニャは目をきらめかせた。「言ったね!」それからこちらを振り向いた。「アズの分もお願いしていい?」
女は目を丸くしてこちらに視線を戻した。「うん……いいけど」やはり顔を赤くする。
「やった!」リモニャは両手を振り上げた。「準備して向かうね! アズ、荷物持つの手伝って!」
リモニャは再びアズラクの腕を取り、走り出した。
アズラクは展開について行けなかった。
何で俺は引かれるまま走ってるんだ?
わざわざ走る必要もないのに。
「なぁ、どこに向かってるんだ?」
「あそこの工房!」リモニャは浜辺に建つとんがり屋根の建物を指差した。「工具取ってこないと」
やがて『リモニャの工房』に到着すると、扉を開けてリモニャは立ち尽くした。
床には白い——ぺらぺらが何枚も散らばっている。
書付か? 見たこともない形の字が、雑に刻まれている。
こんなに雑に扱っていいものなのか?
入り口から動かないリモニャの脇を通って、アズラクは室内に侵入した。
床には他に、細い金属棒が入った箱や鉄板が転がっている。棚には大小さまざまな歯車やバネの箱が乱雑に置かれ、奥の台には変な道具が散らばっていた。四角い部品が大量に組み付いた、変な骨組みの真っ黒な物体からは、リモニャの服の黒色と同じ匂いがする。
台の端っこには、リモニャがさっき言ってたスイシャのちっこいやつが乗っていた。アズラクは横に付いている歯車を回した。
「うーわぁ!」
突然リモニャが叫んだ。頭を抱えてその場にうずくまる。
アズラクは慌ててリモニャのところに戻った。「どうした?」さっきまであんなにはしゃいでいたのに。
「インクまみれにしてたの忘れてたぁ」
「ミャーア<分かってたことにゃあ>」開け放した窓枠から、ぺぺが呆れたように顔を覗かせた。
「いや、分かってたけどさぁ」リモニャはあーあと言いながら立ち上がる。「まぁ後だね」
「ミャア<どうせほったらかすにゃ>」ぺぺは前足に頭を乗せた。
こいつら、言葉が分かってないはずなのに、何で会話できてるんだ?
アズラクは目の前に広がる全ての光景が、まったく理解できなかった。
リモニャは台に散らばった道具をまとめ、台の下のかごに雑に入れ始めた。
ある程度道具を詰めると、腰を落とす。
「よいしょ」
両手でかごを持ち上げ、台車に乗せる。
リモニャはふぅと息を吐きながらアズラクを見上げた。「修理はいいけど、これを持ってくのが面倒なんだよね」そう言いながら、かごごと台車を押し始めた。
アズラクは眉を歪めた。
目の前に魔神がいるのに。
腕飾りのついた手を宙で回し、道具の入ったかごを浮かせた。
「わあ、すごい」リモニャは目を丸くしてこちらを見た。「そっか。そんなことも出来るんだ」
「そんなこともって……」
本当に何なんだ、こいつ。
頭が弱いのか?
するとリモニャは部屋の奥に行き、窓際のかごからオレンジを取って戻ってきた。
「今はこんなのしかないけど、後でちゃんとお礼するね」
リモニャはオレンジを剥いて一粒アズラクの口に押し込んだ。
戸惑いのままに見下ろすと、いたずらっぽく細めた茶色のまんまる目と目が合った。
「じゃあ行こっか」
口の中に甘酸っぱい汁が広がった。




