1-2.指輪の魔神——アズラク
青い光の中に浮かぶ一人の男。
紺色の頭に金色のバンダナを巻き、異国風の羽織からは浅黒い肌が惜しみなく覗いている。手と足には金色の飾りをじゃらじゃら付けて、靴は先がとんがっている。
狼のような青い目を見ると、リモナの身体の奥がゾクゾクした。
「あ……あなた、だれ?」
男は目を細めて、リモナを上から下まで眺める。
あのゾクゾクが、また身体を駆け上った。
男は満足気に口角を上げた。
「教えてやろう。俺は——」
「ねえ、それどういう原理なの?」
「は?」
リモナは男の足元を見た。
浮いている。
海の上に、完全に浮いている。
それに彼の後ろに波が立ったまま、岩にも海にも打ち付けない。
リモナは男を見上げた。
男は不思議そうに青い目を丸くしている。やっぱり身体がゾクゾクするけれど、こんな場面見たらそりゃあ戦慄する。
リモナは一歩踏み出した。「ねえ、それどうやって浮いてんの?」
男は空中で後退した。「お前、俺がこわ——」
「ねえ、何で波止まってるの?」リモナは更に一歩踏み出した。
男は更に空中で後退した。
「ねえ! あたしも飛びたい——」
そう言って踏み出したところには、岩がもうなかった。
やばい、落ちる!
そう思ったとき、身体がふわっと浮いた。
「危ねえなぁ。何なんだよ、お前」
男は手をリモナにかざしながら、呆れたように言う。
男が手を回すと、リモナの身体が空中で弧を描き、やがて岩場に押し返す。その間、リモナは口をぽかんと開けたままだった。
「はぁ、クソ狭い指輪から久々に出て来れたと思ったら……まったく」男は腕を回して、大きく身体を伸ばした。
「え、なにいまの。どうやったの?」
「あ? 魔法だよ魔法」
「そうだよね、流体は魔法だよね。で、どうなってんの?」リモナはまた身を乗り出した。
「だから魔法なんだって」男は再びリモナに手をかざした。「お前、マジで学習しろよな」
リモナの身体が、風に押されて後ろに下がる。
何これ。
何で風が押してくるの?
リモナは身を固くして前向きの力を加えた。
「全然びくともしない! 何これ何これ!」リモナは風の壁をべたべた触りながら、ぴょんぴょん飛び跳ねる。
「何でこれでそんな目ぇキラキラさせられんだよ」リモナを乗り出せなくしたのに、男は手をかざしたまま一歩後ずさった——もちろん空中で。
「だってすごくない? ていうかずるいよ、そんな隠し技独り占めして」
「隠し技じゃねえし」
男は右手と左手を、順に振り上げた。すると大きな波が、右から左からざっぷんざっぷん打ち上がる。
いい加減これで理解しただろう。
男はリモナを見た。
しかし、リモナは手を顎に当てて眉をひそめるだけだった。
「今のはちょっと、っぽいだけだね。あんまり刺さらなかった」
「は?」男は両手を垂らして口をあんぐり開けた。
「波はちょっと、簡単すぎない? だって波の動き観察してたら分かるでしょ?」
「お前マジで言ってんの?」
「どういうこと?」リモナは眉根を寄せた。「てかあなた、どこから現れたの?」
「そこから説明するのか? はぁ……」
男は空中で胡座をかき、頬杖を付いてリモナを眺めた。リモナは身を屈めて、男と水面の間を色んな角度から覗き込む。
リモナが岩肌に這いつくばって見上げる姿勢をとると、男は海水面から円柱状の水柱を立ててそこに座った。水柱の中で弧を描いて動く水流を見て、リモナの目がまたキラキラ輝いた。
——何なんだよ、こいつ。
男は顔をしかめた。
やたらと目を輝かせてこちらを見るちんちくりん。口に黒い髭を生やした変な女。
何でこの女はこの力を見て怖がらないんだ?
というか頑なに魔法を信じない。今も目を輝かせてこちらを見るが、この女が気になっているのはこの力を何に使えるかではない。
こんな人間、初めてだ。
男はリモナの手の中にある指輪を見て、口角を上げた。
「おい。俺は一旦戻る」男は顎をしゃくって指輪を指した。
リモナは首を傾げた。「戻る? 飛びながら?」
男はため息をついた。「いいから見てろ。で、十秒経ったら指輪のサファイアを擦れ」
「え? どういうこと?」リモナは指輪と男を交互に見た。
「いいな、十秒後だぞ」
そう言うと、男はリモナめがけて近づいてくる。
え! なになに?
怒らせちゃった?
リモナはぎゅっと目を瞑った。強い風が、手の中の指輪に降りかかる。
やがて風が止み、波も静かになった。
リモナは薄く目を開く。するとさっきの空中浮遊男がいなくなっていた。あたりを見渡しても、誰もいない。
「えーどこに行ったの? もっと色々聞きたかったのに」
リモナはため息をついて指輪を見下ろした。青い石を見ると、さっきのゾクゾクが再び身体の奥で走った。
さっきの人もこんな目をしてたな。
「あ、そういえば十秒経ったら、サファイアを擦るんだっけ?」
既に十秒以上経ってるけど、ちょっとくらい遅れてもいいよね?
リモナはサファイアを親指で擦った。
すると今度は指先から変なゾクゾクが這い上がって来た。身体を震わせていると、再び風向きが変わり、波が立ち始める。大きな竜巻がリモナを囲うが、リモナは竜巻の壁を指で突いてじっと観察した。
——いや、怖がれよ。
風の中でそんな声が聞こえた。
リモナは声がした方へ興味津々に首を動かした。
竜巻は激しく渦を巻き、波が再び高く持ち上がる。波に飲まれることを考えるとドキドキするけど、今度は一瞬たりとも目を逸らさないつもりだ。
やがて竜巻は海の上に集まり、人の形を作る。そうして次の瞬間、さっきの男が現れた。
男は胡乱気にリモナを睨み付けた。「……これで分かったか?」
リモナは——盛大に拍手した。
「すごいすごいすごい! あたしにも教えてよそれ!」
「くっそ! もうどうなってんだよ」
男が拳を振り下ろせば、風がびゅんと吹き、波が勢いよく立ち上がる。それを見て、更にリモナの目が輝いた。
男は項垂れた。
こいつは一体どうしたら納得してくれるんだ?
リモナは両手を合わせて男を見上げた。
「それって空も飛べるの?」
「……まぁ」
リモナは顔を輝かせた。「いいなぁ! 鳥みたいに空を飛べたらすごく気持ちいいんだろなって思ってたんだよね!」
男はリモナをじっと眺めた。この嬉しそうな顔を見ていると、魔法を証明するのが馬鹿らしく感じてくる。
男はリモナの手の中の指輪をじっと見ると、やれやれと肩をすくめた。
「いいよ、飛ばせてやる」
「ほんと?」
リモナはまた身を乗り出した。尻尾があったら絶対に激しく振っている。
男は思わず笑いをこぼした。
その笑顔もまた、リモナをゾクゾクさせた。鼻腔をくすぐる辛い匂いが、更にそれを助長する。
「いいけどお前、先にその指輪を指に嵌めろ」男は指輪を指差した。
「指輪?」リモナは目を丸くしながらも、インクのついた右の中指に指輪を嵌めた。「これでいい?」
男は満足げに笑みを深くした。
あ、まただ。
あの人が微笑むたびに、何かが身体を走る。
その正体を掴もうとしたとき、身体が浮いた。
「わわ! 本当に浮いてる!」リモナは男を見上げた。
「この程度で満足するなよ」
男は手を宙で回し、渦を描いた。すると小さな竜巻が出来上がる。口を開けて眺めているリモナの尻の下に、その竜巻が滑り込んだ。
「わわ! 何これ」
「何って、空飛びたいんだろ? クッションみたいに深く座っとけ」
男はリモナに向けた手を、ゆっくり上にあげる。彼の腕の動きに合わせて、竜巻のクッションが高く上がる。
「うわっ! すごい! どうなってるの?」リモナはクッションの上で足をばたつかせた。
「暴れんなよ」男はリモナと同じ高さに浮き上がる。「で、どこまで飛びたいんだ?」
「カモメの高さまで!」リモナは腕を広げた。「それでミラージャの町を上から眺めるの」
「ミラージャの町?」男は首を傾げた。「どこだ、それ」
「この町のことだよ」リモナも首を傾げた。「あなた、自分でこの町に来たんじゃないの?」
「俺はただ流されて来たんだよ。ずっと指輪の中にいたし」
「え、それってどういう——わわ!」
竜巻のクッションがふわりと舞い上がる。下を覗くと、地上がどんどん遠かった。
「適当に飛ぶから、お前案内しろよ」
男は竜巻のクッションに手をかざしながら、鳥のように腕を広げて飛んだ。
リモナも真似して両手を広げる。
二人は、赤い屋根と白い壁の家が並ぶミラージャの町の上を飛んでいた。
海沿いに広がる勾配の激しい町。道は入り組み、慣れていないと迷路のよう。家と家の間には洗濯物が吊るされ、テントを張った露店からは惣菜の匂いが漂っている。
「あそこのタコ串美味しいんだよ!」リモナは店の一つを指差した。
「見て見てあそこ!」リモナは高台にある白亜の塔を指差した。「あそこ、パパが働いてる役場なんだ! こんな風に見えるんだね」
普段は何気なく駆け上がっている小道や橋が、上から見るとおとぎ話の絵画のように見える。リモナはすごく嬉しくなった。
「あ、ねえねえあそこ! あそこの水車小屋、この前直したの!」リモナは水車を指差し、顔をしかめた。「なんか上から見ると不格好だね」
男を見上げると、彼は目を見開き何か考え込んでいる様子だった。
「やっぱり水車、不細工だよね?」
リモナが顔を覗き込んで話しかけると、男はハッと目を大きくした。
「すいしゃ……?」男は首を傾げた。
「水車だよ、水車。あそこのぐるぐる回ってるやつ」リモナは水車を何度も指差した。
「あれ……何で回ってるんだ?」
リモナは目を丸くして男をまじまじ見た。「あなた、空を飛べるのに水車知らないの?」
「それ、何の関係があるんだよ」
「え、だって……」リモナはもう一度水車を見て、男に顔を戻した。「水車がないなら、あなたの国ではどうやって水を汲み上げるの?」
「だからそれは魔法で……」
男の言葉は尻窄みになった。
リモナは口をぽかんと開けて、地上と竜巻のクッションと男を順に見た。
「うそ……これ、本当に魔法なの?」
「……さっきからずっと言ってんだろ」
「てっきり新技術か何かだと……」
リモナは呆然としながら、男が現れた下りを思い返した。大きな白波に竜巻の壁、風の圧。そしてカモメのような飛行。
この人の見たこともない異国風の格好を見て、リモナはあっと思った。
「そういえばあなた、どこから来たの?」
「どこって……エル=シャハームだけど」
「エルシャハーム……?」リモナは首を捻った。「イルサームのこと?」
「イルサーム?」男は眉を歪めた。
違うのかな?
リモナは男がミラージャの町も知らなかったことを不思議に思った。
そういえばさっき何か言ってなかったっけ。
流されただけ。
指輪の中……。
リモナは右手の中指につけた指輪へ目を落とした。
「ねぇ、この指輪とあなた、どんな関係なの?」
「ようやく聞く気になったか」
男はやれやれとため息をついた。
異国風の羽織を翻し、両手広げてリモナの向かいに浮かんだ。
「俺は指輪の魔神、アズラク」
彼はゾクゾクする青い目をまっすぐリモナに向けると、大きな身振りで身体を折り曲げた。
「お気の召すまま俺をお使いください、ご主人様」




