2-7.魅惑の香③
ヴェントーリ邸に戻っても、リモナはいなかった。
リモナの部屋には、オレンジの形のクリスタルランタンが壁のろうそくに照らされている。甘い花の香りが鼻腔をくすぐり、アズラクは再び視界が霞んだ。
これだ、この匂い。
この匂いにさっきは意識を持っていかれた。
何の匂いだ?
アズラクは考え始めて、やめた。
そんなことを考えている場合ではない。
アズラクはリモナの部屋を出た。
廊下にいた使用人が、アズラクを見て息を飲んだ。「あ、あ、アズラク様。ここはレディの部屋ですから――」
「リモナを見なかったか?」アズラクは構わず尋ねた。
「リモナ様ですか?」使用人は目を丸くした。「まだ戻ってきていませんが……」
アズラクは舌打ちしてヴェントーリ邸を探った。
リモナは一体どこだ?
すると廊下の向こうから、ルカがやって来た。
「あぁ、アズラク殿が帰っているということは、リモナも帰ってきているかな?」ルカは期待の眼差しを向ける。「昨日の話を受けて、今日はいくつか部品を取り寄せたんだ」
こいつもリモナの居場所を知らないのか?
役に立たねえな。
「なぁ、今日の女の集い、どこでやってたか知っているか?」アズラクは尋ねた。
「女の集い?」ルカはぎょっとしたように目を丸くした。「婦人の会のことかな? チェザーレ夫人なら知っていると思うが」
「じゃあチェザーレ夫人はどこにいる?」あんな虫以下の一族のやつらなど相手にしたくないが、それしかアテがないなら仕方ない。
「夫人なら夕方に帰ってくるのを見たよ」ルカは首を傾げた。「一体どうしたんだ? 何かあったのか?」
「分からない」
今が焦るべきなのかも、リモナの居場所も。
しかし嫌な胸騒ぎがしてならない。
分かっているのはただこれだけだ。
「リモナがいない」
「リモナがいない?」ルカは眉をひそめた。「出掛けているのではなく?」
アズラクは首を振った。
チェザーレ夫人の元へ向かう。
ルカが後から追いかけてきた。「アズラク殿、どういうことか説明してくれ」
「分からねえよ。夫人の部屋はどこだ?」アズラクは廊下を行き交う使用人を捕まえて尋ねた。
「さ、三階の端ですが」使用人はおどおどしながら答えた。
「アズラク殿、ご婦人の部屋にズカズカ入るのはいかがなものかと――あ!」
アズラクはルカに構わず廊下を飛んだ。「言ってる場合かよ」
使用人が目を丸くし、壁のろうそくが風に揺れる。
規則正しく並んだ甲冑は、ガシャガシャ揺れた。
三階に上がると、あの虫けらとけばけばしい花の匂いが混ざる箇所があった。
アズラクはノックもせずに扉を開けた。
部屋の奥で、チェザーレ夫人が横琴を弾いていた。
「まぁ、誰かと思ったらイルサームの付き人さん」夫人は落ち着いた様子でアズラクを見た。「どうかなさいまして?」
「リモナはどこだ?」
アズラクはズカズカと夫人の部屋に入り込んだ。
部屋にいた侍女や付き添い婦人がぎょっとして立ち上がった。扉口に現れたルカに助けの目線を送る。
「リモナなら街に出掛けましてよ」夫人は立ち上がりもせず、ぽろん、ぽろんと横琴をはじいた。「珍しいからくりがあると言って、大はしゃぎでしたわ」
「それはいつ頃の話だ? どの方面か聞いているか?」アズラクは矢継ぎ早に尋ねた。
夫人は困ったように首を傾げた。「昼過ぎに婦人会が終わりましたから、それくらいかしら。でもその先はわたくしには分かりませんわ。すべてを把握しているわけではございませんので」
煮え切らない返答に、アズラクは苛々していた。
しかもこの女の放つ空気も気に入らない。
しなやかに洗練された振る舞いを見せ、華やかな香りを放つ――あくまで表面上でだけ。アズラクの鼻には、腐った花の蜜と嘘の香りが流れて来る。
しかし掴みどころがない。
夫人はにっこり笑うと、立ち上がってこちらに歩いてきた。
「せっかくなら付き人さん、わたくしと一緒にリモナを待ちませんか? いつも同じ面々と話していて、退屈していたところでしたの」
そう言って、夫人はアズラクの頬に手を伸ばした。
見ていた付き添い婦人やルカたちが、息を飲んで顔を赤らめた。
夫人は魅惑的に目を細めた。
「夫婦そろってドブみたいな組み合わせだな」
「ド……っ」
夫人は目を見開いた。
言葉の意味を理解できなかったようだ。
周囲からも息を飲む声が聞こえる。
「人間どもはよく耐えられるな、こんな豚の餌みたいな匂い嗅がされて」
「ぶ、豚の餌……!?」夫人は甲高い声を上げた。「あなた、いったい誰に何を――」
くすくす笑いが聞こえてきた。
使用人たちが口を押えて下を向いている。付き添い婦人や侍女は、蒼白な顔で首を横に振った。
ルカは我関せずとばかりに目を逸らしている。
チェザーレ夫人は顔を真っ赤にした。
思いっきり手を振り上げる。
しかし振り下ろせなかった。
狼のような青い瞳が、獰猛に見下ろしていた。
「あ、あなた。恥を知りなさい! 誰にものを言っているのか分かっているのかしら。下賤で野蛮な育ちの――」
「知らねえよ。お前らの事情なんぞ俺が知るものか。で、あいつはどこにいる?」
「知らないと言っているでしょう! あんな頭のおかしい小娘など――」
そこまで言って、夫人はハッと口をつぐんだ。
これがこの女の本音か。
「チェザーレ夫人。今の発言は頂けない」ルカが厳しく言う。「リモナはこの国を変えるほどの逸材だぞ。敬意を持って頂かなければ」
「ルカ卿!」チェザーレ夫人は悲鳴交じりに言う。「あなたは騙されているのです! あの娘はすべてにおいて悪い影響を振りまいています。まるで魔女だわ!」
「その言い草は不当だ。撤回してもらおう」
「んなもん後にしろ」アズラクは煩わしく言った。「リモナの居場所は知らないんだな?」夫人を睨みつける。
夫人は口元を震わせつつも、アズラクを睨みつけて首を振った。
「本当だな?」アズラクは声を一段低くした。「もし嘘だと分かったら――」
「本当です!」夫人は叫ぶように言った。「本当に知りません!」
アズラクはチェザーレ夫人を睨みつけた。
まだ嘘の匂いがする。強情な女だ。
だが、ここで問答したところでどうにもならない。
アズラクは羽織を翻して窓から飛び立った。
チェザーレ夫人は、その場にへなへなと崩れ落ちる。
「奥様」付き添い婦人と侍女が、急いで夫人に駆け寄った。
まったく。
なんて災難なの?
あの娘が現れたからこんなに――。
「チェザーレ夫人」
ルカが呼びかけた。
夫人は縋るように顔を上げる。
「申し訳ないが、荷物をまとめてお帰り願おう」ルカは低い声で言った。
夫人は呆然と息を飲む。「ルカ卿、ご冗談ですわよね? だってわたくし、本当に何も――」
ルカは首を振った。
「あなたにリモナの素晴らしさをご理解頂けないのは非常に残念だ」
それだけ言うと、ルカは部屋を立ち去った。
これは非常にまずいことになった……。
あのわけのわからないからくり娘が行方不明。
しかも魔神が焦っている。だとしたら本当に消えたのか?
サファイアの指輪を嵌めた娘。技術革命だとヴェントーリ卿らが騒ぐほどの才能。
もしかしたらチェザーレ卿が上手く誑かしてくれたのだろうか。ああ、あのぼんくら貴族はどこに行った?
いや、あのぼんくらはあの魔神を出し抜けるほど器用ではない。
だとしたらどこへ行った?
そのあたりをうろついているだけならいいのだが、これがもし誘拐や拉致——なんてことになったら。
ああ、最悪だ。
あの娘ならいかようにでも操作出来たものを、あれが別の人間に——あるいは敵の手に渡ったら。
大変だ。
修道士は急いで部屋に戻り、手紙を書いた。




