2-5.ヴェントーリ邸①
「ひぃいっ」
「まったく。一体どうしたらこんなに絡まるまで放置出来るんです?」
「だ、だってぇ……ぶくぶくぶく」
リモナは風呂桶に深く浸かった。
あ、このお湯いい匂い。
飲めるのかな?
「はい、上から流しますよー」
「あばばぼぼ」
「あなた、汚れてほつれまくってる割には肌きれいですね。どうなってるんです?」侍女がヘチマでリモナの腕をこする。
「あれかな? オレンジいっぱい食べてるからかな? あいててて」再び髪を引っ張られた。
「ああっイライラするっ! 何でこんなに砂だらけなんですかっ」
リモナは再び風呂桶に逃げた。
この屋敷の主人のヴェントーリ卿は、老神父からの手紙を読むと、快くリモナとアズラクを迎え入れてくれた。あの蜂蜜色の髪の騎士ルカ卿が取り次いでくれたおかげで、話が早かった。
それにしても。
「やっぱりルカ卿がいらっしゃると屋敷が明るくなるわねぇ」
「旦那様も喜んでいらっしゃったわ。ルカ卿の活躍が目覚ましくて」
侍女たちがきゃっきゃと嬉しそうに話していた。
内容から察するにあのルカ卿、中央政府とも絡んでいるとか!
ひゃあー大変なお屋敷に来ちゃったよー!
神父さま、すごい繋がりがあるんだねぇ。
珍しい提灯や色鮮やかなガラスのランタンをじっくり見る余裕もなく、リモナは珍しく連れて来られた猫よろしく、大人しくしていた。ここではぺぺのように振る舞ってはダメダメ。
「それにしてもあのチェザーレ卿、いつまでいるのかしら」侍女の声が一段低くなった。
「ルカ卿のお友達らしいけど、どうして仲がいいのかしら。使用人の扱い最悪なのよね」
「あ、こら、しっ!」
侍女が一斉に口をつぐむ。
浴室の入り口に目を向けると、花の刺繍がたくさん入ったドレスを纏う素敵な女性が現れた。
女性はにっこり笑った。
「お気になさらず。わたくしも普段から思っていますから」
女性はゆっくりと浴室に入ってきた。
侍女が気まずそうにリモナ洗いに戻る中、リモナは口を開けて女性を見つめた。
女性が近くまでやってきて、ようやくリモナはハッとした。
「すみません! あたし、こんな……ぶくぶくっ」立ち上がりかけて侍女に押さえつけられた。
「いいんですよ。噂のからくり技師さんと話してみたかっただけなんです。ふふっとっても可愛らしい方」
うわぁ。
おめかししたお姉ちゃんよりも千倍もきれいな人に、可愛いって言われちゃった。
絶対この人、いい人だ。
リモナは顔を半分お湯に浸けながら、顔を赤くした。
「わたくしはチェザーレ卿夫人」女性は近くの椅子に腰を下ろした。「あなたの旅の話を聞かせてくれませんか?」
リモナが女どもに連れられて行ってから、かなり時間が経つ。
風の護衛は付けたが、あいつ大丈夫か?
アズラクは晩餐室の入り口を見た。
「そう心配する必要はない」ヴェントーリ卿が言う。「むしろ久々の若い娘で、うちの侍女が張り切っておるわい」
「ふん、俺の嫁では役不足か」チェザーレ卿が皮肉っぽく酒を飲む。「まぁ無理もない」
「君の奥方はこれ以上磨く必要がないからな」ルカ卿は軽く笑みを浮かべた。
リモナもわざわざ磨く必要はないけどな。
アズラクは椅子に深く座り、ひじ掛けに頬杖をついて、晩餐室にいる面々を観察した。
ヴェントーリ卿は、ミラージャの老神父の友人とあって、あんまり嫌な空気を感じない。あの老神父となんか似ている。
ルカ卿は表情豊かに笑うし今のところ嫌な雰囲気を感じないが、なんかいけ好かない。さっきはいきなりリモナの手を掴むし、リモナも顔を赤らめるし、アズラクとしては面白くない。
「ところでズバリ聞いていいかな?」ルカ卿がアズラクに好奇心旺盛な目を向けた。
アズラクは顎で促した。
傍から見るとまったく客人の態度ではないが、ルカ卿は気にせず尋ねた。
「君、本当は魔神?」
チェザーレ卿が酒を吹き、ヴェントーリ卿がむせた。
「お前、いきなり何を世迷言を」チェザーレ卿が口を拭いながら言う。
「いや、でもさっき彼が……」ルカ卿はテーブルの端に座る修道士を手で示した。
修道士は咳払いをした。「ここだけの話と言ったではありませんか、ルカ卿」
「すまない」ルカ卿は平謝りした。「それで、本当はどうなんだい?」
アズラクはルカ卿の興味津々な目と、影薄くしているつもりの修道士を見比べた。この晩餐室に入ってきてから、あの修道士の纏う空気が、アズラクは妙に気になっていた。
「何で俺を魔神なんて思うんだ?」アズラクは尋ねた。
修道士は俯きがちにちらりとアズラクを見ると、咳払いしてから説明した。
「先日イルサームに行った際に、こんな神話を聞きまして」
はるか昔。エル=シャハーム、昔のイルサームには三人の魔神がいた。
ランプの魔神はどんな魔法も操り、鏡の魔神はどんな言葉も巧みに操る。指輪の魔神は風を操るのが得意。三人の力は、世界を支配し破滅させるほどだという。
「その神話はたびたび聞くが、それほどイルサームでは語られているのか?」ヴェントーリ卿が尋ねた。
「ええ」修道士が答える。「何千年も前の神話ですが、イルサームでは未だに魔神信仰が厚い。オルテンザとイルサームの勢力争いを有利にするために、再び魔神を掘り起こそうとする層もいるくらいですから」
「どんな魔法も操るランプの魔神……。そんなのが向こうの手に渡ったらやべえんじゃないのか?」チェザーレ卿がさして興味もなさそうに聞く。
「おそらくは」修道士が再び答える。「ですから我々は運がいいのかもしれません。そのうちの一人がこうしてここにいるのですから。今日、彼が絵描きを浮かしているところを見ましたが、これはなかなか――」
「待てよ」アズラクは金飾りをじゃらじゃら鳴らして手を挙げた。「勝手に話が進んでいるが、俺は主人の命令以外聞く気はねえ」
「主人?」ルカ卿は目を丸くし、首を傾けた。「例の神話が本当なら、もしかして――」
「チェザーレ卿夫人のお見えです!」
使用人が大きな声で言い、晩餐室の扉が開かれた。
男たちは一斉に立ち上がる。よく分からないが、アズラクも倣ってみた。
先にゴテゴテした花の刺繍入りのドレスを着た女が、そろりと歩いてきた。シミ一つない整った顔立ちは、まるで生気を感じない。女はアズラクをちらりと見ると、チェザーレ卿の隣に立った。
「リモナ嬢のお見えです!」
使用人が宣言すると、誰かに押されたかのように、オレンジ色の塊が扉口に現れた。
不安そうに顔を上げる。
その出来栄えに、アズラクは息を飲んだ。
普段はほつれまくっている香木を削ったような色合いの――本人曰くシナモン色の髪は、きれいに梳かれ、ろうそくの灯りにつややかに光っている。複雑に編み上げられた頭の上には、小花柄のレースが被せられていた。隠さなくてもいいのに。
しかし、その雰囲気も相まって、オレンジ色のドレスを着たリモナは、いつもの工具を握った姿とは一転して違って見えた。
なんか、普通の娘に見える。
リモナは――扉口に固まったまま動かなかった。
「どうした? 怖がっているのか?」チェザーレ卿が笑い交じりに言う。
「臆することない。さぁ、入りたまえ」ヴェントーリ卿が優しく促した。
リモナは茶色のまんまる目をきょろきょろさせながら小さく頷き、足を踏み出した――右手と右足を同時に。
緊張しているのか?
あのリモナが?
アズラクは目を丸くした。しかし伝わってくる空気は紛れもなく緊張だ。
「リモナ――」
「大丈夫、そんなに緊張する必要はないよ」
アズラクが足を踏み出したところで、さっとルカ卿がリモナのところへ向かった。ルカ卿は腰を落としてリモナに手を差し出す。
リモナは茶色のまんまる目でルカ卿をまじまじ見ると、顔を赤くして、そろそろとルカ卿の手に手を置いた。
瞬間――晩餐室のろうそくの火が半分消えた。
「わっこんないきなり消えることあるか?」チェザーレ卿が声を上げる。
「そんなこともあるだろう」ヴェントーリ卿は手を叩いて使用人を呼ぶ。
修道士は静かにアズラクを見る。
「え、え、え、あ、あ、あああたし、何かしちゃった……?」リモナが更に困惑する。
「大丈夫。ほら、おいで」ルカ卿はリモナの手を引いて席に向かう。
すると残った半分のろうそくの火が、更に消えた。
「おいーどうなってんだよ」チェザーレ卿は悪態ついて先に椅子に座る。
「あなた、お行儀が……」
「うるせえ。お前も座れば?」
そんなやりとりの一方で、リモナはぶつぶつ言う。「こんな贅沢しちゃったからバチが当たったのかな」いつもはそんなの信じないけど。
そんなリモナの様子に、ルカ卿はふふっと笑う。
使用人がせっせとろうそくの火をつける横で、アズラクは目を細めた。
気に入らねえ。
テーブルの端で、修道士はぶるりと身を震わせた。




