2-4.芸術の街①
ミラージャ教会には、相変わらず町民が訪れていた。
「あぁ、神父様。先日の一件以来、夫が塞ぎ込んでいるのです」
「あまり気に病んではいけませんよ」老神父は優しく諭す。「人生長く生きているとそういう時もあります。あなたはただ、ご主人に寄り添い、ご主人の悩み事を聞きなさい」
「神父様、私たちは正しかったのでしょうか? リモナは変な子でしたが、決して悪い子ではなかった気がしてならないのです」
「その後悔の念を、忘れてはいけません」老神父は、懺悔した男性の肩に触れた。「さすれば、あなたはあの子を受け入れ、またあの子も以前のように暮らせますから」
「神父様、からくりは本当に堕落の証なのでしょうか? あれ以来不便で仕方ないのです。あの魔物が悪いのであって、からくりは——」
「からくりがあの魔物を寄せたのですよ」ミヒャエル神父は冷たく返した。「あの恐ろしい夜を忘れたのですか?」
「いえ……」
男は引き下がった。
リモナの工房を攻撃しようとした際にあの魔物が見せた恐ろしい黒魔術。あれ以来、リモナの工房の付近に近寄れなくなった。
ミヒャエル神父はため息まじりに言う。
「からくりなど、ましてや女の作るからくりなど、あってはならぬものなのです。あなた方は、それに浮かされていた。正しくあるべき姿に戻った、そういうことです」
「そう——ですね。神父様の言うとおりです」
男は肩を落として去って行った。
ミヒャエル神父は肩をすくめて、燭台の蝋燭に火を灯していく。
「ミヒャエル神父」老神父が話しかけた。「あなたはもう少し、このミラージャの町をよく知るべきですよ」
「どういうことでしょう? 私に何か至らぬ点でも?」
老神父は目を閉じて小さく首を振った。
「何事にも寛容であれ——人は鏡のようなものです」
それだけ言うと、老神父は新たに来た教徒の対応に向かった。
ミヒャエル神父は憮然と息をつく。
まったく、老神父は甘くぬるい。だからあのような異端の娘と魔物を寄せたのではないか? それともこのミラージャのだらけ切った空気に長く浸かったせいで、老神父は耄碌しているに違いない。
そう考えると、ミヒャエル神父は身震いした。
私も長くこの町にいると、ああなってしまう。
恐ろしや。
そうなる前にさっさとこんな町とおさらばせねば。
ミヒャエル神父は自室に戻り、書き物机に向かう。しかし脇に置いたからくりが視界に入り、顔を歪めた。
あの小娘の工房から没収したからくり。文字を印字する恐ろしい物体。早々に壊してしまいたかったが、何故かこれは壊してはいけない気がした。
おびき寄せられるように、一枚羊皮紙をからくりの下に敷く。手が勝手に文字盤を押し、右のレバーを下げる。すると、張られたピアノ線が勝手に動き、紙に字が綴られる。
DEMONIO AZUL、と——。
ミヒャエル神父はハッとした。
私は何を……。
からくりの下から羊皮紙を取り、印字した部分をちぎってくず入れに放った。同様の紙切れが、くず入れの半分を埋めている。
まったく、私はどうしてしまったのだ?
ミヒャエル神父は机に項垂れた。
あのイルサームの魔物が忘れられない。
ふとした時に頭に蘇る。
あの鼻腔を刺すピリッとした匂いは、今も鼻の奥に残っている。首にかけられた手の感触——あんなに屈辱的な扱いを受けたのに、思い出すと身体中に熱い震えが走り、ひどく喉が渇く。
狼のようなあの青い瞳。
あぁ、あの魔物は私にどんな呪いをかけたのだ?
あれ以来、夢に現れては堕落へ誘惑する。非常に危険だ。
ミヒャエル神父は机の下に手をやりながら、片方の手を机の端に置いたイチジクへ伸ばした。縋るようにかぶり付く。
熟した甘い果汁が、顎を伝った。
——ふふっ。苦しそうねぇ。
ミヒャエル神父は反射的に立ち上がった。
「誰だ!?」
——ふふっ。可愛らしい反応。
低い女の声だった。
しかし姿はどこにも見えない。
なんだ? やはり私はあの魔物に呪われたのか?
すると、部屋の端の棚に置いた包みが、やけに存在感を放っているのに気がついた。
領地で贅沢暮らしをする兄から先日送られてきたものだ。あの道楽者の男のことだ。碌でもないと放っておいたのだが——。
——そうよ。こっちにいらっしゃい。
しかし、これはまた新たな呪いか黒魔術か?
ミヒャエル神父は棚の前まで来て顔を歪めた。
——大丈夫。あなたは何も悪くない。
そうだ、私は正しい。
——悪いのは、あなたの言葉を理解出来ない愚図共の方。
そうだ。
あの娘もハリルも、あの老いぼれ神父も、このミラージャの町の住人も。
あれら全てが堕落の結果なのだ。
——わたしはぜーんぶ分かってる。わたしがぜーんぶ、癒してあげる。だから、ほら。
ミヒャエル神父は吸い寄せられるように、包みを手に取った。
たいくつにゃ。
リモニャのアホ面がにゃいと締まらにゃいにゃ。
ぺぺは今日も工房に座っていた。
窓枠か棚の上が定位置だったが、最近はリモニャの作業椅子がお気に入りだった。
にゃるほど。
これはいい気分にゃ。
早く帰ってこにゃいと、僕が乗っ取るにゃ。
すると、控えめに扉が開かれた。
リモニャのパパだ。
あいつはいっつもああやって入ってくるにゃ。リモニャがいたときは全然来にゃかったくせに、リモニャが出てってから毎日来るにゃ。
まさかこの工房を乗っ取る気か?
ぺぺは作業椅子に深く座り、ハリルを監視した。
しかしいつものように、机の上の水車の模型をいじるだけだった。
「あなた、またこちらにいらしたんですか?」リモニャのママがやって来た。
「ああ……」ハリルは煮え切らない返事をした。「どうした?」
リモニャのママは目を閉じて息をついた。
「今夜はお食事会ですよ。早めに帰ってきてくださいね」
「ああ、分かってる……」ハリルは曖昧に頷いた。
「神父様が取り計らってくださって本当に助かりました」リモニャのママは胸に手を当てて言う。
「そうだな」ハリルはまたも曖昧に返した。
「あの子……大丈夫かしら」
リモニャのママは、作業椅子に目を向けた。
しかしそこにいるのがぺぺと気付くと、眉をひそめた。
するとハリルが首を振って、リモニャのママの肩を叩いた。
二人は静かに工房から出て行った。
***
目の前にそびえたつ色鮮やかで複雑なからくり時計を、リモナとアズラクは口を開けて見上げた。
「人形が動いてるよ」
「そうだな」
「ピコピコハンマー叩いてるよ」
「そうだな」
「ステンドグラスが動いてるの分かる?」
「マジですげぇよな」
「ずっと見てられるねぇ」
二人はほえぇと間抜けな声を上げて、時報のからくり動作が終わるのを未練がましく眺めていた。
「もう一時間待つ?」
「何なら裏に忍び込むか? しかし荷物がなぁ」
二人はオレンジの木箱を見た。
上にはリモナの工具箱と、ミラージャを出る際にママが持たせたかごを括り付けている。今朝、ニナの家を出る際に固定紐を借りたのだ。お陰でアズラクの風魔法の誤魔化しが、苦しくなくなった。
リモナは懐から手紙を出した。ミラージャを出る際に老神父から渡された彼の友達宛の手紙だ。宛先を見ると、この街にいるらしい。
「とりあえずこの人のところに向かうかぁ。あ、ねえそこの人!」リモナは適当な通行人に声をかけた。「ねえねえここの住所知ってる?」
通行人は迷惑そうに歪めた顔でリモナと、その隣のアズラクを見た。「何ですかその人、イルサーム人?」それからリモナを胡散臭そうに見た。「あなたも何ですか、その田舎訛り」
リモナは少しむっとした。「田舎から来たんだもん、仕方ないでしょ。それよりここの――」
「あーあー、どっか行った行った。田舎臭さとイルサーム臭がうつる」通行人は片手を振ってそそくさと去っていった。
リモナは地団駄を踏んだ。「なにあれなにあれ! 感じわるー!」
「あいつのが糞くせぇんだがな」アズラクは声を低くした。「絞めるか?」
「いいよあんなの」リモナは鼻をつまんだ。「別の人に聞こ。あ、ねぇそこの——」
「おい、そこの怪しい二人組。お前らは何者だ?」
いかつい格好をした男数人が、リモナとアズラクに向けて剣を抜いた。
アズラクが一歩前に出る。「言っておくが、俺はイルサーム人じゃねえ」
「嘘をぬかすな、明らかに南の人種だろう」男の一人が言う。
「本当だもん」リモナは後ろからぴょんぴょん跳ねて言う。「アズは海からやってきたんだよっ」
「おい、リモナ……」アズラクはため息をついた。
「海から……? 不法入国したのか、敵の密偵だな?」
「いやだから違ぇんだって」アズラクは項垂れた。「お前らがどこと何してようが、こっちは知ったこっちゃねえんだよ……」
「何だと? つくづく怪しいな、お前。おい、そいつの荷物を調べろ」前にいた一人が、他の男らに命令した。
男らは剣を二人に向けながら近づく――が、近付けない。
「な、何だこれ? 先に進めない……っ」
「何だ? お前何をした?」
「何ってなんも」アズラクはのんきに木箱に腰を掛けた。「そんな往来で人に剣向けるからそうなるんじゃねえの?」
「何だと!?」男らは更に血気づく。
「ねえねえアズ」リモナはアズラクの腕をつついた。
「何だ?」アズラクは行儀悪くリモナを見た。
「工具箱、踏まないで」
アズラクは自分の尻の下を見た。「あ、すまん」すっと立ち上がる。
「うん、いいんだけど」リモナは無機質に返しつつも、工具箱の表面を手で払った。
男たちは目を丸くしてその光景を眺めていた。
「なぁ、あいつら何なんだ……?」
「ふざけてやがる……」
「どうする? 突き出すにも、これじゃあらちが明かねえぞ。教会のやつら連れて来るか?」
「おい、女。お前は何者なんだ?」焦れた一人がリモナに尋ねた。
「へ、あたし?」
リモナは素っ頓狂な声を上げた。
あ、だめだめ、仕切り直し。
リモナは咳払いすると、片手を腰に置き、片手を額に当てた。
「えっへん。あたしはからくり技師のリモナ親方です」
「は?」
男たちは目を丸くし、変な沈黙が下りた。
そして――彼らは盛大に笑った。
「この女も大概頭おかしいぞ。からくり技師だってさ」
「おい、マジで頭のおかしい二人組じゃねえか。女がからくり、ありえねー」
「本当だもん!」リモナは謎ポーズのまま地団駄を踏んだ。「ここに来るまでに織機十台くらい修理してきたし」
「あんなん誰でもできるだろ」誰かが言う。
「めっちゃ毛皮作れるジグ作ったし!」
「なんか意味不明な言語喋ってんぞ、こいつ」
「ミラージャにいた時だって水車直したりしたし、転写機作ったし!」リモナは拳を握りしめて、上下に動かした。
しかし男たちはげらげら笑い、誰かは手を叩いた。
まったく信じてくれてない。
リモナの怒りに呼応するように、周りをうごめく風が、ピリピリし始めた。
「あ、あの、そしたら、修理をお願いしたいんだけども!」別な声が差し挟まった。
リモナたちは一斉にそちらを向いた。
おどおどした青年が、手を挙げていた。




