第819編「ラベンダーの滴が落ちるたびに」(指先から伝わる、甘い予感)
カーテン越しに差し込む午後の光が、琥珀色のオイルボトルを透かし、揺らめく影をベッドに映し出していた。部屋に広がるのは、芳醇なラベンダーとスイートオレンジのブレンド。やわらかな香りが、熱を持った肌をそっと包み込む。
「ねえ、沙月。今日は少し圧、強めがいい?」
声をかけながら、早紀は掌にオイルを垂らす。とろりとした液体が体温でなじみ、ゆっくりと広がる感触が心地よい。
「……うん。あと、肩甲骨まわり、少し念入りにしてほしいかも」
ベッドにうつ伏せになった沙月が、甘えるようにお願いする。タオルの隙間からのぞく白い首筋には、さっきまでのバスタイムで残った湯気が、かすかにまとわりついていた。
早紀は微笑み、指先を滑らせる。オイルの膜が、肌と肌の間にぴたりと吸い付き、手のひらがしなやかに動く。母指球を使って肩甲骨の際をゆっくりとほぐし、肋骨に沿うように圧をかける。
「ふぅ……すごく、気持ちいい……」
沙月の吐息が、熱を帯びる。
オイルマッサージにおいて、施術の終盤は特に大切な時間。血流が巡り、ほぐれた筋肉が心地よさに浸るタイミングだ。その余韻を最大限に楽しんでもらうため、早紀は手を止めずに、ゆったりとクールダウンに移る。
脊柱に沿って、指先でオイルを流すように。肩から腕へ、手首から指先へ。軽擦法を意識しながら、優しく、繊細に。
──そのはずだった。
「ん……」
沙月の喉から、小さく甘い音がこぼれる。
早紀の指が、肩のラインをすべる。オイルのなめらかさに誘われるように、手の動きが自然と深くなっていく。クールダウンのはずが、指先に残る沙月の体温が、静かに熱を呼び覚ましていく。
「……沙月?」
「……ん、なんか、ちょっと……」
振り向いた沙月の頬は、ほんのり上気していた。オイルの照りが艶めいて、普段よりも柔らかく見える唇。
早紀は一瞬、指を止める。けれど、止めるべきではなかったのかもしれない。
掌に残るオイルの感触。すべる肌。
静かな午後の光のなか、二人の距離は、すでに指先よりも近くなっていた。




