第815編「朧のふたり」(霞む色の向こうに、あなたがいる)
春の夜のことだった。
薄墨で描かれたような桜が、朧月の光にぼんやりと滲んでいた。風もないのに、花びらが舞う。まるで水墨の筆先が、静かに余白へと滲んでいくように。
「今日は、まるで**朦朧体**の世界ね」
絵筆を握る千鶴が、隣に座る凛を見た。
「ほんと……境目が曖昧で、すべてが溶け合ってるみたい」
凛の視線の先には、川辺に映る夜桜の影が揺れている。水面は墨を流したように淡く波打ち、桜と月とがひとつの風景として混ざり合う。
「**無線描法**のように、輪郭をなくしてみたらどうかしら」
千鶴が筆を走らせると、画面の中の桜もまた、光と影の曖昧な揺らぎを帯びた。
「でも、あなたが描く桜はいつもどこか……私に似てる気がする」
凛がそう言うと、千鶴はふっと微笑んだ。
「そりゃあ、私にとって一番美しいものを描くんだから」
凛は少し照れたように千鶴の肩へ寄り添った。
「千鶴の手の動き、好き。**たらし込み**をするときの柔らかい筆さばき……優しくて、でも芯がある」
「あなたに触れる時も、同じようにしてるつもりだけど」
そっと指を絡める。
風景は霞み、輪郭は滲み、すべてがひとつに溶け合う。
——私たちも、そうであれたらいい。
ふたりの世界は、画家の筆の先のように、静かに混ざり合っていった。




