第792編「ふたりの猟場」(仕留めた命に、敬意を込めて——私たちは、生きるために解体する)
冬の森には静寂が満ちている。澄んだ空気が肌を刺し、雪の上にふたりの足跡だけが続いていた。
「そろそろ仕掛けたくくり罠のところね」
そう言いながら歩くのは、凛奈。ショートカットの黒髪をニット帽の中に収め、迷彩柄のジャケットを着込んでいる。彼女は熟練の猟師であり、幼い頃から祖父に狩猟を教えられてきた。
その後ろをついていくのは、千春。細身の体にダウンジャケットをまとい、肩に猟銃をかけているが、彼女はまだ猟師としての経験が浅い。
「罠にかかってるかな……?」
期待と緊張が入り混じった声に、凛奈は小さく微笑んだ。
「獲れてるといいけどね。もし空振りなら、また仕掛けを見直せばいいさ」
森を抜けると、小さな沢沿いに設置したくくり罠が見えた。
——動いている。
雪の上に茶色い毛並みが揺れ、バタバタともがく音が聞こえた。
「かかってる……!」
千春が息を呑む。罠にかかっていたのは、立派な雄のニホンジカだった。
「後ろ脚がしっかり締まってる。逃げられない状態だな」
凛奈が獲物を観察しながら、ナイフを取り出した。千春も覚悟を決めたように猟銃を構える。
「……私が撃つ」
彼女の声は震えていたが、その目には覚悟が宿っていた。
「心臓を狙え。無駄に苦しませないように」
「うん……!」
千春はしっかりと狙いを定め、引き金を引いた。
銃声が森に響く。
シカの動きが止まり、雪の上に血が滲んでいった。
——一つの命を奪った。
千春はしばらくその場に立ち尽くしていたが、凛奈がそっと彼女の肩を叩いた。
「千春、ありがとう。この鹿は、私たちの糧になる」
千春は深く息を吐き、頷いた。
「……解体、始めようか」
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ふたりはシカの体を木に吊るし、丁寧に解体を始めた。
「まずは喉元を切って、血抜きをするよ」
凛奈がナイフを入れると、赤い血が流れ落ちる。千春は持参したバケツを置き、こぼれないように受け止めた。
「シカの血は鉄分が多くて、栄養価が高いんだ。ソーセージやブラッドソースに使えるから、無駄にしないようにね」
「うん……」
千春は緊張した面持ちで血抜きを見守った。
しばらくして血の流れが収まると、次は皮剥ぎだ。
「ここからは、ナイフの使い方が大事」
凛奈はシカの後ろ脚からそっと切り込みを入れ、慎重に皮を剥いでいく。
「力を入れすぎると肉まで傷つけるから、刃を寝かせて滑らせるようにね」
「……こう?」
千春が恐る恐るナイフを動かすと、皮がスルリと剥がれた。
「そうそう、上手いじゃん」
褒められて、千春は少しだけ笑った。
皮を剥ぎ終えたシカの体は、筋肉のラインがはっきりと見える。
「次は内臓を取り出すよ」
凛奈は腹部にナイフを入れ、慎重に広げた。
「腸を傷つけると臭みが出るから、慎重にな」
「わかった」
千春は息を止めるようにして、丁寧に手を動かした。
肝臓、心臓、肺——それぞれの臓器を取り出し、用途ごとに分けていく。
「この心臓、すごく綺麗……」
千春が手に取ると、まだ温もりが残っていた。
「シカの心臓は美味しいんだよ。スライスして塩胡椒で焼くと、最高のご馳走になる」
「……楽しみ」
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すべての解体が終わり、持ち帰る部位を整理する。肉は部位ごとにラップで包み、骨はスープ用に取っておく。
「よし、これで終わり」
凛奈が息を吐く。千春も手を止め、満足げにシカを見つめた。
「思ったより大変だった……でも、やり切ったって感じ」
「千春、よく頑張ったね」
凛奈がそっと千春の手を握った。その手には、シカの血がついていたが、二人とも気にしなかった。
「ありがとう。……凛奈と一緒だから、できたんだと思う」
「これからも、一緒に猟をして、一緒に食べよう」
「うん」
千春は凛奈の胸にそっと顔を埋めた。
「……この命、ちゃんといただこうね」
「もちろん」
雪の森に、ふたりの影が寄り添う。命を奪い、生きるためにそれをいただく——その重みを共有できる関係だからこそ、二人は強く結ばれていた。
そしてその夜、ふたりは仕留めた鹿の肉を焼き、ゆっくりと食事を楽しんだ。
柔らかな鹿肉が口の中で広がるたびに、互いの存在がより確かなものになっていく。




