僕の婚約者
リヒト・ハインツ・ベルンは至って平凡な少年だった。
五歳の時から様々な教育を受けてきたが才能と言えるほど秀でたものはない。授業を受ければ受けた分だけ、能力が身について行く程度だ。
それも、毎日復習と予習をしなければいつの間にか忘れてしまう。
努力した分だけ能力は身に付き、怠れば能無しになる。普通と言う言葉が一番よく似合っている少年だった。
父親譲りの容姿だけは一般の人間より秀でていたかも知れないが、それは兄弟全員が同様だ。彼だけが特別と言う訳ではない。
それに比べて、兄は有能な人間だった。
四人の兄弟の中で最も優れた長男であり、後に国を担う王としての品格を持ち合わせていた。
何事に対しても能力を発揮し、一度学んだことは殆ど忘れることがない。頭もよく切れる。僅か七歳にして異国語を使いこなし、八歳で二年間の異国留学、十二歳の頃には父王に付いて国政を学んでいた。ただ、少々人をからかって遊ぶ癖はあったが、弟であるリヒトの面倒を見る良き兄でもあった。
兄とリヒトの歳の差は五つしかない。リヒトは才能に溢れた兄が大好きだった。しかしその反面、リヒトにはその年の差すら、天と地ほどの差のように思えた。
兄とリヒトは腹違いの兄弟だ。
兄の母であるかつての王妃は兄を生んですぐに病死した。リヒトを生んだのはその後、王妃となった女性。
彼の母親である現王妃は以前の王妃よりも身分の低い女性だった。
そのこともあり、リヒトが生まれてからと言うもの、社交界では妙な噂が流れ始める。
今の王妃が無能だから、新しく生まれた第二王子が何の才も持たない哀れな王族になってしまった。
噂に焦った王妃はその後、リヒトに続いて二人の王子を産んだ。しかし、長男である兄程の能力は持ち合わせておらず。
どうしようもなくなった王妃は自分にとって最初の子であるリヒトに言った。
「お前なら出来るはずです。兄よりも賢く、常に完璧でありなさい。感情を表に出さず、どんな状況でも表情を崩さず、笑顔でいなさい。そして社交界でお前の名前を知らない者がいなくなったら、いつかお前がこの国の王になるのです。良いですね?」
暗示の様に王妃はリヒトに会うたび、いつもそう言った。
幼いリヒトは何も解らないまま、常に王妃の言葉に従うしかない。
そうしなければ、当時の彼は生きていけなかったからだ。
当時、王妃の精神は完全に壊れていた。
社交界で向けられる大勢の目に耐え切れず、政略結婚であったが故に国王から寵愛を受けることもない。身寄りのない王妃の崩壊の矛先は当然のように息子のリヒトに向いていた。
彼が王妃の前で泣いたり、表情を少しでも崩せばすぐに殴られた。成績を下げれば部屋に閉じ込められ、出して貰えなくなる。夜会や舞踏会で少しでも何か王妃の気に障る行動をしただけで食事を抜かれた。王妃が気に入らない話をすれば暴力の雨は止まなくなる。
そんな生活はリヒトが七歳の時まで続いた。
一番に彼の変化に気づいたのは兄だった。
二年に渡り、異国へ留学していた兄は帰国して、成長した弟の姿を見た時、驚きを隠せなかった。
かつては表情豊かだったリヒトがいつの間にか笑顔以外の表情を浮かべなくなっている。体は痩せ細り、とても健康体であるとは言えない。
王妃の虐待に気づいた兄はすぐに王妃からリヒトを取り上げた。
王妃は発狂し、リヒトを返せと兄に懇願する。しかし、兄は王妃にリヒトを返すことなく、そのことを知った国王は息子に危害を加えた王妃を精神的療養と言う名目で遠方に飛ばしてしまった。
「大丈夫だ、リヒト。もう心配ない。」
兄はそう言ってリヒトを強く抱きしめる。
それは、彼が痛いと思うくらいの力だった。
温かい。
リヒトは思う。
何か言葉を返さなければと口を開いた。
「まだ、挨拶をしていませんでした。大変失礼を兄上。お久しぶりです、お元気そうで何よりです。」
リヒトは、驚愕で言葉を失っている兄に向かって変わらない笑みを向けた。
リヒトが表情を取り戻し始めたのは約五年後のことだ。
あの日以来、彼が少しでも元の少年に戻れるようにと面倒を見てくれた兄は今、高等学園に通っている。
兄の御蔭でリヒトは王妃がいた頃よりも少し自分の考えで行動できるようになった。
一人の時であれば笑顔を崩すことが出来たし、兄に似たのか余程親しい相手には少しからかうような素振りも見せた。従弟のスピッツ・ハインツ・ベルンとは仲が悪く、喧嘩になることも数知れず。それを見た兄がわざとスピッツの所にリヒトを連れて行こうとした時は兄とももめた。
しかし、感情を表に出せるようになってもリヒトは未だに人形の様だった。
誰かに悪口を言われても表情一つ崩さず笑っている。
怪我をしても口角一つ下げない。
勉学では常に完璧に近い成績を取り続け、礼儀作法や振る舞いは付け入る隙がないほど完璧だ。
王妃に掛けられた呪いはまだ彼を蝕んだまま。
彼がここまで戻るのに五年もの歳月が過ぎた。それでもなお、消えない暗示が彼を縛り付けている。
そんな中で、リヒトには見合い話が舞い込むようになっていた。
十二歳になった彼は婚約者が出来ても可笑しくない年になっている。
誕生日に祝いの言葉と共に送られてきた大量の手紙は全て見合いの申し出ばかりだった。
王族である以上、爵位のある家の令嬢と交流を持っておくことは決して損ではない。寧ろ、有力な婚約者が出来れば、さらに国に貢献できる。
父王からの言いつけもあり、リヒトは数名の令嬢と顔を合わせた。
リヒトが会ったどの令嬢もまるで口から生まれたかのように良く喋る。かと思えば、リヒトが話し出すのを待って何も話さない令嬢もいた。
常に笑ったままのリヒトは相手の話を聞いていることと黙っていること以外、何もしなかった。
もしも仮に何かを言って、それが相手の気に障ればどんな行動に出られるか解らない。
リヒトの中で、女性は王妃と同じ扱いだった。
行き成り発狂されても困る。相槌だけ打っていれば良いだろう、と。
その中でも一際よく喋り、身の回りに纏わりついて離れなかったのが公爵令嬢のキマイラ・イエリエリだった。
頭にはでかでかとした濃いピンク色のリボン、ど派手なドレスに身を包み、顔には歳にも見合わない厚化粧。
リヒトは最初、彼女を妖怪かと思った。
父王とも交流の深い公爵の娘で、我が儘放題に育った礼儀知らずの箱入り娘。
彼女は政略結婚の相手としては最も良い婚約相手だろう。
キマイラとの婚約は確定に近かった。
気乗りなどするはずがない。
それでも、それが国の為だと言うならば婚約を拒む権利はないとリヒトは思った。
そして、予想通り、父王はリヒトに言った。
「先日会ったキマイラ・イエリエリ嬢を覚えているか?」
「はい。」
「彼女と婚約してほしい。」
「解りました。」
「・・・私とてあのような娘のお前をやりたくはない。しかし、彼女の父には幾度となく助けられた。あの娘さえ、お前と結婚したいなどと言わなければ、まず在り得ん話だ・・・。すまない。」
「いいえ、父上。王子として国のために尽くすのは当然のことです。」
いつもの微笑んだ表情で淡々と告げる。
さらに話を聞けば、明日、イエリエリ邸で彼女に会ってほしいとの話だった。
リヒトは当然のように二つ返事で了承した。
これから先、上手くやって行くしかない。
この時、リヒトの口からは気づけば溜息が零れていた。顔は笑ったままで。
しかし、奇妙なことだ。
翌日会ったキマイラ・イエリエリは厚化粧も派手なドレスも着ていない、脹れっ面の美少女だった。
あれから数週間。
クロノス中等学院の男子寮でキマイラとリヒトは試験勉強に精を出していた。
今日は試験前日。
もう外は大分暗くなり、夕日は半分以上沈んでいる。
明日のテストの備え、放課後は学んだことの復習をひたすら続けていた。
テーブルの上の紅茶はいつも通り冷めきっている。
黒縁の眼鏡を掛けていたリヒトはそれを外して置くと、立ったままテーブルに凭れ掛かった。紅茶の冷めたカップに手をかけ、口元に運ぶ。
向かいの席にはキマイラが座っていた。
一冊のノートの上に突っ伏している彼女は静かに寝息を立てている。
勉強を始めてから数時間。リヒトが気づいた時にはキマイラは眠ってしまっていたのだ。
「はあ・・・。」
紅茶を飲んでいたリヒトの口から深い溜息が零れる。
普通、男の部屋でこんな無防備な姿をさらしますか?
しかも、爆睡。
貴方は本当に、どこまでも令嬢らしからぬ振る舞いをしますね。
カップを置いたリヒトはふとキマイラが読んでいたノートに目をやった。
最近使い始めたにしてはもうボロボロになっている青色の大学ノート。
中には大量のメモや書き込み、数学問題の応用方法などがびっしりと書き込まれている。
キマイラが目を覚まさないよう、ゆっくりとのそれを引き抜いたリヒトは自分の走り書きに目をやった。そして、ページを捲って行く。
リヒトがキマイラにノートを貸したのは一時間前。
応用がどうしても解けないと言うので、躊躇しながらもノートを見せた。
社交界では王族の男子は生まれつき才能に恵まれていると言う考えが常識だ。それは現王や兄のような人間のことを指しており、努力しなければ何も得られないリヒトは除外される。
爵位ある家の子息令嬢は誰もが知っていること。
キマイラにノートを見せてほしいと言われた時、リヒトはすぐに返答できなかった。
社交界の常識である以上、公爵令嬢であるキマイラがそのことを知らないはずがない。
リヒトのノートには解りずらい問題の解き方などが所是ましと書き込まれている。
もしも、ノートをキマイラに見せたら彼女はリヒトに幻滅するかもしれない。いや、普通の貴族であれば間違いなく幻滅する。
やはり、リヒト・ハインツ・ベルンには王としての器がないのだ、と。
しかし、リヒトはキマイラにノートを見せた。
彼女の目がやけにきらきらしていて、断り切れなかったと言うのもあるがリヒト自身が、その時キマイラが解いていた問題を口頭で説明しきれる自信がなかったのだ。
教えると言った以上は、きちんと説明しなくては・・・。
リヒトがノートを手渡すとキマイラはお礼を言って、直ぐにノートを開いた。
ページを見て、キマイラは暫く沈黙し、そして。
「わ、解りやすい!」
驚きのあまり口が閉まらないのかキマイラはノートを凝視したまま目を輝かせていた。
彼女の反応にリヒトは胸を撫で下ろす。
暫くノートを読んでいたキマイラはリヒトの方を見ると満面の笑みで言った。
「凄いですわ、ハインツさん!こんなに細かいノート、初めて見ましたわ!教科書よりずっと解りやすい!!」
「それは良かったです。」
「でもこれ、授業で習ったこと以外も書かれてますわよね?自分でお調べに?」
「はい、図書館で調べました。スピッツがいない時に。どうにも・・・授業だけでは解りずらくて。」
「あ、解りますわ!授業って解らなくなると置いて行かれてしまいますもの。私、一回置いて行かれたらどれだけ教科書を読み直しても理解できなくて・・・これじゃいけないのですわね!!私もハインツさんを見習ってもっと努力しなければ!!今までの勉強法では努力不足ですわ!!」
意気込むキマイラはリヒトに尊敬のまなざしを向けながら自分のノートを見直している。
まるで幻滅する気配のないキマイラを見て、リヒトは首を傾げた。
「貴方は、驚かないんですか?」
「何にですの?」
「僕のノートを見て。」
「それは驚きましたわ!ハインツさんのノートはもうどんな教科書にも負けないくらい、」
「そうじゃなくて。僕がこんなことをしないと勉強も出来ないと知って、です。」
「はい?」
「僕は努力しないと上位の成績も取れません。」
「上位の成績を取っている人は努力している人ではありませんの?」
「王族は生まれつき才能を持って生まれ、努力せずとも大抵のことが出来ると言うのが世の常識です。ない者は出来損ないとして扱われます。」
「そうなんですの!?」
「知らなかったんですか?」
「全く知りませんでしたわ。びっくりです。」
「イエリエリ公爵にそう言った話を聞かされたことはないんですか?」
「自慢にはなりませんけど、生まれて十二年、父の話をまともに聞いていた記憶がありませんの!!」
「本当に誇れませんね。」
「そうなんですのよ・・・。だから今まであんなだった訳ですけど・・・。」
「貴方は本当にイエリエリ家の令嬢ですか?」
「そこまで追い打ち掛けますの!?反省してますわ、これからはもっとちゃんと聞くようにしますわ。」
どうやらこの令嬢は社交界の常識すら知らなかったらしい。
まあ、今になって考えてみると知らなくても可笑しくはないのだ。何せ、キマイラは人前で簡単に頭を下げるような令嬢だ。
王族が才能を持って生まれなければいけないことなど、彼女には興味もないのだろう。
安堵と呆れがリヒトの中に込み上げた。
眼鏡をはずし、持っていたペンを置く。
「兄や父にはそう言った才能が有ります。無論、僕は持ち合わせていませんが。」
「そうなんですの。」
「幻滅しました?」
「全然。」
「即答ですね。」
「はい。だって、才能がないから出来損ないなんておかしな話ですわ。この世界で英雄と呼ばれる人たちが皆、何かの才能を持っていた訳ではないでしょうし、寧ろ、そう言う人たちは皆努力したから英雄って呼ばれるようになったんですわ。きっと。普通の人が出来損ないって言うのも失礼な話ですし。」
「王族はそうは思われません。」
「あら。うーん・・・さっきの説明を聞いて思ったんですけど、才能と言うのは別にお勉強に秀でていることに関してだけではありませんわよね?」
「え?」
「スポーツ、楽器、物づくり、剣術、馬術。この世のありとあらゆるものの中で何か一つでも天職になりそうなものがあれば、それで才能を持っていることになるんじゃないですの?」
「・・・そう言う考え方はありませんでした。」
「ハインツさんは私と話すと直ぐに私のことを引っ掛けますけど、それも話術に長けているからこそできることだと思いますわ。貿易とか、コミュニケーション能力と交渉術が必要でしょう?まあ、私に使うのはなるべく控えて頂きたいですけど。これって才能に入りませんの?他にも、ハインツさんが教えて下さるお勉強はとても解り易いですし、私が理由で学院に入学して来た時なんて行動力に驚かされましたし、それから」
キマイラはリヒトを肯定するように幾つも彼の長所を上げた。
たった二週間と少しの付き合いでも多くの時間は彼と共有しているキマイラにはそれが出来る。
今まで才能がないリヒトを誰もが否定した。否定しなかったのは父王と兄。家族であるたった二人の人間だけ。
しかし、キマイラは他人でありながら普通であるリヒトを全く否定しなかった。
驚き、言葉が出ないリヒトは自分の内から何かが湧き上がってくるのを感じる。
彼がここまで誰かに褒められたのは初めてだ。
「あとは、あら?どうしましたのハインツさん?顔が赤いですわ。」
「え!?い、いえ、何でもありません。」
「もしかして・・・照れてますの?」
キマイラがきょとんとした顔で聞くとリヒトは服の袖で顔を隠した。
「ち、違っ!」
「うふふ。」
「笑わないでください!」
「ごめんなさい、珍しくてつい。」
「僕の事、からかってます?」
「ふふ、日頃のお返しですわ。でも、本当に可愛いとは思ってますのよ?」
「男が可愛いなんて言われても、複雑な心境になるだけです。」
「そうですの?ごめんなさい、ふふ。」
クスクスと笑うキマイラを見て、リヒトは反撃しようかとも考えたが止めた。
今日は特別に許します。でも、今日だけです。
「ありがとうございます、キーマ。」
「え?何のことですの?」
「いいえ、こちらの話です。さあ、勉強に戻りましょう。」
「はい!」
それから一時間。
気づけばキマイラは爆睡し、リヒトが幾ら肩を揺らしても起きる気配すらない。
そうこうしている間に男子寮の廊下は騒がしくなった。
もう大半の寮生が戻ってきていることだろう。
今から彼女を起こしても誰にもバレず、部屋から出すのは至難の業だ。
こんな時間まで男子寮にいたことが寮長にバレたら面倒ですね。
起きる気配もありませんし、今日はもうこのまま泊まってもらうしか・・・
「はあ・・・。」
まるで男として見ていないと宣言するような熟睡。
信頼されているのは嬉しいが男としてはどうにも複雑な心境だ。
再び深い溜息をこぼしたリヒトはノートを置いて、キマイラの方へ回った。
十二歳の少年が同じ年の少女を抱え上げるのは簡単なことではない。
普段から剣術の鍛錬を受けているとは言え、起こさずにキマイラを運べるかどうか、リヒトは不安だった。
しかし、実際に眠っているキマイラを抱え上げてみると簡単ではなかったがそう難しくもない。お世辞にも軽々と、とは言えないが抱え上げて寝台に運ぶくらいのことは出来た。
因みに世間に言うお姫様抱っこである。
自分の寝室に彼女を運び込んで寝台に寝かせた。
何か良い夢でも見ているのか嬉しそうに笑っているキマイラに布団をかける。
リヒトは寝台に腰かけるとキマイラの顔に掛かった髪を払った。
「無防備にも程があるでしょう?もう少し警戒してください。」
そう言って軽く鼻をつまむとキマイラは苦しそうに表情を歪める。
その顔が面白く、小さく笑ったリヒトが直ぐに彼女の鼻から手を放すと眠っているキマイラは離れた彼の手に擦り寄った。
微笑んだリヒトが彼女の頬を撫でると、また満足そうに寝息を立てる。
「全く。貴方は僕に嫌われたいと言うけれど、それはさらに難しくなりましたよ?でも貴方が悪いんです。ふふ、これから覚悟していてくださいね?僕の婚約者殿。」
部屋から出て行ったリヒトはいつになく上機嫌だった。
翌朝早く、キマイラが起きてきた時、驚愕の表情を浮かべてリヒトの顔を見たのを見て彼は腹を抱えて笑ったらしい。




