第4話 町の値札
北門の水路施設は、街の資産だから勝手に触れることはできない。
その当たり前の問題に気づいたのは、三人で坂を上り始めてからだった。
「鍵は評議所が持ってる」
バルドが言う。
「じゃあ、許可を取ってきます」
「取れるかどうかは知らねえぞ。いまの評議所は、住民を逃がす手続きで手いっぱいだ」
評議所は広場の反対側にあった。玄関には長蛇の列ができている。外へ出る通行証の発行、残った備蓄食料の割り当て、家を処分する者の相談。人生が崩れるときに必要なのは大きな演説より、机と紙と印鑑らしい。
窓口に座る若い女性は、青白い顔で帳簿をめくっていた。
「揚水機の修理許可? またですか」
「また?」
「前にも二組来ています。結局、危ないからやめろという話になって」
「危ないのは分かっています。だからこそ、構造を確認してから判断したいんです」
「専門家の証明はありますか」
しまった。異世界転移して数時間の人間が、何を証明できるというのか。
俺が黙ると、隣にいたエドが口を開いた。
「牧瀬の保証人になります。俺はこの町の農家だ。身元なら調べられる」
「保証人がいても資格が……」
「資格が必要な仕事はしません。施設の内部を見て、職人とできることを整理します」
女性が困っていると、奥の部屋から小太りの男が出てきた。灰色の上着を着て、胸には古い金色の徽章がある。
「水路の話なら、もう終わったはずだ」
男は評議員のガデルと名乗った。
「残りの備蓄を使ってまで修理する理由がない。九十日後には町が消える。住民は退去すべきだ」
「でも水がなければ、九十日どころか一週間も持ちません」
「だから早く出ろと言っている」
安全なうちに逃がす。間違いではない。
「街道の橋が壊れているそうですね。外へ出られない人はどうするんですか」
「運搬隊に交渉している」
「何人を、いつまでに運べますか」
ガデルの口元が引きつった。
「それは調整中だ」
「なら、水を直す選択肢も残したい。直せると決まっていないのと、直せないと決まっているのは違います」
窓口の列から、小さく同意の声が上がった。
ガデルは机を叩いた。
「口だけの余所者に町の金は出せん!」
「町の金はいりません。見せていただいたあと、必要な材料と人手を見積もります」
「見積もり? 何に使う」
「直せるかどうか、皆さんが判断するためです」
ガデルは押し黙った。
代わりに受付の女性が、躊躇いがちに手を上げる。
「前回の点検記録を読むことと、内部の目視調査だけなら、緊急調査の申請ができます。作業を始めるには、別の許可が要りますけど」
「助かります。名前を教えてもらえますか」
「ミナ、と申します。臨時の書記です」
よく見ると、まだ幼さの残る顔だった。十五か十六。数字を追う目だけが、年齢に似合わず鋭い。
「報告書は全部読みましたが、必要な部品が足りないらしいんです。水車の軸受けと、逆止弁の一部。部品を買うお金がありません」
「どれくらい必要なんですか」
ミナが数字を書き出す。俺の知る通貨とは違ったが、硬貨の枚数は分かった。町の備蓄予算をほぼ食い潰す金額だった。
「修理に失敗したら、冬用の食料を買う余裕もなくなります」
彼女の目には、単なる反対ではない恐怖があった。帳簿の一番下にある赤字は、人の腹を空かせる。
「じゃあ、まず何も買わずに調べましょう。使える廃材がないか探す。費用がかかるなら、そのときもう一度相談する」
「……保証できますか」
「保証できるのは、勝手に金を使わないことだけです」
ミナはしばらく俺を見つめ、やがて記録庫の鍵を取り出した。
「だったら、私も行きます。記録を読める人が必要でしょう」
「待て。まだ許可したわけじゃない」
ガデルが書類に手を伸ばす。ミナはその前に、調査申請の用紙を置いた。
「評議員の署名欄はこちらです。バルドさんが安全責任者、私が立会人。解体作業はしない、と明記します」
「……お前、いつからそんなに口が回るようになった」
「今朝からです」
ガデルは疲れた顔で判を押した。紙には「内部観察のみ」と赤字が入った。
施設の鍵を受け取るころには、昼の鐘が鳴り始めていた。




