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旦那様は15回目の浮気中  作者: 渚月(なづき)


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第8話 最後の忠臣

マティアス卿は、仮面舞踏会から七日後に息を引き取った。


穏やかな最期だったと聞いた。最後まで懐中時計を握りしめていて、その蓋の裏には亡くなった妻の小さな肖像画が嵌め込まれていたという。人の最期に握るものが、その人の人生を語る。マティアス卿は、愛する人を握って逝った。


イサク殿は葬儀の間、一度も泣かなかった。ただ、眼鏡の蔓を叩く指が、いつもより震えていた。


「卿は、わかっていたのだと思います。自分の時間が限られていることを」


葬儀の後、二人で王宮の回廊を歩いた。並んで歩くのは初めてだった。いつもは向かい合うか、文書越しのやり取りだったから。隣を歩くと、イサク殿の背の高さが改めてわかる。わたくしの目線は、彼の肩にようやく届くくらいだ。


「だからこそ、あの報告書を急いでいた。ご自身の手で完成させたかったのでしょう」


「マティアス卿の最後の仕事を、無駄にはしません」


その声には、師への誓いがあった。そしてわたくしへの約束も。言葉にはしないけれど、わたくしにはわかる。この人は黙って行動で示す人だから。


イサク殿の声は静かだったが、芯に鋼が通っていた。わたくしはその横顔を見上げた。いつもは丸めがちな背が、今日はまっすぐに伸びている。師の遺志を引き継ぐ覚悟が、身体の線を変えていた。


マティアス卿の葬儀には、王宮の財務関係者が大勢参列していた。卿がどれほど多くの人に慕われていたかがわかる。若い官吏たちの中には、目を赤くしている者もいた。良き師を失うということは、道標を失うことに等しい。


「イサク殿。あなたは一人ではありません」


自分でも驚くほど自然に、その言葉が出た。


イサク殿が足を止めた。わたくしも止まった。回廊の窓から差し込む光が、彼の黒髪に落ちた。


「ソフィア殿。あなたがいなければ、この調査はとうに行き詰まっていた」


「お互い様です」


「いや——」


イサク殿がわたくしの方を向いた。眼鏡の奥の目が、今まで見たことのない光を帯びていた。温かく、けれど真剣な光。


「あなたがいることで、私は——正しいことをする勇気を持てています」


それだけ言って、イサク殿は歩き出した。わたくしも歩き出した。半歩だけ、さっきより近い距離で。肩が触れそうで、触れない距離。それがわたくしたちの今の距離だった。





マティアス卿の報告書は、王太子カイ殿下を動かした。


正式な調査命令が下り、アルヴァイン公爵家の財務に対する王室監査が開始された。もはや「定期監査」という建前ではない。不正の疑いに基づく、本格的な調査だ。


ダリウス様の動きが、目に見えて変わった。


まず、エステル嬢との接触が急に減った。次に、深紅の仮面の男——南方の商会との連絡を絶った。そして、わたくしに対する態度が急に柔和になった。


「ソフィア、最近は顔色が良いな。庭の薔薇も見事に咲いている」


夕食の席で、夫が三年ぶりにわたくしの名を呼んだ。右手がカフスに触れている。嘘の印。


「ありがとうございます、ダリウス様」


わたくしは穏やかに微笑んだ。心の中は凪いでいた。もう、この人の優しい言葉に心が揺れることはない。三年前なら、この一言だけで一晩泣いただろう。嬉しさと切なさで。今はただ、観察対象のひとつとして記録する。


その夜、コンラートを通じて流した偽情報によって、ダリウス様が証拠隠滅に走っていることが確認できた。わたくしたちが「まだ持参金の不正に気づいていない」と思わせる情報を流し、ダリウス様がそれに基づいて行動するかどうかを見た。


結果——ダリウス様は金庫の宝飾品を密かに買い戻そうとしていた。つまり、不正を自覚している証拠だ。自覚していなければ買い戻す理由がない。


わたくしは窓辺の椅子に座り、紅茶を一口飲んだ。冷めかけていたが、それでも温かかった。この屋敷で最後に飲む紅茶かもしれない。


三年間、毎朝この紅茶だけが温かかった。けれどもうすぐ、わたくしには別の温もりがある。自分で選んだ場所で、自分で淹れる紅茶。そしてもしかしたら——誰かと一緒に飲む紅茶。そう考えたとき、イサク殿の顔が浮かんだ。自分でも気づかないうちに。


すべての証拠が揃いつつあった。


王宮側の台帳から判明した不明送金の記録。ヘンリク様の手帳の金額と一致する支出。エステル嬢が身につけていた持参金の宝飾品についてのローザの証言。コンラートの密偵行為の記録。そして、ダリウス様自身の証拠隠滅行動。


わたくしは部屋の机で、すべてを時系列順に並べ直した。


中世の裁判では、単一の証拠よりも複数の独立した証拠が互いに矛盾なく整合することが、最も強力な立証とされた。文書、証人、状況証拠の三種が揃えば、覆すことは極めて難しい。現代に至るまで、この原則は変わらない。


わたくしの手元には、その三種すべてがあった。


オスヴァルドからも、最後の情報が届いた。南方の商会に流れた資金の一部が、王国の許可なく国外に持ち出されていた形跡があるという。これは単なる持参金の流用を超えた、国法に触れる問題だ。


「これだけの証拠があれば、カイ殿下も動かざるを得ないでしょう」


オスヴァルドは、いつものように周囲を確認してから声を落とした。


「しかしソフィア様、ご用心ください。追い詰められた獣は、思わぬ方向に牙を剥く」


わたくしは頷いた。覚悟はできている。


ニーナが紅茶を運んできてくれた。いつもより丁寧に淹れてくれたのがわかる。彼女なりの応援だ。


「ソフィア様。わたくし、兄のことはもう考えないことにします」


「ニーナ……」


「兄は自分で選んだのです。ダリウス様につくことを。わたくしも自分で選びます。ソフィア様のお傍にいることを」


小さな侍女は、エプロンの裾を握っていなかった。両手をきちんと前で合わせて、まっすぐ立っていた。この子も変わった。わたくしだけではない。この戦いの中で、それぞれが自分の足で立つことを覚えていった。


「準備は整いました」


イサク殿に告げると、彼は静かに頷いた。


「カイ殿下に裁定を申し立てましょう。法典第七十二条に基づく、婚姻無効の請求です」


わたくしは指輪を外した。三年間、一度も外さなかった金と翡翠の指輪を。外すとき、わずかに抵抗があった。肌に馴染んでいたのだ。三年分の時間が、指と金属を近しいものにしていた。


指輪の跡が、薬指に白く残っていた。


「この跡が消える頃には——わたくしは、自分の名前で生きているでしょう」


イサク殿が、そっとわたくしの肩に自分の外套を掛けた。夕方の回廊は冷える。彼はそれだけして、何も言わなかった。言葉よりも、この外套の温もりのほうが確かだった。

インクの匂いがした。イサク殿の匂い。書類と真実に向き合い続けた人の匂い。わたくしは、この匂いを覚えておこうと思った。


――翌日、コンラートが屋敷から姿を消した。ダリウス様に呼ばれて書斎に入ったきり、二度と戻らなかった。ニーナのエプロンの裾には、涙の跡がついていた。


わたくしはニーナを抱きしめた。二度目だった。最初はコンラートの裏切りを知ったとき。今度は、その兄が完全にいなくなったとき。


「泣いていいのよ、ニーナ」


「……奥様は、泣かないのですか」


「わたくしはもう泣いたわ。三年間、十分に。だからもう泣かなくていいの。でもあなたはまだ泣いていい。泣いて、それから前を向けばいい」


ニーナの嗚咽が、静かな部屋に響いた。わたくしはその背中をさすりながら、窓の外を見た。明日、裁定の間に立つ。三年分の真実を、すべて。


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