第7話 仮面舞踏会の夜
仮面をつけると、人は自分の素顔を忘れる。だからこそ、本当の顔が現れるのだと聞いたことがある。
アステリア王国の仮面舞踏会は、年に一度、王宮の大広間で催される。王族から下級貴族まで、すべての身分が仮面の下で平等になる夜。ただし、その「平等」は見せかけに過ぎない。仮面の下でこそ、本当の取引が行われる場だ。
歴史を紐解けば、仮面舞踏会の起源は中世イタリアの都市国家にある。身分を隠すことで、普段は不可能な対話が生まれる場。しかし同時に、密約や裏取引の温床にもなった。この王国の舞踏会も、その伝統を受け継いでいる。
わたくしは銀色の仮面を選んだ。ドレスは控えめな紺色。目立つ必要はない。今夜の目的は、観察だ。
ニーナがドレスの裾を整えてくれた。
「奥様、お綺麗です」
「ありがとう、ニーナ。でも今夜は綺麗である必要はないの。見えない存在でいることが大事なのよ」
大広間に入った瞬間、圧倒された。何百もの蝋燭が天井のシャンデリアに灯り、磨き上げられた大理石の床が光の海のように輝いている。壁際には楽団が陣取り、弦の音色が高い天井に反響して降り注ぐ。
空気には香水と蝋燭の蝋が混じった独特の匂いが漂っていた。華やかさの裏に、どこか退廃的な甘さがある。
仮面の男女が行き交う。金や銀、羽飾りや宝石で飾られた仮面。その下の顔は見えない。けれど声と仕草で、誰が誰かはおおよそわかる。三年間、社交界で壁の花を演じてきたわたくしには、人を観察する目が備わっている。
「ソフィア殿」
大広間の柱の陰で、イサク殿が声をかけてきた。黒い仮面の下、銀縁の眼鏡がわずかに覗いている。珍しく正装をしているが、どこか落ち着かない様子だった。慣れない衣装に居心地悪そうにしている。
「今夜、マティアス卿が王太子殿下に報告書を渡す手はずです。公爵家の財務疑惑に関する中間報告。これが受理されれば、正式な調査に移行できる」
「マティアス卿のお加減は」
イサク殿の表情が曇った。マティアス卿は最近、体調を崩すことが増えていた。懐中時計を撫でる手が震えていると、イサク殿が心配していたのを知っている。
「無理をしておいでだ。しかし、ご自身で渡したいと。『わしの最後の仕事になるかもしれん』と、冗談のように仰っていたが……冗談には聞こえなかった」
音楽が流れ始めた。弦楽の旋律に合わせて、仮面の男女が広間を回り始める。
その中に、金色の仮面をつけたダリウス様がいた。隣には赤い仮面のエステル嬢。二人は堂々と腕を組み、広間の中央で踊っている。わたくしが同じ広間にいることなど、気にも留めていない様子だった。
かつてなら胸が引き裂かれる光景だった。今は違う。あの二人が堂々としていればいるほど、裁定の日の衝撃は大きくなる。泳がせている、とイサク殿なら言うだろう。
(……構わない。あの人たちの態度に傷つく段階は、もう過ぎた)
それよりも気になったのは、ダリウス様が踊りの合間に、ある人物と何度も目配せをしていたことだった。壁際に立つ、深紅の仮面の男。背が高く、日焼けした肌。この国の貴族ではない雰囲気があった。
オスヴァルドがそっと耳打ちしてくれた。周囲を確認してから、いつも通り声を落として。
「あの方は、南方の商会の元締めと噂される人物です。表向きは貿易商ですが、裏では——」
「違法な取引を?」
「確証はありません。しかし、アルヴァイン領からの不明な送金先のひとつが、あの商会の名義と一致しています」
つまり、ダリウス様は愛人に貢いでいただけではなかった。もっと大きな資金の流れが、あの人の背後にある。持参金の流用は、氷山の一角に過ぎなかった。
わたくしは深呼吸をして、広間を静かに移動した。仮面舞踏会の利点は、誰が誰と話していても不自然に見えないこと。
エステル嬢がダンスの休憩で一人になった瞬間を見計らい、わたくしは近づいた。
「素敵なドレスですわね、エステル嬢」
赤い仮面の下で、エステル嬢が一瞬たじろいだ。
「あら、公爵夫人。お久しぶりですわ」
「そのブレスレット、とても美しい翡翠。どちらでお求めに?」
何気ない質問。しかしエステル嬢の髪を巻く指が、止まった。不安の兆候。
「これは……お店の名前は忘れてしまいましたわ。ダリウス様からの贈り物ですの」
「まあ。あの人は宝飾品を選ぶのがお上手ですものね。わたくしの持参金にも、よく似た翡翠がありましたの」
エステル嬢の青い目が、仮面の下で大きく見開かれたのがわかった。
わたくしは微笑んだまま、その場を離れた。
(揺さぶりは入れた。あとは、彼女がどう動くか)
わたくしは柱の陰に戻り、広間を見渡した。仮面の群れの中で、それぞれの思惑が交錯している。
ダリウス様は深紅の仮面の男と、今度は踊りではなく会話をしていた。二人の間に緊張が走っているのがわかる。ダリウス様の右手がカフスに何度も触れている。嘘をついているのか、それとも追い詰められているのか。
エステル嬢は広間の隅で一人、グラスを傾けていた。先ほどわたくしが投げた言葉が効いているのだろう。髪を巻く指が落ち着きなく動いている。
カイ殿下は玉座の近くで、静かに広間を見渡していた。すべてを見ているのだろう。この方は、動かない。動く必要がないのだ。人々が勝手に本性を見せる場所で、ただ観察している。
ふと、イサク殿と目が合った。広間の反対側。黒い仮面の奥で、彼が小さく頷いた。「うまくいっている」という合図だと理解した。言葉がなくても通じる。いつからか、わたくしたちはそういう関係になっていた。
それから間もなく、広間の奥でかすかな騒ぎが起きた。
マティアス卿が、倒れたのだ。
駆けつけたとき、丸い体型の老伯爵は、広間の片隅で膝をついていた。右手で胸を押さえ、左手には——王太子殿下に渡すはずだった封書が握られていた。額に汗が浮かんでいる。
「イサク……」
師の名を呼ぶマティアス卿の声は、驚くほど小さかった。イサク殿が走り寄り、肩を支える。眼鏡の奥の目に、恐怖が浮かんでいた。師を失う恐怖。
「卿、お身体が——」
「これを……殿下に。わしの代わりに。頼んだぞ」
震える手が、封書をイサク殿に押しつけた。イサク殿の指がそれを受け取る瞬間、マティアス卿の目がわたくしを見た。柔和な目の中に、確かな光があった。
「公爵夫人。あなたの聡明さは——わしの目に、狂いはなかった」
それが、マティアス卿がわたくしに向けた最後の言葉だった。
卿はその夜のうちに王宮の医務室に運ばれた。長く患っていた心臓の病が、ついに限界を迎えたのだと、後に知った。
――イサク殿がマティアス卿から受け取った封書は、翌日、王太子カイ殿下の手に届けられた。師の最期の仕事を、弟子が引き継いだのだ。
わたくしは自室で、仮面を外した。銀色の仮面を机に置くと、自分の顔が鏡に映った。疲れた顔。けれど、三年前の虚ろな目ではない。
今夜、わたくしは多くのものを見た。ダリウス様と南方商会の繋がり。エステル嬢の動揺。カイ殿下の静かな観察。そしてマティアス卿の最期。
人は、自分が信じるもののために命を懸けることができる。マティアス卿は、王国の財政の公正さを信じて、最後の力を報告書に注いだ。その志を、イサク殿が継ぐ。
わたくしもまた、信じるもののために戦おう。自分の尊厳を。そしてこの先に待つ、自分で選ぶ人生を。
仮面を外した自分の顔は、もう怯えてはいなかった。




