第6話 女中頭の涙
敵の顔をした味方がいることを、わたくしは長い間知らなかった。
ローザはいつもわたくしに冷たかった。鍵束を握りしめ、きつい目で見据え、必要最低限の言葉しか交わさない。使用人たちの間では「女中頭はダリウス様の忠実な僕」と囁かれていた。
わたくしもそう信じていた。ヘンリク様の手帳を届けてくれたあの日まで。
あれから数週間、わたくしはローザの行動を注意深く観察していた。すると、不思議なことに気づいた。
ローザは、わたくしとイサク殿の接触を知っていた。屋敷の中の動きを把握する女中頭なら当然だ。しかし——ダリウス様には報告していなかった。コンラートを通じた情報漏洩の監視を続ける中で、ローザからの情報が一切流れていないことが確認できた。
もしローザがダリウス様の忠臣なら、とうに報告しているはず。コンラートという密偵がいるのに、わざわざ女中頭まで使う必要がないとダリウス様が判断した可能性もあるが、それにしては不自然だった。
そしてもうひとつ。ローザは、エステル嬢が屋敷を訪れるたびに、必ずわたくしの部屋の前を通るよう来客の動線を変えていた。まるで、わたくしに「見せたい」かのように。エステル嬢の装いを、手首の翡翠を、わたくしに確認させるかのように。
ある晩、わたくしはローザを自室に呼んだ。
「お話があります。座ってください、ローザ」
ローザは立ったままだった。鍵束を握る手に力が入っている。黒い服に身を包んだ痩せた姿が、蝋燭の光の中で影のように見えた。
「ヘンリク様の手帳を届けてくださったのは、あなたですね」
沈黙。ローザの唇が、かすかに震えた。
「なぜ、わたくしを助けてくださるのですか。あなたはダリウス様の——」
「わたくしは、ダリウスの犬ではありません」
ローザの声が、初めて感情をはらんだ。低く、抑えた声。けれどその奥に、長い年月をかけて溜め込んだ怒りが燃えていた。
「十年前——わたくしには姉がおりました。ルドミラという名の。この屋敷に、先代様の時代に奉公していた」
ローザは窓の外に目を向けた。夜の庭は暗く、白薔薇の輪郭だけがぼんやりと浮かんでいる。
「姉はヘンリク様に見初められました。身分違いの関係です。権力を持つ者が、持たぬ者に手を伸ばす。それを恋と呼べるかどうかは、わたくしにはわかりません」
「子を身ごもり——そして、追い出された。名誉を汚す存在として」
わたくしは息を呑んだ。
「姉は生まれた子どもとともに、王都の片隅で暮らしていました。けれど体を壊して……。子どもは引き取り手も見つからず——」
ローザの声が途切れた。鍵束を握る指が白くなっている。十年間、この怒りと悲しみを鍵束の中に閉じ込めてきたのだ。
「わたくしがこの屋敷に入ったのは、姉の子を探すためでした。ヘンリク様は最後まで、姉のことを認めませんでした。でも——手帳に記されていたのです。送金の記録。姉の子に宛てた、密かな仕送りが」
「ヘンリク様が、送金を?」
「罪悪感だったのか、それとも血の責任を感じたのか。わたくしにはわかりません。ただ、あの手帳には姉の子の居場所の手がかりが記されていた。ソフィア様、あの手帳はわたくしにとっても——大切なものなのです」
わたくしは立ち上がり、ローザの前に行った。彼女の目に涙が光っていた。きつい目つきの奥に、長い間隠してきた悲しみが溢れていた。この人は、わたくしに冷たくしていたのではなかった。距離を保っていたのだ。近づきすぎて、自分の本心が漏れることを恐れて。
「ローザ。あなたは、ずっとわたくしを守ってくれていたのですね」
「……守る、などと大げさなものではありません。ただ——姉と同じ目に遭う人をもう一人、この屋敷から出したくなかっただけです」
わたくしはローザの手を取った。冷たい、働き者の手だった。何年も鍵を握り、扉を開け閉めし、屋敷を支えてきた手。
「これからは一緒に戦ってください。わたくしは、この家の真実を明らかにします。あなたの姉上のことも含めて」
ローザの手が、初めて鍵束を離した。金属の束が、布団の上に小さな音を立てて落ちた。そしてわたくしの手を、強く握り返した。
その握力に、十年分の決意が込められていた。わたくしたちは、どちらもこの屋敷に傷つけられた女だった。だからこそ、手を取り合える。
その夜、わたくしは眠れなかった。ローザの話が頭の中を巡っている。
ヘンリク様は、使用人の女性に手を出し、子を孕ませ、追い出した。そしてその子に密かに送金をしていた。罪の意識か、責任感か。おそらく両方が入り混じった、複雑な感情だったのだろう。
この屋敷は、表向きは名門の誇り高き館。けれどその壁の内側には、何層もの嘘と秘密が塗り重ねられている。わたくしの孤独も、ローザの怒りも、ニーナの苦しみも、すべてこの家の構造が生み出したものだった。
(もう黙ってはいない。わたくしたちは、声を上げる)
◇
翌日、ローザはいつも通りの無愛想な顔で廊下を歩いていた。けれどわたくしとすれ違うとき、ほんの一瞬だけ目が合った。そしてかすかに——本当にかすかに——口の端が動いた。笑ったのだとわかったのは、わたくしだけだろう。
秘密の共有は、人と人の間に見えない糸を張る。わたくしとローザの間にも、確かにその糸ができた。
ローザが味方に加わったことで、屋敷内の情報網は一変した。
女中頭は屋敷のすべての部屋に出入りできる。ダリウス様の書斎、客間、金庫室。ローザの鍵束は、文字通りすべての扉を開ける鍵だった。
そしてローザは、もうひとつ重要な情報をもたらした。
「エステル嬢が身につけている装飾品のいくつかは、奥様の持参金の宝飾品と一致します。わたくしは嫁入りの際の荷解きを手伝いましたから、覚えています。翡翠のブレスレットだけでなく、琥珀の耳飾りもです」
やはり。あの翡翠のブレスレットは、母の形見だった。
「それだけではありません。金庫の中の持参金目録と、実際の保管品を照合しました。目録にある宝飾品十二点のうち、五点が行方不明です」
五点。証拠は積み上がりつつある。
わたくしはイサク殿に連絡を取り、これまでの調査結果を整理した。
領地からの不明瞭な送金。持参金の不正流用。ヘンリク様の手帳の記録。コンラートを通じた情報操作の証拠。そして、エステル嬢の手首に光る翡翠。
「もう一息です」
イサク殿は静かに言った。マティアス卿の許可を得て、王宮側の取引台帳との照合が進んでいる。
「来月、仮面舞踏会がある。多くの貴族が集まる場で、公爵の社交上の動きを直接観察できる。あれが、最後の検証の機会になるかもしれません」
仮面舞踏会。仮面の下で、本性が見える夜。
わたくしは左手の指輪をそっと撫でた。もう、回さなかった。不安の仕草ではなく、決意を確かめる仕草に変わっていた。
――ニーナが、小さな声で教えてくれた。「兄が最近、急に羽振りが良くなっています。出所のわからないお金を持っているようで……」。裏切りの代償は、いつか必ず請求される。
わたくしはニーナの頭をそっと撫でた。この子は、兄の裏切りを知りながらも、泣き言ひとつ言わなかった。わたくしよりも、ずっと強い子なのかもしれない。
「ニーナ。これが終わったら、一緒に街の菓子屋に行きましょう。あなたが好きな蜂蜜のケーキを食べに」
「……はい、奥様。きっと」
ニーナの笑顔が、少しだけ戻った。わたくしたちは、小さな約束で互いを支えている。




