第5話 密偵の正体
身近な人間ほど、裏切りの影は見えにくい。太陽の真下では影が足元に隠れるように。
エステル嬢の翡翠のブレスレットのことを、わたくしは日記に記した。母から受け継いだ翡翠の装飾品一式は、持参金の目録に含まれている。もしあのブレスレットが母の形見だとすれば、わたくしの持参金がダリウス様の愛人に流れていることになる。
しかし断定はできない。翡翠のブレスレットは珍しいが、唯一のものではない。似たものが市場に出回っている可能性もある。
(観察。仮説。検証。証拠)
イサク殿に教わった順序を、わたくしは心の中で繰り返した。この四つの手順は、科学の基礎でもある。仮説を立て、実験で検証し、結果を示す。感情に流されず、事実だけを積み上げる。わたくしが学んだ最も大切なことは、怒りや悲しみでは何も動かせないということだ。動かせるのは、証拠だけ。
もうひとつ、わたくしが学んだことがある。証拠は一人では集められない。信頼できる人の力が必要だ。そしてその信頼は、言葉ではなく行動で築かれる。
まず、わたくしの持参金の目録を確認する必要がある。嫁入りのとき交わした書類は、公爵家の金庫に保管されているはずだ。しかし金庫に近づくことは容易ではない。
そこで、わたくしは意外な人物に助けを求めることにした。いや——正確には、その人物を「試す」ことにした。
「コンラート。お願いがあるの」
ニーナの兄は、いつも通りの穏やかな笑顔で頷いた。人懐こい栗色の目。ニーナとよく似ている。けれど、ニーナの目にはない光がある。世渡りの巧さ。
「何でもおっしゃってください、奥様」
「先代様の遺品整理で、わたくしの嫁入り道具の目録が見つかったと聞いたの。確認したいのだけれど、金庫の鍵はダリウス様がお持ちでしょう?」
嘘だった。遺品整理でそんな話は出ていない。コンラートがどう反応するかを見たかった。
コンラートの笑顔が一瞬だけ固まった。視線が右下に逸れた。ほんの一瞬。人が後ろめたさを感じたとき、視線は利き手と反対側の下に逸れるという。右利きのコンラートの視線が右下に動いたのは、まさにその兆候だった。
「そうですね。ダリウス様にお伺いを立てましょうか?」
(——ダリウス様に、報告するつもりね)
わたくしは微笑みを崩さなかった。
「いいえ、急ぎではないの。忘れてちょうだい」
部屋に戻ったわたくしは、震える手を膝の上で握りしめた。
コンラートの反応。視線の逸れ方。あれは「主人に相談する」ではなく「報告先に伝える」という態度だった。三年間人を観察してきたわたくしの目は、それを区別できる。従順な使用人が主人にお伺いを立てるときは、視線は上に向かう。敬意の仕草だ。けれどコンラートの視線は下に逸れた。隠し事の仕草だ。
人の微細な表情の変化を読む力。それは、愛されない妻として身につけた、悲しい技術だった。けれど今、この技術がわたくしを守っている。
まだ確信ではない。でも——コンラートがダリウス様に情報を流しているとしたら、これまでの不自然な出来事に説明がつく。
わたくしの外出がなぜかダリウス様に筒抜けだったこと。イサク殿との接触をなるべく隠していたのに、ダリウス様が監査に対して先手を打っていたこと。
情報が漏れていた。ニーナは絶対にわたくしを裏切らない。とすれば——ニーナに近い人間。ニーナが無意識に話してしまう相手。
(兄に、だ)
その夜、わたくしはイサク殿に手紙を書いた。
『情報の漏洩経路を特定した可能性あり。確認のため、偽の情報を流す。明日の午後、わたくしが王宮の書庫で法典を調べると伝えてほしい——ただし、ニーナにだけ』
これは「カナリアの罠」と呼ばれる手法に似ている。複数の相手にそれぞれ少しずつ異なる情報を伝え、どの情報が漏洩したかで情報源を特定する方法だ。わたくしの場合はもっと単純。ニーナにだけ伝えた情報が漏れれば、ニーナの周辺に漏洩者がいることが確定する。
翌日、ニーナに「明日の午後は王宮の書庫に行く」と伝えた。ニーナ以外の誰にも言わなかった。
そしてわたくしは、書庫には行かなかった。代わりに、窓から屋敷の裏口を見張った。
午前のうちに、コンラートが裏口から出て行くのが見えた。足早に。振り返りながら。後ろめたい人間の歩き方だった。
肩がわずかに丸まり、歩幅が不均一になる。逃げたいのに逃げられない人間の特徴だ。
わたくしは確信した。この男は、ダリウス様の手先だ。
わたくしはニーナを呼んだ。
「ニーナ。昨日わたくしが言ったこと、誰かに話した?」
「いえ、奥様。誰にも——あ」
ニーナの顔色が変わった。エプロンの裾を、ぎゅっと握りしめている。
「兄に……。兄に、奥様のご予定を聞かれて、つい……」
わたくしはニーナの震える肩にそっと手を置いた。
「あなたのせいではないわ」
「でも、奥様——兄は、まさか——」
ニーナの目に涙が溢れた。わたくしは彼女を抱きしめた。小さな身体が震えている。信頼していた兄の裏切り。その痛みは、わたくしにもよくわかる。信じたい人を信じられなくなることの苦しさを、わたくしはこの三年で嫌というほど味わった。
◇
コンラートの処遇を、わたくしは慎重に考えた。
すぐに追い出せば、ダリウス様に「気づかれた」と伝わる。それは得策ではない。
「泳がせましょう」
イサク殿はそう提案した。
「情報の漏洩先がわかっているなら、逆に利用できます。本当の情報は隠し、偽の情報だけを流す。コンラートを通じて、こちらが望む情報をダリウス殿に渡すことができる」
二重のスパイ。いや、スパイ本人は気づかない。ただ、わたくしたちが彼を通じて流す情報を選別するだけだ。敵の通信路を断つのではなく、逆に利用する。古い戦術だが、効果は確かだ。
「ニーナには真実を伝えました。彼女は強い子です。兄の前では、これまで通り振る舞うと誓ってくれました」
「それは——辛い役割だ」
イサク殿がぽつりと言った。その声に、いつもの無機質さとは違う色があった。
「ニーナだけではありません。ソフィア殿、あなたもだ」
思わず顔を上げた。イサク殿はわたくしを見ていなかった。窓の外を見つめていた。夕暮れの光が、彼の横顔に影を落としている。
「毎日、裏切り者の夫と同じ食卓につく。味方のふりをした人間に笑顔を見せる。それがどれほど——」
言葉が途切れた。イサク殿は眼鏡を押し上げて、小さく息を吐いた。
「すみません。余計なことを」
「いいえ」
わたくしは首を振った。胸の奥が温かくなった。この人は、わたくしの痛みを「余計なこと」で済ませたくなかったのだ。不器用に、けれど確かに。
「あなたがそう言ってくださるから、わたくしは平気でいられるのかもしれません」
イサク殿の耳がわずかに赤くなったのを、わたくしは見逃さなかった。
――その日の夜、コンラートを通じて流した偽の情報が、翌日にはダリウス様の行動に反映されていた。仕掛けは、完璧に機能していた。
わたくしは窓辺に立ち、夜の庭を見下ろした。白薔薇が月明かりの中で青白く輝いている。この庭は、わたくしが唯一自由でいられた場所だった。そしてイサク殿と出会った場所でもある。
すべてはあの日から始まった。庭に立つ見知らぬ男の、澄んだ目。嘘のない人がいるということを、わたくしに教えてくれた人。
(あの人がいなければ、わたくしは今も数えているだけだった。浮気の回数を。ただ、数えるだけ)




