第4話 古い法典の一行
この王国で妻が夫から離れるためには、三つの条件のうちひとつを満たさなければならない。わたくしがそれを知ったのは、嫁いで三年目、初めてこの国の法典を自分で開いた日のことだった。
ヘンリク様の手帳に挟まれていた鍵は、書庫の奥にある古い戸棚のものだった。
ニーナに見張りを頼み、深夜にひとりで書庫へ忍び込んだ。蝋燭の明かりだけを頼りに、戸棚の前に立つ。鍵穴に鍵を差し込むと、かすかな金属音とともに錠が開いた。
手が震えた。夜中の書庫は冷え切っていて、吐く息が白い。けれど震えの原因は寒さだけではなかった。見つけてはいけないものを見つけようとしている。その緊張が、指先まで伝わっている。
戸棚の中には、ヘンリク様が長年にわたり保管してきたとおぼしき書類の束と、一冊の法典があった。書類は後で確認するとして、法典に目を引かれた。
法典には付箋が貼られていた。ヘンリク様の指が何度も触れたのだろう、紙が黄ばんで角が丸くなっている。何度も何度も、このページを開いたのだ。
開いたページには、『婚姻の無効に関する規定』と記されていた。
第七十二条。婚姻の無効は、以下のいずれかに該当する場合に申し立てることができる。一、婚姻時に重大な詐称があった場合。二、配偶者の重大な背信行為が証明された場合。三、王家の裁定による特例。
わたくしの呼吸が速くなった。蝋燭の炎が、わたくしの息で揺れる。
(配偶者の重大な背信行為——)
これだけではまだ足りない。「重大」とは何を指すのか。浮気は貴族社会では暗黙の了解とされている。ひとりやふたりの愛人は「背信」とは見なされないのが通例だ。
しかし——法典の注釈を読み進めて、わたくしは目を止めた。
『背信行為が家産の毀損を伴う場合、その重大性は加重される。とりわけ、婚姻によって持ち込まれた財産(持参金)が不当に費消された場合は、配偶者の独立した申し立て権が認められる』
持参金。わたくしがアルヴァイン家に嫁いだとき、ノイマン男爵家は決して裕福ではなかったが、母の遺した宝飾品と、小さな領地の権利を持参金として差し出した。それは「ソフィアの財産」として、本来は管理されているはずのもの。
けれど管理の実態を確認したことは一度もなかった。公爵夫人として、財務のことに口を出すのは「はしたない」とされていたから。
信頼していたのではない。確認する権利すら、わたくしにはないと思い込まされていたのだ。
ヨーロッパの中世社会では、持参金は妻の最後の砦だった。夫が死んでも、離縁されても、持参金だけは妻に返還される。それが妻を路頭に迷わせないための、制度上の保障だった。この王国でも、同じ原則が法典に刻まれている。
(持参金がどう扱われているか、わたくしは確認したことがない)
翌日、わたくしはイサク殿に会いに行った。今度は、ニーナの仲介ではなく、自分の足で王宮の監査局を訪ねた。
「これは——かなり古い法文ですが、まだ生きている条文です」
イサク殿は法典の写しを読み、眼鏡の蔓を叩いた。指先のインクが、今日は青ではなく黒だった。別の仕事もしているのだろう。
「持参金の不正流用が証明されれば、婚姻無効の申し立てが可能になる。問題は証明の方法ですが……」
「ヘンリク様の手帳に、不審な送金の記録があります。そしてあなたが発見した領地からの送金の不一致と照合すれば——」
「点と点がつながる可能性がある」
イサク殿はわたくしの顔を見た。眼鏡の奥の目が、少し柔らかくなった気がした。
「公爵夫人、あなたは——」
「ソフィアと呼んでください。ここでは公爵夫人という名前は、足枷にしかなりません」
それは思い切った言葉だった。身分の差を超えた呼び方を提案するなど、この国の礼儀作法からすれば破格のこと。平民の監査官に、公爵夫人が名前で呼ぶことを許す。それは対等を意味する。
イサク殿は少し驚いた顔をして、それから静かに頷いた。
「では——ソフィア殿。一緒に調べましょう。王宮側の取引台帳と、あなたが持つ手帳の記録。そしてあなたの三年分の観察記録」
「日記」のことだ。あれを「観察記録」と呼び変えてくれたことが、なぜか嬉しかった。ただの泣き寝入りの日記ではなく、戦うための記録。言葉が変わるだけで、過去の意味が変わる。
◇
二人の調査が始まった。
王宮で会うのは危険が伴う。ダリウス様の目がある。わたくしたちは、オスヴァルドという王宮の侍従長補佐の協力を得た。
オスヴァルドはわたくしの亡き母と旧知の間柄で、白髪交じりの痩身の紳士だった。王宮の裏事情に通じ、慎重で口が堅い。
「お母上のテレーゼ様には、大変お世話になりました。ソフィア様のお力になれるなら」
周囲を見回してから声を落とすのが、この人の癖だった。長年の宮仕えが染みついた用心深さ。
「公爵家の財務記録は、王宮の徴税記録と照合できます。ただし閲覧には財務卿の許可が要る」
財務卿、マティアス伯爵。イサク殿の上官にあたる人物だ。
「マティアス卿なら話を聞いてくださるでしょう。あの方は公正な人です」
イサク殿はそう言って、懐中時計を見た。師の元へ急ぐのだろう。イサク殿の師であるマティアス卿は、王国の財政を長年支えてきた実力者だという。丸い体型に柔和な顔。けれど目だけは鋭い人物だと、オスヴァルドが教えてくれた。
マティアス卿との面会は翌週に設定された。待ち遠しいような、恐ろしいような日々が始まる。けれどわたくしは、もう立ち止まらない。
この出会いが、調査の転機となることを、わたくしはまだ知らない。
わたくしは帰りの馬車の中で、今日わかったことを整理した。
第一に、離縁の法的根拠がある。第二に、公爵家の財務に不正の疑いがある。第三に、その不正とわたくしの持参金が関連している可能性がある。
まだすべてが「可能性」の段階だ。しかし、仮説は立てられた。あとは検証すればいい。
馬車の窓から、夕焼けに染まる王宮の尖塔が見えた。美しいけれど、その内部がどれほど複雑に絡み合っているかを、わたくしはようやく知り始めている。
屋敷に戻ると、ダリウス様が珍しく居間にいた。そして——エステル・ヴィーデマン嬢が、向かいの椅子に座っていた。
わたくしの家の、わたくしの居間に。
「ああ、ソフィア。紹介しよう。エステル嬢は今度の舞踏会で私の——社交パートナーを務めてくれることになった」
ダリウス様は微笑んだ。右手はカフスの上にあった。
エステル嬢は赤い巻き毛を指に巻きつけながら、あでやかに微笑んだ。大きな青い瞳は、計算と野心を上手に隠している。けれど隠しきれていない。わたくしには見える。
「初めまして、公爵夫人。よろしくお願いいたしますわ」
わたくしは完璧な公爵夫人の微笑みを浮かべた。指輪を回す代わりに、背筋をまっすぐに伸ばした。
「こちらこそ。エステル嬢、紅茶はいかが?」
(観察を続けなさい、ソフィア。感情ではなく、事実を見るの)
――エステル嬢の左手首に、見覚えのある翡翠のブレスレットが光っていた。わたくしの持参金の目録に記されていた、母の形見と同じ石の色だった。
その夜、わたくしは日記に書いた。『エステル嬢の翡翠。母の形見との類似。要確認』。ペンを走らせる手は、もう震えない。怒りではなく、冷静な判断がわたくしを動かしている。
母が生きていたら、何と言っただろう。「よく観察しなさい、ソフィア」。父の書庫で一緒に本を読んでくれた母の声が、遠い記憶の中から聞こえた気がした。




