第3話 先代の遺言
人は死ぬとき、最後に何を守ろうとするのか。それを見れば、その人の本質がわかる。
ヘンリク様は三日間、意識が戻らなかった。そして四日目の夜明け前、静かに息を引き取った。
空気が変わった。文字通りに。ヘンリク様の生命力が消えたことで、屋敷全体を覆っていた重圧がふっと軽くなった。その代わりに、不安という別の重さが忍び込んできた。
屋敷中が喪に服した。使用人たちは黒い腕章を巻き、花という花が取り払われた。わたくしの白薔薇の庭も、弔いの間は閉ざされた。廊下を歩く足音までが、ひそめられた。
ダリウス様は父の死に顔色ひとつ変えなかった。葬儀の手配を淡々と進め、弔問客に完璧な悲しみの表情を見せた。けれどわたくしは知っている。あの人が本当に悲しんでいるとき、右手はカフスに触れない。今日のダリウス様は、何度もカフスを直していた。
(悲しんでいるふりをしている。でも、それだけ?)
違和感はもうひとつあった。ヘンリク様の書斎が、死の翌日には完全に封鎖されたのだ。
「遺品の整理は私が行う。誰も入るな」
ダリウス様はそう命じた。使用人は誰も逆らえない。わたくしも。表向きは。
けれど——ニーナが、小さな声で教えてくれた。
「奥様。ダリウス様が書斎で書類をたくさん燃やしているそうです。暖炉の煙が、ずっと上がっているって」
「誰が言っていたの?」
「兄が……コンラートが」
ニーナの兄、コンラート。公爵邸の下男頭を務めている青年。人当たりが良く、屋敷の中でも信頼されている。ニーナと同じ栗色の髪で、穏やかな笑顔が印象的だった。
「兄は信用できます。奥様の味方です」
ニーナはきっぱりと言った。わたくしは微笑んで頷いた。妹がそう信じているのなら、疑う理由はまだない。
(書類を燃やしている……。見られては困るものがあるということ)
その夜、わたくしはイサク殿に手紙を書いた。ニーナ経由で、王宮の監査局に届ける手筈で。内容は短く、事実だけを記した。
『先代公爵死去。書斎封鎖。書類焼却の形跡あり』
返事は翌日届いた。これもまた短かった。
『焼却は最も確実な証拠隠滅。逆に言えば、隠すべきものがある証拠。残った灰から再構成はできないが、別の経路から同じ情報に辿りつける可能性がある。公爵家の取引先の記録を、王宮側の台帳と照合する』
なるほど。ひとつの記録を消しても、取引の相手方には同じ記録が残る。中世の商人たちが複式の記録法を発明した理由のひとつが、まさにこれだと、父の書庫で読んだことがある。記録は一か所に集めるより、複数の場所に分散して持つほうが改竄されにくい。
この仕組みは、商業の発展とともに信頼の基盤となった。取引の両当事者がそれぞれ記録を持つことで、一方が改竄しても他方の記録と照合すれば嘘が露見する。信頼とは、美しい言葉ではなく、仕組みによって支えられるものなのだ。
父の書庫で読んだ知識が、こんな形で役に立つとは思わなかった。知識は、持っているだけでは力にならない。使う場面を見つけて初めて、武器になる。
(片方を消しても、もう片方が残る)
わたくしは手紙を書き終えて封をした。蝋で押した印は、わたくし個人のものではなく、白薔薇の模様。ノイマン家の紋章だ。ダリウス様に見られても、実家への手紙に見えるように。
この数日で、わたくしの中で何かが変わり始めていた。ヘンリク様の死は、この屋敷の力の構造を揺るがした。三年間、わたくしの上に二重の蓋が載っていた。夫と、義父と。その一方が消えた今、残る蓋は一枚だけだ。
そしてダリウス様は、父の不在に慣れていない。判断の遅れ、側近への依存、書類焼却という拙速な対応。すべてが、あの人が一人では立てないことを示している。
◇
翌日の返事を読んだとき、わたくしは改めてイサク殿の頭の良さに感嘆した。同時に、この人が味方でよかったと心から思った。敵に回したら、恐ろしい相手だ。
ヘンリク様の葬儀は、アルヴァイン公爵家にふさわしい盛大なものだった。
王宮からも多くの弔問客が訪れた。その中に、カイ王太子の姿もあった。
黒髪に灰色がかった瞳。質素な弔衣をまとった王太子殿下は、棺の前で静かに頭を垂れた後、ダリウス様に声をかけた。
「ダリウス。父上のことは残念だ」
「ありがとう、殿下。父も天上で喜んでいることでしょう」
二人は幼馴染だという。しかしわたくしの目には、カイ殿下の表情に親しみよりも、何か探るような色が見えた。友としての弔いの奥に、もうひとつ別の感情が隠れている。
葬儀の後、カイ殿下がわたくしの前に立った。初めて、直接言葉を交わす。
「公爵夫人。お気を落とされていないか」
「お気遣いありがとうございます、殿下」
「ヘンリク公は……晩年、いくつか懸念を抱えておいでだった。あなたは何かご存じか」
突然の問いだった。わたくしは一瞬、息を止めた。
カイ殿下の灰色の瞳が、わたくしをまっすぐに見つめている。この方は、嘘を見抜く目を持っている。直感的にそう感じた。そして——嘘をつくべき相手ではないとも。
「わたくしは、この家の内側のことを多くは知りません。けれど——知ろうとし始めたところです」
正直に答えた。それが最善だと思った。
カイ殿下は右手を顎に当て、数秒間沈黙した。それから、わずかに口元を緩めた。
「それは、良い変化だ」
それだけ言って、殿下は去った。
わたくしはその背を見送りながら考えた。王太子殿下は何を知っているのだろう。そして——なぜ、わたくしに問いかけたのだろう。味方なのか、それとも、もっと大きな何かの中でわたくしを駒として見ているのか。
いずれにせよ、この方を敵に回してはならない。そして味方につけることができれば、これ以上ない力になる。
夕刻、屋敷に戻ると、思いがけないものがわたくしの部屋に届いていた。
ヘンリク様の遺品——一冊の古い手帳。革装で、角が擦り切れている。長い間、誰かの手で何度も繰り返し開かれた手帳。
添えられた紙片には、ローザの筆跡でこう書かれていた。
『先代様が最後に手にしておいでだったものです。焼却の前に、お届けします』
ローザが。あの冷たい女中頭が。
なぜ。わたくしに対して冷淡を貫いてきたあの女性が、なぜわたくしにこれを。
疑問は渦巻いたが、今はそれよりも手帳の中身だ。わたくしは震える手で手帳を開いた。ヘンリク様の文字で、日付と金額の列が並んでいる。整然とした筆致。この人は支配的で冷徹だったが、記録については正確だった。
記録は正直だ。だからこそ、ヘンリク様は記録に頼ったのだろう。そしてその記録が、あの人を追い詰めた。
そして最後のページに、走り書きのような一文。他のページの整った文字とはまるで違う、急いだ筆跡。
『すべてはダリウスに任せた。だがこの取引だけは——あの子を滅ぼしかねない』
手帳を閉じた。心臓が、こめかみで脈打っている。
ヘンリク様は、息子を守ろうとしていたのか。それとも、家を守ろうとしていたのか。
いずれにせよ、先代公爵は何かを恐れていた。そしてその恐怖の記録が、今、わたくしの手の中にある。
窓の外に月が昇っていた。白い光が部屋を照らし、手帳の革表紙にうっすらと影を落とす。わたくしはこの手帳を、日記と同じ引き出しにしまった。二冊の記録。一冊はわたくしの三年間。もう一冊は、先代公爵の秘密。
どちらも、この家の真実を知るための鍵になる。
――手帳の表紙を撫でたとき、その裏に小さな鍵が挟まれていることに気づいた。




