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旦那様は15回目の浮気中  作者: 渚月(なづき)


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第2話 観察する妻

人は嘘をつくとき、必ず身体のどこかに兆しが出る。中世の裁判術の文献にそう記されていたと、わたくしは昔、父の書庫で読んだことがある。


ダリウス様の場合、それは右手だった。


嘘をつくとき、あの人は必ず右手でカフスを直す。社交の場で完璧な微笑みを浮かべながら、指先だけが真実を語る。三年間、毎日顔を合わせてきたわたくしだからこそ気づけた、小さな小さな綻び。


あの庭での出会いから三日が経っていた。


イサク・ベルグレンという名の監査官は、翌日もう一度、今度は正面から訪ねてきた。王宮からの正式な書簡を携えて。


「アルヴァイン公爵家の財務に関する定期監査の件で参りました」


応接間で向かい合ったとき、ダリウス様の右手がカフスに伸びた。


(……嘘をついている)


「定期監査とは恐れ入る。我が家の財務は清廉潔白だ。好きに調べるといい」


ダリウス様はにこやかに応じた。完璧な貴族の所作。けれどわたくしは、その指先の微かな震えを見逃さなかった。


イサク殿はダリウス様の言葉に頷きつつ、銀縁の眼鏡の蔓を指で叩いた。あの人も何かを考えているのだ。無駄な言葉を使わない人だと、庭園での短い会話でわかった。必要なことだけを、正確に話す。


監査は三日間の予定で始まった。わたくしには関係のないことのはずだった。公爵夫人は花を活け、刺繍をし、来客に微笑む。それがこの家でのわたくしの役割。


けれど——偶然は、思わぬ形でやってくる。


監査二日目の夕刻。わたくしが書庫の隣の小部屋で読書をしていると、壁越しに声が聞こえた。薄い壁の向こうは、ダリウス様が監査用に貸した部屋だった。


「……この支出の記録が見当たりません」


イサク殿の声だった。低く、けれどはっきりと。


「公爵家の直轄領から王都への送金。過去二年で六回、領地の収穫報告と食い違う送金があります。差額はおよそ——」


「監査官殿」


遮ったのは、わたくしの知らない男の声だった。おそらくダリウス様の側近だろう。


「それ以上の調査は公爵閣下の許可が必要です。本日の監査はここまでに」


足音が遠ざかる。しばらくして、イサク殿が独りで呟くのが聞こえた。


「……やはり、か」


わたくしは本を閉じた。心臓が速く打っている。


(送金の不一致。領地の収穫報告との齟齬)


ダリウス様が隠しているのは、浮気だけではないのかもしれない。この家には、わたくしの知らない闇がもっと深く根を張っている。





翌日、わたくしはイサク殿を庭園に呼び出した。


正確には、ニーナに「監査官殿が庭の薔薇を気にしておいでだった」と伝言を頼んだ。不自然にならないように。この屋敷には壁に耳がある。

ダリウス様の側近、使用人たち、そして——まだわたくしの知らない誰か。誰が敵で誰が味方か、この時点では見分けがつかなかった。


白薔薇の生垣の前で、イサク殿は所在なさそうに立っていた。長身の猫背が、花の中で妙に浮いている。


「昨日のお話、壁越しに聞こえてしまいました」


単刀直入に言った。回りくどい言い方をする余裕がなかった。


イサク殿の目が、眼鏡の奥で鋭くなった。警戒と、そしてわずかな驚き。


「……それは、私の不注意です」


「いいえ。わたくしが伺いたいのは一つだけです」


わたくしは深呼吸をした。薔薇の香りが肺を満たす。夫の上着についた甘い香水とは違う、清潔な香り。この庭の匂いだけは、三年間ずっとわたくしの味方だった。


「この家の財務に、問題があるのですか」


沈黙が落ちた。イサク殿は眼鏡の蔓を叩きながら、わたくしをじっと見つめた。値踏みではない。信用できるかどうかを、測っている目だった。


「公爵夫人。あなたはこの家の内側にいる方だ。もし——もし仮に、この家に不正があるとすれば、あなた自身も巻き込まれる可能性がある」


「存じています」


「それでも知りたいと?」


わたくしは左手の指輪を見下ろした。回す代わりに、今日は指輪の翡翠をそっと撫でた。母から受け継いだ石。この指輪だけが、わたくしと実家を繋ぐ唯一の絆だった。


「わたくしは三年間、この家で目を閉じてきました。見ないふりをしてきたのです。夫の浮気も、義父の支配も、使用人たちの視線も」


声が震えそうになるのを、歩幅を一歩分だけ前に出すことで堪えた。


「でも、目を閉じたまま追い出されるのは——もう、嫌なのです」


風が吹いて、白薔薇の花びらがひとひら落ちた。わたくしの足元に。


イサク殿は長い沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。


「公爵家の直轄領からの送金に、説明のつかない流出がある。額と頻度から見て、個人の遊興費ではない。組織的な資金の移動です」


「組織的……」


「ただし、証拠が足りない。記録の一部が意図的に抜かれています。外からの監査だけでは、核心に届かない」


つまり——この家の内側にいる人間の協力が必要だということ。


わたくしたちは、しばらく無言で薔薇を見つめた。イサク殿の指先には仕事の痕跡が残っていた。書類と向き合い続けた人の手。正確な仕事をする人の手。嘘をつかない人の手。


「わたくしにできることがあるなら、おっしゃってください」


「——まずは、観察してほしい。公爵の行動の中に、不自然な点がないか。特に、人と会う頻度、手紙のやり取り、留守の時間帯。すべて」


「……それなら」


わたくしは、少しだけ笑ったかもしれない。自分でも気づかないうちに。


「三年分、すでに記録があります」


イサク殿の眉がわずかに上がった。それが驚きの表現だと、後になってわかった。この人は感情の起伏が小さい。だからこそ、小さな変化が際立つ。

わたくしの観察力は、この三年間で研ぎ澄まされた。苦しみが与えてくれた、唯一の贈り物だった。


「日記に。夫がいつ帰り、いつ出かけ、どんな香りをつけていたか。最初は——ただの習慣でした。眠れない夜の」


イサク殿は眼鏡を外し、レンズを布で拭いた。眼鏡を外した顔は少し幼く見えた。それから静かに言った。


「習慣が、あなたの武器になるかもしれません」


武器。その言葉が、胸の奥に灯をともした。


わたくしはこの三年間、ただ耐えていたのだと思っていた。でも——無意識のうちに、観察し、記録していた。それは、もしかしたら「耐える」のとは違う何かだったのかもしれない。


屋敷に戻ると、廊下でローザとすれ違った。女中頭のこの女性は、いつもわたくしに冷たい。きつい目つきで、腰に下げた鍵の束を鳴らしながら、わたくしの横を無言で通り過ぎる。すれ違いざまに感じる緊張。この人の前では、背筋を伸ばしていないと負けた気がする。


(この人はダリウス様の側の人間……)


そう思いながら、わたくしは自室に戻った。


机の引き出しの奥に、一冊の日記帳がある。使い込まれて角が丸くなった革の表紙。

母がくれた日記帳。この家でわたくしが唯一、本音を吐き出せる場所。


三年分の記録。夫の帰宅時刻、外出先、同行者、衣服についた香りの種類。そして、十五回の浮気の痕跡。


わたくしはペンを取り、新しいページを開いた。今日の日付を記す。


そしてその下に、初めて「浮気」以外の記録を書き加えた。


『領地送金の不一致——調査中。協力者あり』


ペンを置いたとき、手はもう震えていなかった。三年ぶりに、わたくしは自分の意思で何かを始めようとしている。


――その夜、ヘンリク様が突然の発作で倒れたという知らせが、屋敷を駆け抜けた。


ニーナが蒼い顔で駆け込んできた。「ヘンリク様が——お倒れに——」。わたくしの手の中で、ペンが止まった。


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