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旦那様は15回目の浮気中  作者: 渚月(なづき)


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第1話 香水の残り香

十五回目だった。


夫の襟元に残る、わたくしのものではない甘い香り。それを数えるのが、この屋敷でのわたくしの日課になっていた。


今夜も、ダリウス様は深夜に帰ってきた。寝室の扉が開く音で目が覚めたけれど、わたくしは眠ったふりを続けた。暗闇の中、靴を脱ぐ音。上着を椅子にかける衣擦れ。そして、かすかに届く——薔薇と麝香が混じった、あの香り。


一回目は気のせいだと思った。三回目で確信した。五回目で泣くのをやめた。十回目で、わたくしは数えることに決めた。


泣いても何も変わらない。でも、数えることはできる。


(……十五回。今日で十五回)


ダリウス様がベッドに入る気配はなかった。隣室のソファで眠るのだろう。最近はそれが常だ。


わたくしは薄い掛け布の下で、左手の薬指にはまった指輪をゆっくり回した。金の台座に小さな翡翠が嵌まったそれは、婚姻の証。三年前、この指にはめられたときの重さを、わたくしはまだ覚えている。

けれどあの重さの意味を、今のわたくしは知っている。愛の証ではなく、束縛の証だったのだ。


あのときダリウス様は微笑んでいた。社交界でよく見せる完璧な笑みではなく、少しだけ不器用な、本物に見える笑み。あれが演技だったのか、それとも——考えても仕方のないことだ。


眠れないまま、天蓋の装飾を見つめた。薄暗がりの中、金糸の刺繍が鈍く光っている。この天蓋はアルヴァイン家代々のものだという。何代もの公爵夫人が、この天蓋の下で夜を過ごした。彼女たちも、こんな夜を知っていたのだろうか。


翌日の午前、わたくしはいつも通り食堂へ向かった。


長いテーブルの端と端。それがわたくしたち夫婦の食事の距離だった。ダリウス様は完璧に整った金髪を撫でつけ、銀のナイフで果物を切り分けている。まるで昨夜何もなかったかのように。


「おはようございます、ダリウス様」


「ああ」


返事はそれだけ。視線すら上がらない。


わたくしは紅茶のカップを両手で包んだ。温かさが指先に沁みる。この屋敷で温かいのは、紅茶だけかもしれない。

ニーナが淹れてくれるこの一杯だけが、わたくしの一日の救いだった。


食堂の窓から差し込む光が、銀の食器に反射して天井に小さな虹をつくっている。この屋敷は美しい。調度品も、壁に掛けられた絵画も、磨き上げられた大理石の床も。けれど美しいものに囲まれていても、温かくはならない。


食事を終えたダリウス様が立ち上がる。そのとき、上着の裏地に何かが光った。


(……刺繍のイニシャル?)


一瞬だった。でも、わたくしの目は見逃さなかった。上着の内ポケットの縁に、淡い紫の糸で縫い取られた「E」の文字。ダリウス様の持ち物ではない。わたくしが用意したものでもない。


(E……エステル・ヴィーデマン伯爵令嬢)


社交の場で幾度か見かけた赤い巻き毛の令嬢。最近、夜会でダリウス様の隣にいることが多い。わたくしは「公爵夫人」として微笑んで立っているだけの存在だった。飾り物。あるいは、壁紙。


ダリウス様が食堂を出た後、わたくしはしばらく動けなかった。指先が震えている。悔しいのか、悲しいのか、もうわからない。


「奥様、お顔の色が優れませんが……」


ニーナが心配そうに覗き込んでくる。栗色の髪をきっちり編み込んだ、小柄な侍女。この子だけが、わたくしの味方だった。


「大丈夫よ、ニーナ。少し寝不足なだけ」


嘘をついた。ニーナは信じた顔をしてくれたけれど、その目には痛みがにじんでいた。この子は賢い。きっと気づいている。わたくしが毎晩泣いていたことも、最近泣かなくなったことも。


その日の午後、わたくしは義父ヘンリク様に呼び出された。


書斎に入ると、巨大な樫の机の向こうに、老公爵が座っていた。杖を脇に立てかけ、鷹のような目でわたくしを見据える。この屋敷の真の支配者は、隠居したはずのこの人だ。


「三年だ、ソフィア」


開口一番、それだった。


「嫁いで三年。跡継ぎの気配すらない。男爵家の娘を迎えたのは、お前の母御の縁があったからだ。その恩を忘れたか」


わたくしは頭を下げた。反論はしなかった。できなかった。跡継ぎを産めないのは事実で、その原因が夫の不在にあるとは、口が裂けても言えない。言えば、わたくしの立場はさらに悪くなるだけだ。


「猶予はあと一年だ。それまでに成果がなければ——わかっておろうな」


離縁。その言葉を、ヘンリク様は口にしなかった。口にする必要がなかった。杖の先で、二度、床を叩いた。それが合図だった。退室せよ、という。


書斎を出たわたくしの足は、自然と庭園に向かった。春の陽射しの中、白い薔薇が咲いている。この庭だけは好きだった。嫁いでからわたくしが世話を続けた、唯一自分のものと呼べる場所。


(……一年)


一年後にわたくしは追い出される。実家のノイマン男爵家は既に父が亡くなり、弟が継いでいる。義姉との折り合いは良くない。戻れる場所があるかどうかすら怪しい。


離縁された公爵夫人。その肩書きは、社交界では死刑宣告に等しい。再婚の見込みはなく、宮廷への出入りも制限される。実質的な追放だ。

行く場所がない。頼る人がいない。この国で、女がひとりで生きていく道は限られている。だからこそ、わたくしは耐えてきた。耐えることしかできなかった。


薔薇の棘がうっかり指を刺した。小さな赤い珠が浮かぶ。痛みが、逆にわたくしの頭を冷やした。


(泣くのはやめたはず。数えると決めたはず)


そうだ。わたくしは数えてきた。十五回の浮気。その一つ一つを、日付と状況とともに、日記に記してきた。


あれは最初、ただの習慣だった。眠れない夜に、事実だけを書き留める。感情を書くと涙が出るから、事実だけ。何月何日、帰宅時刻、香水の種類、衣服の乱れ。淡々と。


でも——それが十五回分も積み重なると、ただの日記ではなくなるのかもしれない。


(……証拠)


その言葉が、不意に頭に浮かんだ。


でも証拠があったところで、どうする。貴族の妻が夫の不貞を訴えたところで、社交界は「よくあること」で片づける。法はどうか。この国の法律では、妻から離縁を申し立てる道があるのか。わたくしは、それすら知らない。


(知らなければ、調べればいい)


その考えが浮かんだことに、わたくし自身が驚いた。三年間、「仕方がない」で蓋をしてきた頭が、初めて別の方向に動き出している。


ちょうどそのとき、庭園の入り口に見知らぬ男が立っているのに気づいた。


黒髪に銀縁の眼鏡。長身だが少し猫背で、指先にインクの染みがある。貴族ではない。仕立ての良くない外套を着ているが、目だけは驚くほど澄んでいた。曇りのない、濁りのない目。この屋敷で、そんな目を見たのは初めてだった。

三年分の澱が溜まったわたくしの瞳とは、あまりにも対照的な目だった。


「失礼。公爵邸の庭園とは知らず、迷い込みました」


嘘だ、とわたくしは直感した。王宮に隣接するこの区画に「迷い込む」人間はいない。門番もいるし、生垣も高い。意図して入らなければ、ここには来られない。


でも、追い返す気にはならなかった。この人の目には、この屋敷の誰にもない何かがあった。


嘘のない、まっすぐな光。


「——お名前を伺っても?」


「イサク・ベルグレン。王宮会計監査局の者です」


会計監査。その言葉が、わたくしの胸の奥で小さく響いた。まだその意味を、わたくしは知らなかった。


知らなかったけれど、左手の指輪を回す癖が、そのとき初めて止まった。


――翌日、ダリウス様の書斎から、一通の封書が消えていた。



第一話お読みいただき、ありがとうございました!

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