18
翌朝、シアがゼノの家を訪ねると、寝坊するなと言った本人はまだ眠っていた。
三度扉を叩いても返事はない。四度目に少し強く叩いたところで、家の中から何か大きなものが倒れる音がした。しばらくして、ようやく扉が開く。
「……早くない?」
向こうに立っていたゼノの髪は、見事なまでに好き勝手な方向へ跳ねていた。
「早くないよ。ゼノが寝坊してるの」
「俺、昨日寝坊するなって言ったじゃん」
「言われたから来たんだけど?」
「あれはシアに言ったんだから、俺には適用されないよ」
「何それ」
朝から呆れながら家に入れば、今度は部屋の散らかりようが目についた。この前来たときも綺麗な家だとは思わなかったけれど、今日は輪をかけて酷い。
本や紙束に混じって、用途の分からない瓶や乾燥した草、魔法具らしきものまで床や机に転がっている。机の端には食べかけの菓子まで置かれていて、いつのものなのかを考えるのが少し怖い。
「よくこれで何がどこにあるか分かるね」
「全部分かってるよ」
「ほんとに?」
シアは足元に落ちていた紙を一枚拾った。
「じゃあ、これは?」
「……知らない」
「分かってないじゃん」
裏返してみると、三年前の日付が入った請求書だった。
「三年前だよ」
「じゃあもういらないね」
「ちゃんと払い終わってる?」
「……たぶん」
「捨てない方がいいと思う」
結局、シアが机の周囲だけ片づけることになった。床に積まれた本を棚の脇に寄せ、用途の分からない魔法具は勝手に触らないようにして、紙束をひとまとめにする。その間に顔を洗ってきたゼノは、ようやく人らしい姿になって椅子へ腰を下ろした。
ところが、紙を広げてペンを手にした途端、それまで残っていた眠気は綺麗に消えた。
さらさらと走るペンの下で、複雑な円に数字が重なり、その周囲を見たことのない記号が埋めていく。一本の線が次の線を呼び込むように、術式はみるみる紙の上へ広がっていった。
シアは向かい側からしばらく黙って眺めていたけれど、すぐに何が何だか分からなくなる。
「ここで神聖力を受けて、こっちへ流す。上へ運ぶときに一回魔力で包んで、分割するのは――」
「待って」
説明を止められ、ゼノが顔を上げた。
「もう分かんない」
「早くない?」
「最初からほとんど分かってないもん」
「胸張って言うことじゃないでしょ」
ゼノが笑う。シアは頬を膨らませたけれど、すぐにまた紙へ目を戻した。
何を書いているのかは、やっぱり分からない。それでも、普段はいつも笑っていて、ふざけていて、どこまで本気なのかも掴みにくいゼノが、魔法へ向かうときだけは驚くほど静かなことに、シアはいつしか気づいていた。
緑色の瞳が細かな式を追い、時折何かを確かめるようにペン先が止まる。それもほんの一瞬で、すぐにまた新しい線が生まれていく。
「ゼノって、本当にすごいんだね」
今度はペンが完全に止まり、ゼノがゆっくり顔を上げた。
「何、その感想」
「だって、普段は全然すごそうじゃないから」
「褒められた気がしないんだけど」
シアはくすくす笑った。もちろん、ゼノが王国随一の魔法使いであることは知っているし、国王陛下から厚い信頼を寄せられていることも知っている。けれど、こうして目の前で見たこともない術式が組み上がっていくのを眺めていると、改めて彼の凄さを思い知らされる。
昨日、屋根の上で見せてくれた小さな光を思い出した。あのときはただ綺麗だと思ったけれど、あれほど複雑な魔法を、ゼノは何でもないことのように使っていたのだ。
普段はあんなにふざけているのに、魔法に向かうときの彼は、驚くほど格好いい。
しばらくして術式の骨組みができあがり、二人は最初の小さな実験をすることになった。
机を離れたゼノが床へ魔法陣を描き、シアは言われるまま、その中央に立って掌へ神聖力を集める。淡い光が生まれると、そこへゼノの魔力が細い糸のように絡みつき、ゆっくりと魔法陣へ流れ込んでいった。
紙の上で見た術式が、今度は床の上で光を帯びていく。円を結ぶ線が順番に明るくなり、足元から柔らかな光が立ち昇った。
「そのままね。動かないで」
「うん」
「絶対だよ」
「……なんで二回言ったの?」
「大事だから」
ゼノは魔法陣から目を離さず、真剣な顔で魔力を操っている。何か理由があるのだろうかとシアも姿勢を正したけれど、やっぱり妙な念の押し方だった。
何だか怪しい。
そう思った瞬間、ゼノが指を鳴らした。
ぽん、と軽い音に続いて、頭の周りでぼふっと何かが弾ける。
「……?」
痛くもなければ、熱くもない。けれど、妙に頭が軽い。
足元の魔法陣は何事もなかったように光を失い、正面にいるゼノは俯いて片手で口元を覆っていた。その肩が小刻みに震えているのを見た途端、嫌な予感がして、シアはすぐに窓へ駆け寄った。
硝子に映った自分の姿を見て、言葉を失う。
銀色の髪が、四方八方へ盛大に広がっている。
「…………ゼノ」
背後から、とうとう堪えきれなくなった笑い声が響いた。ゆっくり振り返ると、ゼノは腹を抱えている。
「ゼノ!」
「ごめん、待って、ほんと――」
「待つのはそっち!」
ゼノが逃げた。
机の向こうへ回り込み、シアが追いつきそうになると、笑いながら廊下へ飛び出していく。
シアもすぐにあとを追った。ふわふわと広がった銀髪が走るたびに揺れるせいで、ゼノは振り返るたびますます笑っている。
「戻して!」
「そのままでもかわいいって!」
「絶対思ってないでしょ!」
「思ってる思ってる」
「笑いながら言わないで!」
廊下の角を曲がったゼノへ、あと少しで手が届く。そう思って勢いよく足を踏み出した瞬間、靴先が床に転がっていた何かに引っかかった。
「あ――」
視線を落とすと、小さな金属製の魔法具が足元を転がっていくのが見えた。踏みとどまろうとしても間に合わず、身体が前へ傾いていく。
「シア!」
それまで響いていた笑い声が途切れた。
前を走っていたゼノが振り返り、次の瞬間には伸びてきた腕が背中と腰を支え、倒れかけたシアの身体を受け止める。
勢いのまま胸元へぶつかったけれど、床へ転ぶことだけは免れた。
「……危な」
頭のすぐ上で、ゼノが息を吐いた。
いつもの軽い調子とは違う声に、シアは思わず顔を上げる。すぐ近くにあった緑色の瞳がこちらを見下ろしていて、笑ってばかりいる彼が、今は少しも笑っていないことに気づいた。
「……ありがとう」
「ん。怪我してない?」
「うん」
「ならよかった」
そう言って、ゼノはようやく表情を緩めた。シアが体勢を立て直すのを待ってから腕を離し、シアも掴んでいた服から手を放す。
足元では、さっきの魔法具が壁際まで転がっていた。
「ゼノ、反応早いね」
感心して言うと、ゼノはすぐにいつもの調子に戻った。
「聖女サマが鈍いんじゃない?」
「助けてもらったのに腹立つ」
むっとして睨むと、ゼノの視線がシアの顔から少し上へ移った。爆発したままの髪を見て、一度は唇を噛んで耐えたものの、結局また吹き出す。
「もう! 早く戻して!」
「はいはい、ごめんって」
まだ笑っているゼノを睨みつけ、シアはその場にしゃがみ込んだ。仕方なさそうにゼノが背後に回り、頭の上に手を翳すと、淡い光が銀髪を包み込む。あちらこちらへ好き勝手に広がっていた髪は、少しずつ柔らかな流れを取り戻しながら肩に落ちていった。
近くの窓に映して確かめれば、すっかり元通りになっている。
けれど、耳の少し上に見覚えのない白いものが覗いていた。何だろうと指先で触れてみれば柔らかな感触がして、シアは窓に顔を近づける。
銀色の髪の間から、小さなシロツメクサが一輪だけぴょこんと顔を出していた。
「……ゼノ」
「ん?」
「花、生えてるんだけど」
「ほんとだ」
「ゼノがやったんでしょ」
「何のこと?」
しれっと目を逸らしたので、間違いない。シアがじろりと睨んでも、ゼノは悪びれる様子すらなかった。
「取って」
「えー、いいじゃん」
「よくない」
仕方なさそうに伸びてきた指が、銀髪の間に咲いた小さな花へ触れる。すぐに消してしまうのかと思えば、ゼノはそこで手を止め、何かを確かめるようにシロツメクサを眺めた。
「それくらいなら、かわいいじゃん」
「……え」
シアが振り返るより先に、指先で淡い光が瞬いた。白い花は綺麗に消え、ゼノは何事もなかったように手を離す。
「続きやろ。時間ないんでしょ」
「……うん」
シアは窓に映った自分を確かめ、今度こそ元に戻った髪に満足して頷いた。
さっきまで腹を抱えて笑っていたくせに、と少し腹は立つけれど、実験はまだ始まったばかりである。
「今度は変なことしないでね」
「えー、約束できないなあ」
「ゼノ!」
楽しそうに笑う彼を睨みながら、シアはもう一度、魔法陣の中央へ戻った。
千年祭まで、あと数日。
果たして本当に間に合うのだろうかと、少しだけ不安になった。




