16
勢いに任せてルーファスの部屋を飛び出したのはよかったが、肝心のゼノがどこにいるのか、シアには見当もつかなかった。
ひとまず足を向けたのは、リカルドの研究室である。昼間にも訪れたばかりだったが、扉の前に立つと昨日の騒動が思い出され、今度はきちんと三度、扉を叩いた。
「リカルド、入っていい?」
「どうぞ」
扉を開けると、リカルドは昼間と変わらず机に向かっていた。積み上げられた資料の向こうから、黄晶色の瞳がこちらを見る。
「ゼノがどこにいるか知らない?」
「知りません」
「ここには来てないの?」
「昼過ぎに出ていってからは見ていません」
「そっか。ありがとう!」
「聖女様」
踵を返しかけたところで呼び止められ、シアは振り向いた。リカルドは手元の資料から顔を上げ、何か言いたげにこちらを見ている。
「なに?」
「その格好で外に出るつもりですか?」
言われて自分の姿を見下ろす。室内着の上に、薄い羽織を一枚引っかけているだけだった。ルーファスの部屋に行くつもりだったのだから、当然といえば当然である。
「大丈夫だよ」
「夜は冷えます」
「すぐ戻るから!」
「聖女様!」
もう一度呼ばれたけれど、シアはそのまま研究室を飛び出した。
ゼノを見つけて話をして、すぐに戻ればいい。
そう思いながら王城の中を探し回った。
魔術師たちが使う部屋を覗き、中庭へ下り、図書室から食堂まで足を運んでみても見つからない。途中ですれ違った侍従に尋ねてみると、昼間に姿を見たきりだという。
「どこ行ったんだろ」
とうとう廊下の途中で足を止めた。
もう家に帰ってしまったのだろうか。そうなると、今から追いかけるには遅すぎる。ならば話すのは明日でもいいかもしれない。
そう考えたところで、記憶の片隅にひとつの場所が浮かんだ。
――王城の屋根。
「あ」
何度か、そこでゼノを見つけたことがある。仕事をさぼっていたのか、一人になりたかっただけなのかは知らないけれど、高い屋根の上に寝転がり、ぼんやりと空を眺めていた。風が強いせいで人は滅多に来ない、王都を一望できる場所だ。
「……いるかも」
シアはすぐに方向を変えた。
屋根へ出るには、城の西側にある古い塔を上らなければならない。普段はほとんど使われていない階段を上り、最上階の細い窓から外へ出ようと足をかけたところで、春の冷たい夜風が頬に当たった。
「さむっ」
途端に、リアムとリカルドの顔が浮かぶ。
二人とも同じことを言っていたのだから、素直に何か羽織ってくればよかった。今さら引き返すのも悔しくて、シアは薄い羽織の前を合わせ、そのまま屋根に降りる。
瓦の上を足元を確かめながら進み、やがて顔を上げると、王都の灯りが眼下いっぱいに広がった。
「わあ……」
シアは足を止めた。
千年祭を間近に控えた王都は、昼間とはまるで違う。大通りには祭り用の魔法灯が試験的に点され、広場の周囲にも小さな光が幾重にも連なっている。その向こうには、夜の色に溶け込むような暗い海が見えた。
自分が目を覚ました海だ。
まだ幾日も経っていないはずなのに、あの朝から随分いろいろなことがあった気がする。知らない昨日に戸惑い、リカルドとはもう一度友達になろうと決め、子どもになってゼノの家へ逃げ込み、記憶にはなかった一日を三人で過ごした。
その間にも、世界はシアの覚えている一年とは違う形で進み続けている。
シアは海から視線を戻し、屋根の上を見渡した。
「……いないかな」
呟いたところで、少し離れた高い場所に人影を見つけた。
屋根の傾斜が緩やかになったところで、両腕を頭の後ろに組んで寝転がり、夜空を見上げている。月明かりの下で、橙色がかった髪が風でふわふわと揺れていた。
「ゼノ!」
呼びかけると、ゼノが上半身を起こした。こちらを振り向き、そのまま珍しく動きを止める。
「……え」
「やっぱりいた!」
探していた相手をようやく見つけ、シアは嬉しくなって屋根の上を歩いていく。
「ちょ、待って。足元も見ずに歩くなよ。そこ滑るから」
「大丈夫」
「いや、落ちたら普通に死ぬからね?」
「分かってるよ」
「分かってる人は夜中に屋根まで来ないと思うけど」
呆れた声を出しながらも、ゼノは立ち上がってシアが近くまで来るのを待ってくれた。最後の少し傾斜が急になるところでは当たり前のように手を差し出され、シアも迷わずその手を取る。
「ありがと」
「どういたしまして」
引き上げてもらった場所は、下から見ていたよりも広かった。屋根と塔が接する辺りだけ平らになっていて、二人で座るには十分な広さがある。
ゼノはシアの手を離したあとも、まだ不思議そうな顔でこちらを見ていた。
「……何?」
「いや」
「何?」
「なんでここにいるって分かったの?」
シアは瞬きをした。
そういえば、今のゼノとは、まだ屋根の上で会ったことがなかった。何度かここで彼を見つけたのは、失われた一年のことだ。
「なんでだろ」
「俺が聞いてんだけど」
「なんとなくかな」
「なんとなくで王城の屋根まで来る?」
「来たらいたでしょ?」
「それはそうだけどさあ」
ゼノは納得していないようだったけれど、それ以上問い詰めることはせず、やれやれといったふうに肩を竦めた。
「で、何しに来たの」
「ゼノを探しに」
「それは分かる」
「見つけた」
「うん。だから何の用?」
「ちょっと待って」
「何を?」
「疲れた」
ここまで王城中を走り回ったせいで、今になって息が上がっていることに気づいた。シアはゼノの隣に座り、膝を抱える。ようやく落ち着いたところで横から視線を感じ、顔だけをそちらへ向けた。
「……何?」
「いや、別に」
「絶対なんか言いたそう」
「聖女サマって、こんな自由だったっけなと思って」
「自由だよ。たぶん」
「たぶんなんだ」
シアはへへっと笑った。
話している間にも夜風は容赦なく吹きつけ、じっとしていると、思っていた以上に寒い。何か着てくればよかったと後悔したが、ここで口にすればリアムとリカルドの言うとおりだったと認めることになる気がして、黙って膝を抱え直す。
すると隣で衣擦れの音がして、肩に何かが掛かった。
「え?」
顔を上げると、ゼノが着ていた外套だった。
「寒いなら言えば?」
「寒くないよ」
「震えてんじゃん」
「これは風が」
「はいはい」
ゼノはもうこちらを見ていなかった。
外套を脱いだことで、薄いシャツの襟元がいつもより目につく。夜空を仰いだ拍子に喉仏がゆっくりと動き、その下には普段なら外套に隠れている鎖骨の線が覗いていた。
いつも飄々としていて、掴もうとすればするりと逃げてしまいそうな人なのに、月明かりに照らされた横顔は、普段より少しだけ大人びて見えた。
シアは何となく落ち着かなくなり、そっと視線を逸らした。
当の本人は何も気づいていないらしく、薄いシャツ一枚のまま夜空を眺めている。シアは肩に掛けられた外套の端を指で掴んだ。
子どもになったあの日も、自分を隠すために彼の外套を借りた。元の身体に戻ったときにはローブにも助けられたのだから、こうしてゼノの服を借りるのは、この数日の間だけでもう何度目になるのだろう。
「ゼノ」
「んー?」
「寒くないの?」
「俺は平気」
「魔法使いだから?」
「そうそう。こう見えて俺、この国一番の魔法使いなのよ」
いかにもゼノらしい答えに、シアは笑い、借りた外套を胸元へ手繰り寄せた。
眼下では、千年祭を待つ王都の灯りが幾つも瞬いている。祭りの日には、この大通りも広場も、国中から訪れた人々で埋め尽くされるのだろう。
あの千年祭の日、隣にはルーファスがいた。
大聖堂を開き、朝から夕暮れまで、たくさんの人に祝福を授けた。シアが疲れればルーファスが休めるようにしてくれて、人が近づきすぎれば自然に間へ入ってくれた。
けれど今は、同じことはできない。
昼間、国王から千年祭をどうしたいのかと尋ねられたときには、何も答えられなかった。ルーファスがいないのなら、あの日と同じ祭りにはできない。そればかりを考えていた。
シアは肩に掛かった外套へ視線を落とす。
子どもになったことも、ゼノの家へ行ったことも、リカルドの眼鏡を奪って怒らせたことも、シアの覚えている一年にはなかった出来事だ。最初は知らない時間が怖かったのに、今では思い出すだけで笑ってしまう。
失った時間を取り戻すことばかり考えていたけれど、こうして新しく増えていく時間もある。
──だったら、千年祭だって。
シアは眼下に広がる王都を見つめた。ルーファスが眠っている今だからこそ、自分にできることを探してみたい。
そう思うと、さっきまで答えの見つからなかった景色が、少しだけ違って見えた。
シアは隣へ顔を向ける。
月明かりの下、緑色の瞳がこちらを見た。
「ねえ、ゼノ」
「ん?」
振り向いた彼に、シアは笑いかけた。




