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翌日、シアは約束通りリカルドの研究室を訪れた。
昨日は返事を待たずに扉を開けたせいで、丸一日子どもの姿で過ごす羽目になったので、今日は同じ失敗を繰り返さないよう三度きちんと扉を叩き、大人しく返事を待つ。
しばらくすると、扉の向こうから紙を捲る音に混じって、抑揚の乏しい声が返ってきた。
「どうぞ」
「はーい」
扉を開けると、昨日とほとんど変わらない研究室が広がっていた。壁際の棚には相変わらず用途の分からない器具や瓶が所狭しと並んでいる。ただ、床いっぱいに描かれていた魔法陣だけは跡形もなく消されていた。
部屋の奥では、リカルドが机に向かっている。
足音に気づいて顔を上げた彼は、シアを見るなり黄晶色の瞳を細めた。
「……本当に来たんですか」
「来たよ」
「昨日あれだけの目に遭っておいて?」
「今日は実験してないでしょ?」
「そういう問題ではありません」
呆れられても、初めてこの研究室を訪れたときのような居心地の悪さは、もう感じなかった。
シアは笑いながら机のそばまで歩いていく。
リカルドは何か言いたげにこちらを見ていたが、追い返すのは諦めたらしく、手元の紙に視線を戻した。
「それで、何の用です?」
「リカルドに会いに来たの」
紙の上を走っていたペン先が止まった。
「……聖女様。いつまで私にまとわりつくつもりですか」
「うーん。友達になってくれるまで?」
「友達になれば静かにしてくださるんですか?」
「友達になったら毎日会いに来られるね」
「…………」
返事の代わりに、長い溜め息が落ちた。
けれど、本当に迷惑なら、とっくに追い出されているはずだ。少なくともシアの知っているリカルドは、必要がないと判断した相手に遠慮するような人ではない。
だから気にせず、昨日も座った椅子に腰を下ろす。
今日は誰かに抱き上げてもらわなくても、自分で座れる。足がきちんと床に届くことを確かめていると、机の向こうから呆れた声が飛んできた。
「……何をしているんです?」
「座ってる」
「見れば分かります」
「じゃあ聞かなくてもいいじゃん」
また溜め息が聞こえた。
シアは笑いながら身を乗り出し、机の上を覗き込む。何本もの線と数字が書き込まれた紙には、見覚えのある魔力の波形が並んでいた。
「これ、ルーファスの?」
「ええ。今朝の測定結果です」
「何か分かった?」
「通常の魔力障害ではない、という判断は変わりません。魔力そのものが乱れているというより、外部から何らかの干渉を受けている可能性があります」
リカルドは記録の一箇所を指先で示した。
「ただ、何が干渉しているのかは特定できていません。昏睡との因果関係も、現段階では不明です」
「……そっか」
シアは記録へ目を落とした。
ルーファスの手首に浮かんでいた黒い線を思い出す。あの神殿で見た黒い靄と形も現れ方も違うけれど、無関係だと言い切れるだけの根拠もなかった。
「調べますよ」
顔を上げると、リカルドはもう別の記録を手に取っていた。
「原因が分からないまま放置するつもりはありませんから」
「……うん。ありがとう」
「礼を言われることではありません。私の仕事です」
そっけない返事だったけれど、その言葉が頼もしかった。
もう少し詳しく聞こうとしたところで、扉が叩かれる。
「──失礼いたします。聖女様はこちらにいらっしゃいますか」
現れたのは王宮の侍従だった。
「国王陛下がお呼びです」
「……陛下が?」
思いがけない呼び出しに、シアは目を丸くした。
◇
国王の執務室には、開け放たれた窓から春の風が流れ込んでいた。
促されるまま椅子に腰を下ろすと、国王はしばらくシアの顔を見てから口を開く。
「戻ってから、身体に異常はないか」
「はい。神聖力も問題ありません」
「そうか。それならよい」
穏やかに頷いた国王は、机の上に置かれた書類へ目を向けた。
「聖騎士は、いまだ目覚めぬそうだな」
「……はい」
「そなたが戻れば何か変わるかとも思ったが、そう簡単にはいかぬか」
責めるような声ではなかった。それでもシアは膝の上で指を握り、申し訳ありません、と小さく答える。
「そなたが詫びることではない」
国王はすぐに首を左右に振った。
「さて、そなたを呼んだのは、ほかでもない。今年の建国千年祭についてだ」
「千年祭、ですか?」
「うむ。建国千年という節目の年に開かれる建国祭だ。各地から多くの民が王都を訪れることになる。聖女が戻ったと知れば、そなたの姿を一目見たいと願う者も少なくなかろう」
窓の向こうから、祭りの準備をする槌の音が聞こえてくる。
王都にはすでに各地から人々が集まり始めていた。通りには祝祭用の布が飾られ、広場には春の花が並び、城門の外には入都を待つ長い列ができているという。
「余としても、そなたには何かしらの形で祭りに参加してもらいたいと考えておる。だが、聖騎士が眠ったままではな」
国王は困ったように眉を下げた。
「そなたの身の安全を考えれば、安易に人前へ出すわけにもいかぬ。無論、無理をさせるつもりはないが、何か希望があれば聞かせてほしい」
「私の、希望……」
「すぐに答えを出さずともよい。祭りまでにはまだ時間がある。そなた自身がどうしたいか、ゆっくり考えてみるとよい」
シアは膝の上へ視線を落とした。
千年祭。その言葉を聞くと、どうしても思い出してしまう光景がある。
失われた一年で経験した千年祭では、大聖堂に朝から夕暮れまで人々が訪れた。幼い子どもも、杖をついた老人も、遠い地方から何日もかけてやってきた家族も、誰もが嬉しそうに祝福を受けて帰っていった。
あのとき、傍らにはルーファスがいた。
疲れれば休憩を作ってくれて、人が近づきすぎればさりげなく間に入り、緊張して泣き出した子どもには膝を折って優しく話しかけていた。
彼がいてくれたから、シアは安心して民の前に立てたのだ。
「……はい。考えてみます」
そう答えると、国王は穏やかに頷いた。
「うむ。そなたにとっても、よい祭りになることを願っておる」
執務室を辞したあとも、シアの頭から千年祭のことは離れなかった。
聖女として、民のために何かしたい。けれど、そのために誰かへ無理をさせたり、心配をかけたりするのは違う気がする。
考えながら廊下を歩いているうちに、足は自然と東棟へ向かっていた。
答えをくれるはずのない人に、どうしても会いたくなったのだ。




