第34話 誘惑
王都を出た討伐隊は、魔王の支配領域へ向けて進み続けた。
街道を抜け、森を越え、さらに北へ。
やがて草木の色が少しずつ失われていく。
空はまだ昼間だというのに薄暗く、遠くの山々には黒い霧がまとわりついていた。そのさらに奥には、岩山を削るように建てられた巨大な城が見える。
「……分かりやすく魔王城じゃん」
レナードが城を見上げた。
「すごいね……」
タケルも息を呑む。
「絶対あそこにラスボスいるやつ」
「だからラスボスだって」
「分かってるって」
普段通りの会話をしながらも、二人の視線は周囲から離れない。
先頭を進むロイヤル・フラグメントとレイナ。その後ろにアルカディアとスターライトが続き、さらに後方から世界各地の討伐隊が広い範囲を埋めている。
エミールは歩きながら何度も後方を確認していた。
「補給部隊、遅れてないよ! 回復班も予定の位置にいる!」
「歩きながら全部見てんの?」
レナードが聞く。
「見ないと困るでしょ?」
「そりゃそうだけど」
以前なら、その言葉だけで終わっていただろう。
だが今のレナードも、自然と後ろを見る。
スターライト。
アルカディア。
さらにその後ろ。
誰かだけが突出していない。
全体が動けている。
「……よし」
小さく呟いて、再び前へ向いた。
その時だった。
レイナが足を止める。
「皆様」
声は穏やかだった。
しかし、その場にいた全員がすぐに武器へ手をかける。
「何か参りますわ」
次の瞬間。
地面が大きく揺れた。
ドンッ!!
「うわっ!」
巨大な亀裂が、討伐隊の真正面を横切る。
そこから黒い霧が噴き上がった。
「全員止まれ!」
アルカディアのリーダーが叫ぶ。
前線が一斉に停止する。
霧は次第に四つの場所へ集まり、それぞれ人の形を作り始めた。
「……四人?」
タケルが杖を構える。
最初に姿を現したのは、一人の女だった。
長い黒髪。
身体の線が分かる艶やかな衣装。
白い肌に、赤い唇。
美しい。
それも、誰もが一度は振り返るような美貌だった。
「あら」
女は討伐隊を見渡し、楽しそうに笑う。
「随分たくさん来たのね」
その少し離れた場所には、巨大な鎧をまとった男。
さらにその奥には、顔の半分を仮面で覆った細身の男。
最後の一人は全身を黒い布で包み、姿さえはっきり見えない。
四人から放たれる魔力だけで、周囲の空気が重くなる。
タケルの顔から血の気が引いた。
「……今までの魔物と全然違う」
「だよね」
レナードも笑っていなかった。
女がゆっくり前へ出る。
「魔王様に刃を向けるなんて、本当に愚か」
その声が響いた瞬間。
空気に甘い香りが混じった。
「……何?」
サキが眉を寄せる。
周囲の冒険者たちにも異変が起こる。
一人。
また一人。
武器を持つ腕が下がっていく。
「こんな戦い、必要ないでしょう?」
女が微笑む。
「怖い思いなんてしなくていいの」
声が耳へ入るたび、頭の中がぼんやりする。
スターライトの後方でも、何人かが足を止めた。
「私のところへ来ればいいわ」
女の視線が。
真っすぐレナードへ向いた。
「……あなた、とても綺麗ね」
「は?」
「勇者なのでしょう?」
女は楽しそうに距離を詰める。
「そんなに強くて、美しいのに。どうして他人のために命を懸けるの?」
レナードは黙って女を見る。
女はさらに笑った。
「私なら、あなたを一番にしてあげる」
その言葉と同時に。
景色が変わった。
「……え?」
レナードの周囲から戦場が消える。
代わりに現れたのは、華やかな部屋。
柔らかなソファ。
高価そうな酒。
そして自分を囲む、美しい女たち。
「あなたは特別」
「誰よりも格好いい」
「私だけを見て」
甘い声が次々と響く。
レナードは目を瞬いた。
「……あー」
女の声が近づく。
「あなたはこういうのが好きなのでしょう?」
レナードはしばらく黙っていた。
そして。
「まあ、嫌いじゃないけど」
「でしょう?」
「でもさ」
レナードは剣を肩へ乗せた。
「今それどころじゃないんだよね」
「……え?」
女の笑みが僅かに止まる。
「ていうか、そういうノリで行って爆弾出しまくったんだよ、俺」
「何の話?」
「こっちの話」
レナードは目の前の女を見る。
確かに美人だった。
以前の自分なら、もっと軽く話しかけただろう。
可愛い。
綺麗。
タイプ。
そうやって、相手が喜びそうなことを並べていた。
だが。
「俺、もうそれいいわ」
女の目が細くなる。
「……何ですって?」
「今は、ちゃんと見ないといけない奴らいるから」
レナードが剣を握る。
「悪いけど、倒すよ」
幻が砕けた。
パリンッ!!
レナードの視界に戦場が戻る。
「レナード!」
イオリの声が聞こえた。
その瞬間、レナードは踏み込む。
「うおっ!」
女が咄嗟に黒い魔法を放つ。
レナードはそれを剣で弾いた。
「効いてない?!」
「ちょっと効いた」
「効いたんだ?!」
タケルが思わず叫ぶ。
「美人だったし」
「レナード!!」
イオリの声が飛ぶ。
「冗談冗談!」
「今のタイミングで言います?!」
「でも戻ってきたじゃん!」
女の顔が引きつった。
「ふざけないで!」
黒い霧が一気に広がる。
今度はレナードだけではない。
スターライト。
アルカディア。
周囲の討伐隊。
広範囲をまとめて包み込もうとする。
「まずい!」
タケルが叫んだ。
だが。
「大丈夫だよー!」
明るい声が響く。
エリオットだった。
剣を一振りする。
黒い霧が真っ二つに裂けた。
「……は?」
女が固まる。
その反対側では、ルシアンが片手を上げる。
「これ邪魔だねー!」
地面一帯が一瞬で凍りつき、霧の広がりを止めた。
「風も止めるね!」
エミールが指を動かす。
風向きが変わり、討伐隊へ向かっていた霧が押し返される。
アレクシスはその様子を見ながら、霧の周囲へ何重もの結界を張った。
「ここから出ないようにした方がきれいだよ!」
「何なの、あなたたち……!」
女が初めて動揺する。
セシルが不思議そうに首を傾げた。
「さっきから何してるのー?」
「……誘惑よ!」
「そうなんだ!」
「効いてないの?!」
「ぜんぜーん!」
「なんで?!」
ノエルも頬を膨らませる。
「だって行くところ決まってるもん!」
レオンも盾を構えながら笑った。
「うん。迷うことないよ」
そして。
レイナは最初から一歩も動いていなかった。
女がレイナを睨む。
「あなたには……欲しいものがないの?」
「ございますわ」
レイナは穏やかに答える。
「でしたら――」
「ですが、あなたに与えていただくものは何もございませんの」
女の顔が固まった。
レナードが小声でタケルへ囁く。
「強っ」
「精神面までチートなんだ……」
「聞こえておりますわ」
「すみません!」
その時。
轟音が響いた。
ドォォォン!!
離れた場所で巨大な鎧の男が動き出していた。
アルカディアのリーダーが叫ぶ。
「別方向から来るぞ!」
さらに仮面の男が片手を上げる。
その周囲にいた冒険者たちが突然、互いへ武器を向け始めた。
「何してんの?!」
サキが驚く。
タケルが息を呑んだ。
「……操られてる」
最後の黒い影からも、低い声が響いた。
「恐れろ」
その一言だけで。
大地全体が震えた。
スターライトの何人かが息を止める。
イオリの手にも僅かに力が入った。
レナードは周囲を見る。
誘惑。
操られている者たち。
正体の分からない恐怖。
巨大な鎧。
一度に全部が動き始めていた。
「……四人同時?」
タケルの声が震える。
「らしいね」
レナードは剣を握り直す。
その前へエリオットが出た。
「大丈夫!」
レオンも並ぶ。
「僕たちいるよ!」
セシルが拳を合わせる。
「まっかせなしゃい☆」
ルシアンが笑いながら氷を広げ、エミールはすでに各部隊の位置を確認している。ノエルは後方の異変へ走り、アレクシスが戦場を分断するように結界を張った。
そしてレイナが全体を見渡す。
「皆様。四名を分断いたしますわ」
「四天王って感じじゃん」
レナードが笑う。
「笑ってる場合じゃないよ!」
「分かってるって!」
レイナが手を上げた。
風。
土。
氷。
光。
複数の魔法が同時に戦場を走る。
「スターライト、アルカディアは中央を!」
「了解!」
「ロイヤル・フラグメントの皆様は左右をお願いいたします!」
「はーい!」
全員が一斉に動き出す。
美女の魔女が怒りに顔を歪めた。
「たかが人間が!」
レナードは真正面からその女を見る。
もう目を逸らさない。
「悪いけどさ」
剣を構える。
「俺、前よりちょっと面倒な男になったみたい」
そして。
一気に地面を蹴った。




