名簿(みょうぶ)
嘉吉元年六月二十四日の午後、京は、恐慌に陥った。
——というのが、正史である。
将軍が白昼に討たれ、その首が槍の先に掲げられて西へ去った。にもかかわらず、幕府は動かなかった。管領細川持之は諸大名を集めたが、誰も追討の先陣を引き受けようとしない。赤松を討てば、その所領は誰のものになるのか。手柄の分け前が決まらぬうちは、兵を出す気になれぬ。
将軍が殺されたその日に、大名たちは、遺産の分配を相談していたのである。
追討軍がようやく播磨へ向かったのは、事件から二十日以上あとであった。その空白の間に、京では土一揆が蜂起する。数万の百姓と馬借が洛中に雪崩れ込み、徳政を要求して土倉を襲った。幕府は屈し、この国で最初の徳政令を出した。将軍が死んだ隙に、民が政を捻じ曲げたのである。
そして赤松追討の主役をつとめた山名持豊——のちの宗全は、恩賞として播磨・備前・美作を手に入れた。山名家はこれで八カ国の太守となり、細川家と並ぶ巨大勢力に膨れ上がる。
この二つの家が、二十六年後に京を焼く。
応仁の乱である。
つまり、である。嘉吉元年六月二十四日のあの一刀は、ひとりの将軍を殺しただけではなかった。あの日に幕府の背骨が折れ、そこから百年の内乱が流れ出した。日本人が戦国と呼ぶあの時代の、これが本当の入口であった。
その一刀が、この物語では、外れた。
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「持之」
翌朝、義教は言った。
肩の傷は浅い。医師が縫い、法体の名残りの頭に晒を巻いた。血の匂いのする室町第の広間に、幕府の重臣がことごとく召し集められていた。
「昨日、そなたは庭へ落ちたな」
管領・細川持之は、平伏したまま動かなかった。
「そのまま姿が見えなんだ。どこにおった」
「……門外の兵を、呼びに」
「呼びに行くのに、四半刻かかるか」
答えはなかった。
義教は、傍らの奉行に目をやった。奉行が、書付を広げた。昨日の宴に列した者の名が、ことごとく記されている。名の下には、朱で印がついている者と、ついていない者がある。
「読み上げよ」
「……山名熙貴、討死。京極高数、討死。大内持世、深手。細川持春、片腕を落とし、なお御前に立ちふさがり申した」
「うむ」
「以下、庭へ逃れ、そのまま戻らざりし者——」
奉行の声が、細くなった。
「読め」
読み上げられた名は、二十三に及んだ。管領の名は、その二番目にあった。
読み終えたとき、広間は死んだように静まっていた。義教は、しばらく黙っていた。それから、意外なことを言った。
「咎めぬ」
顔が上がった。二十三の顔が、いっせいに上がった。
「人は逃げる。それが道理じゃ。太刀も帯びず、酒に酔うておって、いきなり甲冑の武者が出れば逃げる。わしとて、坊主のままであったなら逃げたであろう」
義教は、書付を手に取った。
「じゃが、覚えておく」
そして、ゆっくりと巻き直した。
「そなたらも、覚えておけ。わしがこれを持っておるということを」
——これが、この人であった。
罰しない。罰しないが、名簿は消えない。いつ開かれるとも知れぬ紙が、二十三人の一生を縛る。刑を下すより、刑の可能性を残しておくほうが、人はよく働く。義教は、恐怖という道具の使い方を、この十三年で完成させつつあった。
余談ながら、この人は無学な暴君ではない。天台座主にまで昇った学僧である。若き日は法華経を講じ、密教の儀軌に通じ、青蓮院門跡として学問の頂にあった。人の心の動き方を、経典と修行の中で徹底的に学んだ男が、その知識を統治に転用したとき、何が生まれるか——万人恐怖とは、つまりそういうものであった。
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赤松追討は、その日のうちに発令された。
大将は誰か。広間の空気が、わずかに動いた。播磨・備前・美作。三カ国が転がっている。
但馬守護・山名持豊が、進み出た。三十八歳。武辺で鳴らし、気性の激しさは都に隠れもない。のちに宗全と号し、応仁の乱で西軍を率いることになる男である。
「赤松討伐、この持豊にお命じあれ。三日で兵を発しまする」
義教は、この男を見た。
見て、言った。
「不要じゃ」
持豊の顔が、止まった。
「赤松は、奉公衆が討つ。大将はわしが立てる。そなたは但馬におれ」
「……恐れながら、播磨の地理は山名がもっとも——」
「持豊」
義教は、静かに遮った。
「そなたは今、何を欲しがった」
持豊は、答えられなかった。
「首か。所領か。……いずれにせよ、欲しがった者には、やらぬ」
奉公衆というのは、将軍の直属軍である。守護大名の軍ではない。この時代、幕府の兵力は基本的に守護大名からの借り物であり、将軍が独自に動かせる兵は限られていた。だからこそ将軍は大名の顔色を窺わねばならず、義満以来の歴代がそこで苦しんできた。
義教は、この構造そのものを憎んでいた。大名から兵を借りている限り、恩賞をやらねばならぬ。恩賞をやれば大名が肥える。肥えた大名は、また将軍を舐める。ならば借りねばよい。討伐は将軍の兵で行い、奪った国は将軍の直轄とする。
史実の日本では、この発想が実現するのに、あと百三十年を要した。織田信長が現れるまで、である。
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追討軍は、七月早々に西へ下った。
赤松満祐は播磨に拠り、城山城に籠った。
九月十日の朝である。
城の空堀の外に、幕府方の旗が隙間なく並んでいた。奉公衆の旗である。守護大名の旗は、一本もなかった。
満祐は、櫓の上からそれを見ていた。六十一歳。背の低い老人が、鎧の重みに耐えかねるように櫓の柱に手をついている。
「教康」
嫡男を呼んだ。
「わしは、算を違えた」
「父上」
「聞け。……わしはな、将軍を殺すことなど、初手から考えておらなんだのだ」
満祐は、並ぶ旗を指した。
「あれよ。あの中に、山名の旗はない。畠山も、京極もない。……わしが賭けたのは、あの旗どもじゃ」
将軍が死ねば、幕府は割れる。誰もが胸の内で、あの男の死を願っていたのだから。一色も土岐も理由なく殺された。次は誰かと、大名という大名が怯えていた。ならば赤松が首を取れば、口には出さずとも安堵する者が出る。追討の議は紛糾し、恩賞の分け前で揉め、誰も本気で兵を出さぬ。その隙に播磨に籠り、詫びを入れ、家名だけは残す。
「それが、わしの算じゃ。……わしは将軍を殺すのではのうて、大名どもの臆病に賭けたのよ」
「では、なにゆえ」
「あの男が、死ななんだからよ」
満祐は笑った。乾いた、短い笑いであった。
「生きておれば、誰も割れぬ。誰も割れねば、賭けは負けじゃ。……ただ、それだけのことであった」
そして、櫓を下りながら言った。
「教康、伊勢へ落ちよ。北畠を頼れ」
「父上を置いて——」
「置いてゆけ。ひとりでも生き延びれば、赤松は絶えぬ。……絶えたと、あの男に思わせとうない」
その日のうちに、城山城は焼けた。満祐以下、一族七十余人が自刃したと伝わる。
教康は伊勢へ落ちた。だが北畠は、将軍の生きている世で赤松を匿う気にはなれなかった。教康は容れられず、討たれた。
播磨・備前・美作の三カ国は、宣言どおり将軍の直轄領とされ、奉公衆と代官が入った。
赤松の一族は、ことごとく絶えた。庶流の赤松貞村ひとりが、義教の寵によって家名を残した。
——赤松を潰したのは、赤松貞村を寵愛したせいではないか。
と、京で囁く者があった。囁いた者の名が、どこかの書付に書き加えられたかどうかは、知れない。
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八月、京に不穏の風が吹いた。
近江の馬借が動いたのである。
馬借とは、馬に荷を積んで運ぶ運送業者をいう。琵琶湖の湊から京へ物資を運ぶ彼らは、街道の情報に通じ、いざとなれば数百が一夜で集まる足を持っていた。この時代、一揆の火が最初に点くのは、たいてい彼らのところであった。
正史では、この一揆が数万に膨れ上がって洛中を占拠し、土倉——質屋にして金貸しである——を片端から襲い、閏九月、幕府に徳政令を出させることになる。借財を帳消しにせよという要求に、天下の幕府が屈したのである。日本史上、民衆が中央政権を屈服させた最初の事件であった。
その最初の火が、この世界でも点いた。
報せを受けたとき、義教は室町第で書見をしていた。書を閉じもせずに言ったという。
「坂本を焼け」
側近が耳を疑った。
「馬借の巣じゃ。一揆の兵糧も馬も、あそこから出る。人が集まる前に、集まる場所を潰せ」
「されど坂本は、山門の門前にて——」
「知っておる」
義教は書に目を戻した。
「わしが座主であった山じゃ」
この人と比叡山との因縁は、深い。永享年間、山門の衆徒が強訴に及んだとき、義教はこれを一歩も譲らずに締め上げた。追い詰められた山の使僧たちは、根本中堂に立て籠もって火を放ち、焼身して抗議した。仏に仕えた男が、仏の山を焼かせたのである。
義教にとって、神仏は自分を選んだ後ろ盾であって、自分の上に立つ何ものかではなかった。くじを引いたのは八幡神である。神が選んだ以上、神は自分の側にいる。ならば、神に仕える者どもが自分に逆らうのは、僧の分際の思い上がりにすぎない——という理屈になる。
坂本は焼かれた。一揆は膨れ上がる前に散った。
この年、日本に徳政令は出ていない。
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九月、義教は畠山持国を召した。
余談を、ひとつだけ許されたい。おそらくこの物語で最も地味で、最も重大な余談である。
畠山家は幕府三管領の一。その当主であった持国を、義教はこの年の春、強引に退けた。赤松邸の宴の、わずか数か月前である。家督は弟の持永に移され、持国は隠棲を余儀なくされた。理由は、例によって示されなかった。
そして正史の世界では——義教が死んだ数か月後、この持国が復権する。潰されてまだ一年も経っていない男が、将軍の死を聞くや起ち上がり、弟を追って家督を奪い返した。それだけの牙を、隠棲の庵で研いでいたのである。
以後、畠山家は持国の子をめぐって真っ二つに割れ、その分裂が細川と山名の対立に接ぎ木され、応仁元年、京は焼ける。
つまり、応仁の乱の火種のひとつは、義教が春に押さえつけたものが、夏の義教の死によって、そのまま跳ね返ったものであった。
その持国が、隠棲先から召し出され、白洲に座らされている。
義教は、簀子の上から見下ろして言った。
「そなた、この夏、都におったそうな」
持国は平伏した。
「赤松の宴の日、そなたを召さなんだのは、なぜだと思う」
「……存じませぬ」
「わしが、そなたを嫌うておるからじゃ」
義教は言った。
「じゃが、そなたを殺さなんだのも、わしじゃ。覚えておけ。……この先、そなたがわしを恨んで何かを企てたとして、それはわしがそなたを生かしたゆえに起きることじゃ。わしはそれを承知で、生かしておる」
持国は、顔を上げた。
初めて、この将軍の顔を正面から見た。
「なぜ、にございましょう」
「面白いからよ」
義教は笑わなかった。笑わずに、そう言った。
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その夜、室町第で猿楽が催された。
演者は観世三郎元重、音阿弥である。あの日、赤松邸の庭で面を着けたまま立ち尽くしていた男が、二か月ののち、何事もなかったように将軍の前で舞っている。
演目は『実盛』であった。老武者が、白髪を黒く染めて戦場に出、討たれて首を洗われる話である。
義教は、じっと見ていた。
——世阿弥は、まだ佐渡におるか。
と、思っている。父・義満が寵した老猿楽師を、義教は将軍となるや舞台から遠ざけ、仙洞への出入りを止め、ついには七十を過ぎたその男を、佐渡へ流した。理由は、これも示さなかった。
流されて七年になる。生きていれば、七十九。
じつを言えば、この老人がその後どうなったのかは、今日に至るまで誰も知らない。佐渡で果てたとも、許されて都に帰ったとも伝えられるが、確かな史料は一片もない。日本の芸能を作り変えた男の最期は、記録の外にある。
理由なら、ある。
あの老人は、父を見ていた。父が何を欲し、何に手を伸ばし、何を得られずに死んだかを、間近で見た目である。あの目は、わしを見るとき、必ず父と比べる。
比べられることに、わしは耐えられぬ。
舞台の上で、老武者が討たれた。
首を洗う所作を、音阿弥は、恐ろしく静かに舞った。
義教は盃を置いた。座は、しんとしていた。誰ひとり、酔っていなかった。この一年、この座で本当に酔った者は、ひとりもいない。
——治まっておる。
と、義教は思った。
赤松は絶えた。山名は但馬に押し込めた。一揆は散り、山は黙り、畠山は白洲に伏した。誰も逆らわぬ。誰も、逆らえぬ。
思えば、父・義満は、この国の王になろうとして果たせなかったと聞く。祖父は雅と儀式でそれを目指した。わしは違う。わしは、怖れで目指す。
怖れは、裏切らぬ。人の情は変わるが、怖れは変わらぬ。
そこまで考えて、義教はふと、盃の中の暗がりを見た。
——では、この座で。
わしを怖れておらぬ者は、いま、何人おる。
答えは、すぐに出た。
ひとりもいない。
義教は、その答えに満足した。満足して、そして、なぜか背筋が寒くなった。
なぜかは、この夜の義教には、わからなかった。




