嘉吉元年六月二十四日
くじ引き、という話から始めねばならない。
正長元年正月、四代将軍・足利義持が危篤に陥った。この人に、跡を継ぐべき男子はなかった。宿老たちが枕頭に集まり、後継の指名を乞うと、義持は拒んだ。わしが指しても、汝らが支持せねば意味があるまい、と言ったと伝えられる。困じ果てた管領畠山満家らが考え出したのが、くじであった。
候補は、義持の弟四人。いずれも仏門にある。石清水八幡宮の神前でくじが引かれ、当たったのは青蓮院門跡・義円であった。
このとき義円、三十五歳。天台座主にまで昇りつめた、本物の高僧である。十歳で寺に入って以来、経典と儀軌の中で生きてきた男が、ある朝とつぜん、武家の棟梁にせよと告げられた。還俗して髪が伸びそろうのを待ち、義宣と名乗ったが、ほどなく改名した。よしのぶは「世を忍ぶ」に通じて縁起が悪い、というのである。
新しい名を、義教といった。
余談ながら、この改名の逸話を、筆者は好んでいる。世を忍ぶ、を嫌った男。つまりこの人は最初から、忍んで生きる気など、まったくなかったのである。
そしてもうひとつ。義教は、くじを恥じなかった。くじは神慮である。石清水の八幡神——武家の守り神が、数ある兄弟の中から、おのれを指したのだ。神に選ばれた将軍。この確信が、以後十三年の統治の、背骨になった。
神に選ばれた者は、人に遠慮する理由がない。
---
万人恐怖、という言葉がある。
義教の治世を評して、伏見宮貞成親王がその日記『看聞日記』に記した語である。万人恐怖、言うなかれ、言うなかれ——恐ろしくて、これ以上は書けぬ、と皇族が日記に書いた。
逸話には事欠かない。説教が下手だといって僧を罰した。給仕の途中で笑ったといって女房を折檻した。闘鶏が流行れば洛中の鶏をことごとく追放させた。庭の梅の枝を折った者が咎を受けた。些細な粗相で所領を削られた者は、数えきれない。
暴君の狂気、と呼ぶのはたやすい。だが義教の恐怖政治には、狂気と呼ぶにはあまりに整いすぎた、一貫した設計があった。
この人が寺から降りてきたとき、幕府というものは、守護大名たちの寄合所帯にすぎなかった。父・義満が築いた将軍の権威は、兄・義持の代に、合議の名の下で薄められていた。義教はそれを、一代で巻き戻しにかかった。有力者の家督相続に介入し、おのれの息のかかった者を立てる。逆らう気配のある者は、潰す。鎌倉公方・足利持氏が従わぬと見るや、永享の乱でこれを攻め滅ぼし、自害に追い込んだ。昨年には、大和の陣中にあった一色義貫と土岐持頼を、何の沙汰もなく謀殺した。討たせたのは若狭の武田である。理由は、示されなかった。
理由を示さぬこと。それ自体が、統治であった。いつ、誰が、なぜ潰されるか分からぬ。分からぬから、誰も動けぬ。
皮肉なことも書いておく。この元・天台座主は、古巣の比叡山と激しく争った。山門が強訴に及べば締め上げ、追い詰められた山の使僧たちが根本中堂に火を放って焼身する惨事まで起きている。仏に仕えた男が、仏の山を焼かせた。義教にとって、神仏はおのれを選んだ後ろ盾であって、おのれの上に立つ何かではなかったのであろう。
---
さて、赤松満祐である。
播磨・備前・美作三カ国の守護。侍所所司を務める四職の家柄で、背が低く、都の口さがない連中は三尺入道と呼んだ。歳は六十一。足利の草創以来の功臣の家である。
その赤松の家中に、この一、二年、暗い風説が流れつづけていた。御所様は、庶流の赤松貞村を寵愛しておられる。いずれ惣領家の所領を削り、貞村に与えるおつもりである——。
風説の真偽は、今日でも分からない。だが満祐の目には、前例が見えていた。一色義貫。土岐持頼。理由なく、沙汰なく、陣中で殺された二人である。次は誰か。都の犬でも知っている、と人々は囁いた。
殺られる前に、殺る。
六十一歳の三尺入道が腹の底で下したこの決断を、狂気と呼ぶことは、筆者にはできない。義教の統治の論理を突き詰めれば、追い詰められた者の合理は、これしかないのである。恐怖による専制の完成一歩手前で、恐怖そのものが刃になって専制者に還ってくる。
その刃が振り下ろされたのが、嘉吉元年六月二十四日であった。
---
名目は、祝勝の宴である。
関東の残党を討った結城合戦の祝いに、加えて——ここが史実の妙なのだが——当邸の池に鴨の子が群れをなして育っております、御覧に入れたく、という趣向であった。天下の将軍を誘い出した口実が、鴨の雛なのである。
西洞院二条の赤松邸。庭に舞台が組まれ、猿楽が演じられていた。
演じていたのは、観世三郎元重。世に音阿弥と呼ばれる名手である。
ここにも、暗い符合がある。音阿弥は世阿弥の甥にあたる。義教は将軍となるや、父義満が寵した世阿弥父子を舞台から遠ざけ、仙洞への出入りを止め、ついには老いた世阿弥を佐渡へ流した。代わって引き立てたのが、この音阿弥であった。父の寵した花を折り、おのれの花を立てる。芸の座ひとつにも、この人のやり方は徹底している。
義教は上座にあって、盃を口に運んでいた。
——静かすぎる。
と、思っている。膳は豪勢で、酒は上等だった。満祐は末座で白髪頭を低くしている。何もかも、整いすぎている。
義教は舞台を見なかった。座を見ていた。それが習いである。寺で人の顔色を読んで生き、還俗してからは人の心底を疑って生きた。人は舞台に見入るとき、顔から嘘が剥がれる。笑う者。退屈する者。そして——舞台を見ていない者。
満祐の嫡男、教康。舞台を見ていない。盃も進んでいない。膝の上の手が、白い。
そのとき、庭の奥で音がした。
馬である。厩の馬が放たれ、庭を駆けた。人々の目が、いっせいにそちらへ流れる。
後段の騒ぎで人の目を引き、その隙に、と絵図を描いた者は、しかし相手を間違えていた。座にあるのは、十三年間、万人を疑うことでのみ生きてきた男である。義教は目を流さなかった。流さず、胸の内で数えた。猿楽の最中。厩の騒ぎ。人の目は庭へ。——ならば刃は、逆から来る。
背後の障子が、倒れた。
甲冑の武者が雪崩れ込んできた。白刃が、一瞬前まで義教の首のあった宙を薙いだ。義教は横ざまに転がっている。還俗して十三年、宴の座で背後に壁を負わず、逃れ道を測らずに座ったことは一度もない。
「御所を討ち奉れッ」
満祐の声だった。三尺入道が、立って吠えていた。
座は地獄になった。太刀を帯びぬ宴席である。山名熙貴が斬り伏せられ、京極高数が刺客に組みついたまま突き殺された。大内持世が素手で武者にぶつかり、細川持春は腕を落とされながらなお義教の前に立ちふさがった。——彼らの名は、書き残しておく値打ちがある。この日、逃げなかった数少ない者たちである。
管領細川持之は、転げるように庭へ落ち、そのまま姿を消した。
義教は、持春の血飛沫の陰を抜け、倒れた武者の太刀を拾って庭へ跳んだ。追いすがる刃が法体の名残りの肩を裂いたが、構わなかった。池の端で振り向きざま、追ってきた一人の膝を薙ぐ。そこへようやく、門外の供廻り——走衆が抜刀して雪崩れ込んできた。
赤松勢は、潮の引くように邸の奥へ退いた。やがて邸に火の手が上がり、満祐父子は一族郎党を率い、燃える屋敷を捨てて都を出た。西へ。播磨へ。
白昼、御所に刃を向けた者の一党が、堂々と隊列を組んで京を退去してゆく。あまりのことに、誰も追わなかった。
---
ここで、筆者は白状しなければならない。
史実の義教は、この日、死ぬ。障子が倒れた次の瞬間、安積行秀の一刀で首を打たれた。将軍の首は赤松勢が槍先に掲げて持ち去り、幕府は狼狽のあまり、数日、追討の兵すら出せなかった。貞成親王は日記に書いている。自業自得、力なきことか。将軍かくのごとき犬死、古来その例を聞かず——と。
万人恐怖の独裁者は、鴨の子を見に行って、犬死にした。それが正史である。
その義教が、この物語では、死なない。
---
血の海の中に、義教は立っていた。
肩から血が垂れ、焼け始めた邸の火が、その顔を赤く照らしていた。逃げた大名たちが、公卿たちが、恐る恐る戻ってくる。土器のような顔色で、口々に御運の強さを言祝ぐ。先ほど我先に逃げた、その口で。
義教はそれを黙って見ていた。ひとりひとり、顔を見た。誰が逃げ、誰が戻らず、誰が今になって忠義を言うか。すべて、見た。
「持之」
庭の隅で見つけ出された管領が、引き据えられるように前へ出た。
「はっ……」
「赤松は根切りにせよ。播磨も、備前も、美作も。一族、郎党、女子供に至るまでだ」
「……御意」
「それから」
義教は、血の垂れる太刀を提げたまま、宴の残骸を見渡した。倒れた膳。割れた盃。焼け落ちてゆく舞台。
「今日この座にいた者の名を、すべて書き出せ。……逃げた者の名も、だ」
炎の照り返す庭の隅に、音阿弥が、面を着けたまま立ち尽くしていた。面の下の顔は、誰にも見えなかった。




