狂ってるの、分かってるの
私がお兄ちゃんを、綾人という一人の男性を「狂おしいほどに」愛するようになったのは、いつからだろうか。
物心ついた時から、お兄ちゃんは私のヒーローだった。優しくて、温かくて、いつも私の前を歩いてくれる自慢の兄。けれど、ただの「大好きなお兄ちゃん」への感情が、決して譲れない「重黒い執着」へと決定的に変わった日がある。
私が小学二年生、お兄ちゃんが小学三年生の夏休みのことだ。
家族で行ったキャンプ場で、私は一人で綺麗な蝶を追いかけているうちに、深い森の中で迷子になってしまった。
日が暮れて、辺りはあっという間に真っ暗になった。突然雷雨が降り始めた。慌てて雨を避けようとパニックになった私は斜面に足を滑らせ、崖下の深い茂みへと転落してしまったのだ。
足には激痛が走り、身動きが取れない。冷たい雨が容赦なく体温を奪っていく。
暗闇と恐怖、そして痛みに震えながら「お兄ちゃん……っ、助けて……」と声にならない声で泣きじゃくっていた、その時だった。
「結衣っ!!」
雷鳴を引き裂くように、聞き慣れた声が響いた。
見上げると、斜面を滑り降りてくるお兄ちゃんの姿があった。大人たちより先に、お兄ちゃんが真っ暗な森の中を必死に探し回って、私を見つけてくれたのだ。
「結衣、怪我は!? 痛いところはないか!?」
駆け寄ってきたお兄ちゃんの姿を見て、私は息を呑んだ。
半袖から伸びる腕も、頬も、木の枝や茨で切れたのか傷だらけで、血が滲んでいた。泥だらけになりながら私を抱き起こすその手は、冷たい雨に濡れて小刻みに震えているのに、私を包み込む力だけはとても強かった。
「あ、あし……っ、痛いよぉ……」
「大丈夫だ。お兄ちゃんが来たから、もう大丈夫だからな」
お兄ちゃんは自分の上着を脱ぐと、雨に濡れて震える私にしっかりと着せ、小さな洞穴のような岩陰へと私を抱えて移動した。
そして、冷え切った私の体を、自分の体温で温めるように強く、強く抱きしめたのだ。
「お兄ちゃん、血が……」
「こんなの平気だよ。結衣の方が痛かったよな。ごめんな、一人にして」
自分だって寒くて、痛くて、怖いはずなのに。
お兄ちゃんは私を安心させるように、暗闇の中で何度も何度も私の頭を撫でてくれた。
「怖くないよ、結衣。お兄ちゃんが絶対に守ってやるからな。……何があっても、俺が結衣を守るから」
その時だった。
泥と血の匂いが混じった、お兄ちゃんの匂い。私を守るために傷つき、熱を分け与えてくれるその腕の力強さ。
恐怖で凍えていた私の心に、得体の知れない熱さがまとわりついたのは
(ああ……お兄ちゃんは、私のためにこんなに傷ついてくれるんだ)
その瞬間カチリと音を立てて私は狂った。
この温もりを、この自己犠牲を、この絶対的な安心感を、他の誰にも渡したくない。私のためだけに傷つき、私のためだけに笑い、私のためだけに生きてほしい。
ただの兄妹としての「好き」が、ドロドロとした重い「独占欲」へと変貌した瞬間だった。
――しかし、成長するにつれて、私は残酷な現実に直面することになる。
『血縁』という、どう足掻いても越えられない分厚い壁だ。
中学生になり、自分が抱いている感情が、兄に対するものではなく「一人の男に対するどうしようもない恋心」なのだとはっきりと自覚した。
けれど、私たちは兄妹だ。結婚はおろか、恋人にすらなれない。
いつかお兄ちゃんは、別の女の人を好きになる。
私以外の女の人に優しく微笑みかけ、私以外の女の人を抱きしめ、私以外の女の人のために傷つくようになる。
そう想像しただけで、心臓が握り潰されるほど苦しくて、頭がおかしくなりそうだった。
だから、私はお兄ちゃんを避けるようになった。
「うざい。話しかけないで」
氷のような言葉をぶつけて、心を殺した。お兄ちゃんの優しい顔を見るたびに、叶わない想いが暴走して、狂ってしまいそうだったから。
嫌いになんてなれるはずがない。愛しすぎて、欲しくて欲しくてたまらないからこそ、遠ざけるしかなかったのだ。絶望の中で、一生この叶わない恋心を隠して生きていくのだと覚悟を決めていた。
なのに。
あの日、両親から告げられた『血が繋がっていない』という事実。
――お兄ちゃん、知ってる?
あの時、私が顔を覆って泣き崩れたのは、ショックだったからじゃないの。
神様がくれた奇跡に、歓喜の震えが止まらなかっただけ。
私たちは、他人だった。
もう、気持ちを隠さなくていい。お兄ちゃんを、正々堂々と私のものにしていいんだ。
「……ふふっ」
私はベッドの上で、あの日お兄ちゃんが着せてくれた上着(ずっと捨てられずに、毎晩抱きしめて寝ていたものだ)に顔を埋める。
お兄ちゃんは鈍感だから、私がただの「ブラコンの妹」に戻ったくらいにしか思ってないみたいだけど。
もう、遅いよ。
私はあの日からずっと、お兄ちゃんに狂ってるんだから。
誰にも渡さない。どんな手を使ってでも。
お兄ちゃんが、私のためだけに生きるようになるその日まで――。
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