愛は国境を越える
限界まで張り詰めていた綾人の日常は、ある日、全く別の方向から唐突な終わり(始まり)を迎えた。
出場した学生チェロコンクール。
綾人は技術の未熟さゆえに入賞こそ逃したものの、その音色には彼の持ち前の優しさと、ヤンデレたちに揉まれて培われた「異常なまでの生命力と情念」が宿っていた。
その荒削りだが魂を揺さぶる演奏に、一人の初老の男性が目を留めた。
彼は、海外の著名なクラシック楽団でコンサートマスターを務める人物であり――そして、綾人の『本当の父親』の親友だったのだ。
「君の音には、かつての親友と同じ、燃えるような血が通っている。……私の元で、本気でチェロを学んでみないか?」
その誘いは、今の狂った日常から逃げ出すための単なる口実ではなかった。
綾人の奥底に眠っていた「音楽への純粋な情熱」に、強烈な火をつけたのだ。
――数日後。成田空港の出発ロビー。
大きなチェロケースを背負った綾人の目の前には、結衣、琴音、凛、志乃の四人が並んでいた。
「……急に呼び出してごめん。俺、海外にチェロの留学に行くことにした」
その言葉に、四人の顔色が一瞬にして変わる。
いつものように「行かせない」と拘束しようとする空気が張り詰めた瞬間、綾人はそれを制するように、誰よりも真剣な、そして悲痛な瞳で四人を見つめ返した。
「みんなの愛情は、正直言って重すぎた。俺の心はすり減って、何度も限界を超えそうになったよ」
綾人の素直すぎる吐露に、四人は息を呑む。
「……でも」
綾人は一つ深呼吸をして、今までずっと逃げ続けてきた『自分の本当の心』を口にした。
「そんな異常な日々の本質にある、みんなの純粋な優しさに……俺は、本気で惹かれていたんだ。みんなのことを愛していた。……いや、今でも愛している」
「「「「……っ!!」」」」
四人の目から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出した。
「愛しているからこそ、今は離れなきゃいけないんだ。俺は、自分自身の足で立って、本気でチェロと向き合いたい。みんなも、俺に依存するだけじゃない、自分自身の人生を生きてほしい。……身勝手なのは分かってる。でも、これが俺の決断だ」
ヤンデレたちにとって「愛する人からの拒絶」は発狂のトリガーだが、綾人の言葉は違った。
それは拒絶ではなく、彼女たちの魂を根底から肯定する、純度100%の『愛の告白』だったからだ。
狂的に綾人を愛している彼女たちだが、その根底にあるのは「綾人の幸せを願う優しい心」である。本当に愛する男が、涙を浮かべて自分の夢と愛を語ってくれた。その真摯な想いを踏みにじることなど、彼女たちにできるはずがなかった。
「……っ、お兄ちゃん……ずるいよぉ……っ! そんなこと言われたら、引き止められないじゃない……っ!」
結衣が顔を覆って泣き崩れる。
「……わかったわ、綾人。あなたの夢、心から応援する。だから……立派になって帰ってきてね」
琴音が、涙を堪えながら美しく微笑む。
「センパイ……待ってるッス。センパイの本当の音、いつか絶対に聴かせてくださいね……っ!」
凛が、目を真っ赤に腫らしながら深く一礼する。
「……教師として、そして一人の女として、あなたのその決断を誇りに思うわ。行ってらっしゃい、水瀬くん」
志乃が、母性すら感じさせる優しい顔で綾人の背中を押した。
「みんな……本当に、ありがとう」
綾人は深く頭を下げ、搭乗ゲートへと歩き出す。
振り返ることはなかった。振り返れば、彼女たちへの愛しさと未練で、決意が揺らいでしまうと分かっていたから。
四人の美しい涙に見送られながら、水瀬綾人はついに、ヤンデレたちの狂気から(そして自分自身の甘えから)巣立ち、遠い異国の空へと旅立っていった。
美しい別れ。
それぞれの成長。
そして、音楽を通じた自己実現への道
「ふぅ……」
綾人は、古都の美しい街並みが見渡せるアパートメントの自室で、チェロのメンテナンスを終えて一息ついていた。
「言葉の壁は大変だけど、音楽に国境はないって本当だな。師匠の教えはキツいけど、毎日が充実してる……」
ヤンデレの影に怯えることのない、静かで、平穏で、ただ音楽だけに没頭できる日々。
綾人は窓の外の青空を見上げ、日本に残してきた彼女たちのことをふと思い出した。
(みんな、今頃元気にしてるかな。俺の言葉を受け止めて、きっと前を向いて歩いてくれてるはずだ……)
美しい思い出に浸っていた、その時だった。
『ピンポーン♪』
アパートのドアチャイムが、軽快な音を立てた。
(ん? 師匠かな。それとも隣の部屋の人……?)
ガチャリ。
綾人が無防備にドアを開けた瞬間。
「あーっ! お兄ちゃーん!! やっと会えたぁぁぁっ!!」
「ぐふぁっ!?」
ものすごい勢いで廊下から、見慣れた服を着た結衣が飛びついてきた。
「ゆ、結衣!? な、なんでお前がここに……!」
「えへへっ! お兄ちゃんが『自分の足で立て』って言ってくれたから、私、自立するためにこの街の語学学校に留学(ホームステイ先:綾人の部屋)することにしたのっ!!」
「はあぁっ!?」
「結衣ちゃん、抜け駆けは感心しないわよ」
ドンッ、と結衣の背後からスーツケースを押して現れたのは、優雅なワンピース姿の琴音だった。
「こ、琴音まで!? お前、高校はどうしたんだよ!」
「父にお願いして、ヨーロッパ支社に転勤してもらったの。私は現地の高校に編入よ。綾人が外国の食事で栄養を偏らせないように、専属のシェフとしてね♡」
「甘いッスよ先輩たち。高校の編入なんてまどろっこしいことやってられないッス」
アパートの階段の窓枠に座り、チェロケースを背負ってニヤリと笑っているのは凛だった。
「瀬戸さん……っ! 嘘だろ、お前まで!?」
「先輩の告白聞いて、私のチェロも完全に覚醒したッス。先輩と同じ音楽院に、特待生で飛び級入学決めてきたッスよ!明日からまた一緒ッスね、センパイ♡」
「な、なんだよこれ……みんな、日本で前を向いて歩き出したんじゃなかったのかよ……!」
綾人が白目を剥きかけたその時、隣の部屋(空き部屋だったはず)のドアがガチャリと開いた。
「あら、水瀬くん。奇遇ね」
そこには、バスローブ姿でワイングラスを傾ける志乃が立っていた。
「ひ、柊先生ぇぇぇっ!? 先生は仕事があるでしょ!?」
「ふふっ。実はね、海外の教育機関の視察という名目で、一年間の長期休職を取らせてもらったの。ついでに、治安が心配だったからこの隣の部屋を買い取っておいたわ。いつでも『夜の課外授業』ができるようにね♡」
「」
綾人の口から、魂のようなものが抜け出ていく。
そう、彼は完全に勘違いをしていたのだ。
彼女たちは、綾人の「愛している」という言葉に感銘を受け、彼の夢を尊重し、素直に見送ってくれた。それは紛れもない事実であり、彼女たちの真実の愛だ。
しかし――「愛しているから、物理的に離れて暮らす」などという理屈が、ヤンデレに通じるはずがなかったのだ。
『お兄ちゃん(綾人/センパイ/水瀬くん)が私のことを愛してくれている!!』
『じゃあ、どこに住もうが何をしようが、ずっと一緒にいるのが当然だよね(ッス/わね)!!』
彼が与えてしまった極上の「愛の確証」は、ヤンデレたちのストッパーを外すどころか、国境すらやすやすと飛び越える無尽蔵の行動力へと変換されてしまったのである。
「さあ、お兄ちゃん! 荷解き手伝って! 今日から同じベッドだよっ♡」
「綾人、今夜は日本から持ってきたすっぽんで和食にするわね」
「センパイ、防音室で思いっきりチェロ(と私)を弾き鳴らすッスよ♡」
「水瀬くん、異国の地での大人の付き合い方、私がじっくり教えてあげるわ」
ヨーロッパの美しい空の下。
チェロの音色よりも先に、綾人の絶望の叫び声が街角に響き渡る。
「結局、何一つ変わらないじゃ無いか〜!!」
世界を股にかけた、逃げられない男と愛が重すぎる四人の女たちによるグローバルヤンデレが幕を開けるのだった。
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