法律あれば対策あり(中国の諺)
不可侵条約が締結されてから数日後。
綾人の甘すぎる見通しをあざ笑うかのように、最初に抜け穴攻撃を仕掛けてきたのは——最も理性的で、最も狡猾な幼馴染、橘琴音だった。
休日の午後。綾人の自室。
「綾人、勉強の調子はどう? 麦茶、持ってきたわよ。未開封のペットボトルだから安心してね」
コトン、と机の上に置かれたのは、スーパーで買ってきたままの新品のペットボトルだった。
服装も、体のラインを隠すようなダボッとした厚手のタートルネックセーターに、足首まであるロングスカート。露出度はゼロである。
さらに琴音は、綾人の座るデスクから『ピッタリ1.5メートル』離れたベッドの端にちょこんと座り、膝の上で両手を揃えていた。
(……すごい。琴音のやつ、完璧にルールを守ってくれてる)
綾人は感動すら覚えていた。怪しい手作り料理もなければ、過激なスキンシップもない。
やはり琴音は、話せばわかってくれる一番まともな幼馴染なのだと。そう油断しきった綾人は、再び参考書に目を落とした。
しかし、数十分後。
難解な数学の問題にぶつかり、綾人がシャーペンの手を止めて唸っていると、1.5メートル先から琴音が優しく声をかけてきた。
「綾人、手が止まってるね。そこ、昨日私が解いたところだから教えようか?」
「えっ、本当? 助かる! この方程式の展開がどうしても合わなくて……」
「いいわよ。……あ、でも」
立ち上がりかけた琴音は、ハッとしたように足を止め、シュンと悲しそうに眉を下げた。
「ごめんなさい、綾人。私、ノートを覗き込むためには『半径1メートル以内』に入らなきゃいけないわ。無断接近は禁止ルールだから……教えられない」
「あ……」
「私がルールを破ったら、綾人が困っちゃうものね。……ごめんなさい。私、幼馴染なのに、綾人の勉強の役にも立てないんだわ……」
俯いて肩を震わせる琴音。そのいじらしい姿に、綾人の持ち前のお人好し精神が激しく揺さぶられた。
「そ、そんなことないって! 琴音にはいつも助けてもらってるし! ……そうだ、『無断』接近がダメなだけだから、俺が『許可』すればいいんだよ!」
「……え? でも……」
「いいからいいから! ほら、こっち来て教えてくれよ。俺が許可するからさ!」
「——ふふっ。そう? 綾人がそこまで言うなら、仕方ないわね」
その瞬間。
琴音の瞳の奥で、獲物を罠にハメた肉食獣のような、ギラリとした黒い光が瞬いたことに、鈍感な綾人は気づけなかった。
「お邪魔するわね、綾人」
琴音は綾人の背後に立つと、ノートを覗き込むために、綾人の肩越しにぐっと身を乗り出してきた。
ムニュッ。
「なっ……!?」
綾人の背中から肩にかけて、信じられないほど柔らかく、そして暴力的なほどの質量を持った『二つの膨らみ』が、ドスッと押し付けられた。
「こ、琴音!? あ、当たって……っ!」
「あら、何が? 私、ルール通り『露出のない厚手のセーター』を着ているわよ? だから、直接肌は触れ合っていないわ。ルール違反じゃないわよね?」
「そ、それはそうだけど、感触がモロに……!」
タートルネックセーターという「絶対に見えない」状況が、かえって綾人の想像力を限界まで掻き立てる。
さらに琴音は、綾人の背中に全体重を預けるように密着したまま、首筋に顔を寄せ、耳元で甘く、ねっとりとした声で囁いた。
「綾人は優しいわね。私を、自分からこの『1メートル以内』に招き入れてくれるなんて」
「あ、あの、琴音さん……問題、教えてくれるんじゃ……」
「ええ。でも綾人……あなた、『接近の許可』は出してくれたけど、『いつまで近くにいていいかは指定しなかったわよね?」
「えっ……」
「だから私、綾人が『もう離れて』って言うまで、ずっとこうしているわ。……綾人、私を突き放すの? こんなに綾人の力になりたいって思ってる幼馴染を?」
逃げ道を完璧に塞がれた理論武装。
そして、背中から伝わる圧倒的な女性の柔らかさと、耳元をくすぐる吐息、フローラルな甘い香り。
健康な男子高校生である綾人の理性は、音を立ててメルトダウンを始めていた。
(だ、ダメだ……っ! 俺が自分で許可を出した手前、今更離れろなんて言えない……! しかも服を着てるからルール違反じゃない……完全な合法アプローチ……っ!)
「ねえ、綾人……。私と綾人の距離、もうゼロよ。このまま、もっと……」
琴音の艶やかな唇が、綾人の耳たぶを甘噛みしようとした、まさにその時。
バンッ!!!
綾人の部屋のドアが、蹴破られるような勢いで開け放たれた。
「——そこまでよ、泥棒猫!!」
「ちっ……」
琴音が舌打ちをして振り返ると、そこには『レーザー距離計』を手にした結衣と、なぜか窓枠にぶら下がって部屋を覗き込んでいる凛の姿があった。
「お兄ちゃん! 今、琴音先輩の胸部がお兄ちゃんの背中に接触していた距離と時間を計測したわ! 許可された『勉強を教える時間と距離』の範疇を明らかに超えてるから、ルール違反よ!」
「つーかマジで橘先輩、やることがセコいッス! 勉強教えるフリして発情してるだけじゃないスか! ズルッ!」
「あ、あんたたち……せっかく私が綾人を合法的に美味しくいただこうとしていたのに……!」
部屋の中で、再び三人のヤンデレによるバチバチの殺気が火花を散らし始める。
もはや、テスト勉強どころではない。
(……俺の作った絶対不可侵条約……全く意味がないどころか、あいつらの手口を巧妙に、そして過激に進化させただけじゃないか……っ!!)
限界を迎えた理性を抱えながら、綾人は机に突っ伏して、声にならない悲鳴を上げるしかなかった。
ヤンデレヒロインたちの「ズルい抜け穴アプローチ合戦」は、まだ始まったばかりである。
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