泡沫はあえなく消える
「先輩、今日の放課後も空き教室でチェロ教えてほしいッス。私、どうしてもあのフレーズが上手く弾けなくて」
昼休みの廊下。瀬戸凛は綾人の腕にまとわりついていた。
「わかったよ。じゃあ放課後、いつもの教室で――」
綾人がそう答えようとした、その時だった。
コトン、と。
綾人が上履きに履き替えようと開けた下駄箱から、淡いピンク色の封筒が床に落ちた。
「……ん? なんだこれ」
綾人が拾い上げると、そこには可愛らしい丸文字で『水瀬綾人くんへ。今日の放課後、体育館裏に来てください。 2年C組 佐々木』と書かれていた。
「佐々木さん……? 選択授業が一緒の大人しい子だっけ。なんだろう、何か悩み事の相談かな?」
首を傾げる鈍感な綾人の背後で、空気が、ピタリと止まった。
「……へぇ。呼び出し、ですか」
「佐々木さん……あの子ね」
「マジで身の程知らずッスね……」
背後に立つ結衣、琴音、そして凛。
先ほどまで綾人の隣のポジションを巡ってバチバチと火花を散らしていた三人の少女から、一切の表情が消え失せていた。
その直後、「あ、水瀬! ちょっと職員室まで手伝いに来てくれ!」と通りかかった担任の教師に呼ばれ、綾人は「あ、はい! 今行きます! ごめん三人とも、ちょっと行ってくる!」と駆け出していった。
廊下に残されたのは、ピンク色の手紙と、三人のヤンデレヒロイン。
「…………」
数秒の重い沈黙の後。
結衣、琴音、凛の三人は、ゆっくりと顔を見合わせた。互いを殺したいほど憎み合っている彼女たちだが、今この瞬間だけは、恐ろしいほどに思考が完全に一致していた。
『泥棒猫同士で争っている場合じゃない。まずは、余計な外から来た害虫を駆除する』と。
「……橘先輩。瀬戸さん」
結衣が、絶対零度の声で口を開いた。
「私たちのお兄ちゃんに、どこぞの馬の骨とも知れない女がちょっかいを出そうとしているみたいですが」
「ええ。綾人は優しすぎるから、あんな風に呼び出されたら断りきれずに困ってしまうわ。幼馴染として、私が守ってあげないと」
「マジで腹立つッスね。先輩のあの綺麗な音を聴く資格もない普通の女が、どのツラ下げて先輩の時間を奪おうとしてるんスか」
一時休戦。
標的は、2年C組の佐々木。
放課後。体育館の裏。
人目のつかないその場所で、佐々木は両手で大切そうに手紙を握りしめ、顔を真っ赤にして綾人が来るのを待っていた。
「水瀬くん……来てくれるかな……」
ザッ、と足音が聞こえ、佐々木は弾かれたように顔を上げた。
「水瀬く――」
しかし、そこに立っていたのは、意中の彼ではなかった。
学園一の美少女と名高い、綾人の妹・結衣。
綾人といつも一緒にいる、優等生の幼馴染・琴音。
そして、最近綾人の周りをうろついているボーイッシュな一年生・凛。
普段なら絶対に交わることのない三人が、なぜか揃って、光の宿っていない真っ暗な瞳で自分を見下ろしている。
その異様な気迫に、佐々木は一歩後ずさった。
「あ、あの……水瀬くんの、妹さん……だよね? 水瀬くんは……」
「お兄ちゃんなら、来ませんよ」
結衣が一歩前に出た。その口元には完璧な笑みが張り付いているが、目は全く笑っていなかった。
「佐々木さん、でしたっけ。お兄ちゃんから手紙を見せてもらいました。迷惑なんですけど、って困っていたので、私たちが代わりに断りに来たんです」
「え……めい、わく……?」
「ええ。お兄ちゃんは今、とても忙しいんです。あなたみたいな、特筆するような魅力もない平凡な女の相手をしている暇なんて、1秒たりともないんですよ」
結衣の容赦ない言葉の刃に、佐々木の目から涙が滲む。
そこに、琴音がため息をつきながら冷たく言い放った。
「綾人はね、昔からお人好しなの。だから、あなたみたいに空気の読めない子が急に告白なんてしたら、断るのにも気を遣って疲れてしまうのよ。本当に綾人のことが好きなら、自分の身の丈を理解して、彼の視界に入らないようにするのが礼儀じゃないかしら?」
「うっ、ぐすっ……ごめ、なさい……わたし、そんなつもりじゃ……」
泣き崩れそうになる佐々木。
そこへ、凛がゆっくりと近づき、佐々木の耳元で低く、ドス黒い声で囁いた。
「いいスか。綾人先輩に触れていいのは、先輩のためなら自分の人生ぜんぶ捨てて、地獄の底まで一緒に堕ちる覚悟がある女だけッスよ」
「ヒッ……!?」
「あんたみたいな、ちょっと顔がかっこいいから〜とか、優しくされたから〜程度のペラッペラな感情で近づいていい領域じゃないんスよ。……次に先輩に近づいたら、あんたのその指、一本ずつへし折るッスよ?」
凛の瞳の奥に宿る本気の狂気に触れ、佐々木は恐怖で完全に顔面を蒼白にさせた。
「ひっ……あ、ごめんなさい! ごめんなさいっ!!」
佐々木は手紙をその場に放り投げると、脱兎のごとく泣き叫びながら逃げ出していった。
その背中が完全に見えなくなったのを確認すると、三人はフン、と同時に鼻を鳴らした。
「本当に弱っちい覚悟でしたね。わざわざ三人で来るまでもなかったです」
「そうね。でも、これで綾人の平穏は守られたわ」
「当然ッス。先輩は、特別な人間なんスから」
「おーい! ごめん三人とも、待たせた!!」
そこへ、息を切らした綾人が走ってきた。
「あれ? 佐々木さんは……? もしかして、もう帰っちゃったのかな」
綾人が首を傾げると、結衣、琴音、凛の三人は、先ほどの狂気が嘘のような、とびきり無邪気で可愛らしい笑顔を綾人に向けた。
「うんっ! 佐々木さん、急に急用を思い出したから帰るって言ってたよ、お兄ちゃん!」
「そうみたい。手紙のことも、何か間違いだったみたいでごめんなさいって言ってたわ」
「綾人先輩ってば人が良すぎるッスよ〜! さ、早くチェロの練習行くッス!」
「ええっ、そうだったのか? なんだ、びっくりしたなぁ。まあ、何事もなかったならいっか!」
あっけらかんと笑う鈍感な綾人の両腕に、結衣と凛がすかさず絡みつく。
「ずるいッスよ水瀬先輩! 私も先輩の腕組むッス!」
「ちょっと凛ちゃん、お兄ちゃんから離れて!」
「あなたたち、綾人が歩きにくいじゃない。離れなさい」
綾人の前ではいつものように言い争いを始める三人。
しかし、綾人の死角――背中越しに交わされた三人の視線は、再びバチバチと致死量の殺気を放ち合っていた。
『邪魔者は消えた。――馴れ合いは終わり…さあ続きをしましょうか』
綾人というたった一つの玉座を巡る、ヤンデレたちの狂気のデスゲームが、再び静かに幕を開けた。




