夏祭り
__!!
激しい耳鳴りと、心臓を直接掴まれたような衝撃に弾かれ、僕は目を開けた。
雨の降る東京の路上に僕は一人で立っていた。自分が何者で、どこから来たのか……頭の中には、真っ白な霧がかかっている。
僕の名前はめぐる。
今の僕たちが生きているこの世界は、少し……いや、決定的に「正解」に支配されている。
街を歩けば、至る所に選択肢のノイズが走る。
人々はシステムが導き出した「最も効率的な答え」だけを選び、迷うことを許されない。信号を渡るタイミングから、昼食の献立、果ては誰と話し、何を愛するかまで。
すべては「最適」という名のルールに誘導され、不快な寄り道や無駄な感情は、バグとして消去される。
感情の起伏が消えた、完璧で、死ぬほど静かな世界。
目を覚ました時、そんな世界に、僕は記憶喪失の状態で立っていた。そこからどうしたかって?ある救世主が現れた。
日比野 蓮という男だった。高架下にいた僕を蓮さんが拾ってくれたのだ。
彼は僕にこの豪華なマンションの一室を与え、不自由ない生活をさせてくれている。
彼はエンジニアとして働いているらしい。
「俺の書斎以外なら、どこへ行っても構わない」
そう言って僕を保護してくれているけれど、彼が僕に何を期待しているのかは、まだ分からない。
そして、僕にはもう一つの居場所がある。
眠りに落ちた先にある仮想空間、『リプレイ』。
そこは、現実世界が捨て去った「美しさ」と「無駄」に満ちた場所だ。
綺麗な街が広がり、住民は明るく楽しそうに生活している。最近は屋台のようなものが並んできている。
僕はその世界で、アイという女性にあった。
水色のボブカット、僕と同じくらいの年齢の、少し悲しげで、けれど誰よりも温かい笑顔を向けてくれる人。
名前を忘れた僕に「めぐる」という名をくれた人物だ。
彼女は自分を「この世界の案内人」だと言った。
現実の冷たさに慣れてしまった僕にとって、アイと過ごす時間は、凍えた指先をストーブで温めるような感覚に近い。
そんな彼女に、僕は惹かれている。
わからないことだらけではあるが、平和な生活を送っている。
そんなある日のことだった。
8月16日
リプレイの世界に降り立つと、そこは柔らかな夕闇に包まれていた。
いつもよりずっと空気が浮き足立っている。広場には色とりどりの提灯が吊るされ、遠くから微かに太鼓のような音が響いてくる。
「めぐる、こっちだよ!」
人混みの向こうから、アイが大きく手を振って駆け寄ってきた。
「やっと来たね。待ってたんだから!」
「……ごめん。…なんだか、今日のリプレイはいつもと違うね。みんなすごく楽しそうだけど……何かあるの?」
「 今日はね、夏祭りなんだよ!」
「夏祭り……?」
聞き慣れない言葉に首をかしげる僕に、アイはぱあっと顔を輝かせ、踊るように身振り手振りで教えてくれた。
「夏祭りっていうのはね、浴衣を着て、下駄を鳴らして歩くの。夜店から流れてくるソースの香りと、賑やかな屋台の音。暗闇の中に浮かび上がる提灯の明かりは、もう、まるで魔法みたいなんだから!」
アイは一気にまくしたてると、空を指差してさらに声を弾ませた。
「最後を締めくくるのは、打ち上げ花火! 空いっぱいに綺麗な火薬が打ち上げられるの。いろんな形、色をした花火が、大きな音と一緒に、まるで空に絵を描いたみたいに鮮やかに広がるんだよ!!」
その瞳は、まるで子供のように純粋な光を宿していた。
「行こう、めぐる! まずは着替えなきゃ」
案内された店で、僕は店員さんに手伝ってもらいながら、慣れない浴衣に袖を通した。帯の締め付けが少し窮屈だったけれど、それが「特別な日」の始まりを告げているようで、悪くない気分だった。
僕の方が少し早く着替え終わり、店の外でアイを待つ。
夕風が火照った頬を撫でていく。しばらくして、背後から木の下駄が石畳を叩く、カラン、という高い音が聞こえた。
「――お待たせ。どうかな、似合ってる?」
振り返った瞬間、僕は言葉を失った。
そこにいたのは、淡い水色の生地に白い花が散らされた浴衣を纏った、アイだった。
いつもより少し大人びて見える立ち姿。まとめられた髪から覗く白いうなじ。提灯の淡い光に照らされた彼女は、この世界のどんな景色よりも、ずっと綺麗で、現実感を失うほどに美しかった。
「…………」
「……めぐる? どうしたの、そんなにじっと見て」
アイが少し照れくさそうに首を傾げた。
僕は慌てて視線を逸らし、赤くなった顔を誤魔化すように空を仰いだ。
「あ、いや……その、変じゃないかなって」
「ふふ、変じゃないよ。めぐるも、すごく似合ってる。格好いいよ」
アイは僕の腕をそっと掴むと、「行こう!」と元気よく歩き出した。
夏祭りの会場は、魔法が現実になったような光景だった。
立ち並ぶ屋台からは、香ばしいソースや甘い砂糖の匂いが漂ってくる。
型抜きに熱中する子供たち、お面を被ってはしゃぐ大人たち。
僕たちは金魚すくいに苦戦して笑い転げ、焼きそばを一つの容器から分け合って食べた。
「美味しいね、めぐる!」
「うん。……現実の世界の食べ物より、ずっと味がする気がするよ」
綿菓子を頬張りながら、アイが笑う。
喧騒と熱気、そして隣にいる彼女の体温。
それは、「正解」だけの世界には存在しない、不完全で、けれど最高に幸せな「今」だった。




