観測者の破綻
深夜。豪華なマンションの静寂を、僕の乾いた喉が鳴る小さな音が乱した。
(……水を、飲もう)
裸足の裏に伝わる大理石の床は、凍りつくように冷たい。
暗闇の中、ウォーターサーバーの青い光だけが、深海のようにリビングを照らしている。冷たい水を一気に喉に流し込むと、ようやく自分の意識が「今」という時間に定着していくのが分かった。
(……夏祭りの約束…叶うといいな)
コップを置いた、その時だった。
――ガシャァァン!!
家の奥、廊下の突き当たりから、何かが激しく砕け散るような音が響いた。
心臓が跳ね上がる。
そこは、蓮さんが「絶対に入るな」と警告していた、あの書斎だ。
僕は吸い寄せられるように、音のする方へと足を運んだ。
いつもは固く閉ざされているはずの重厚なドアが、今はわずかに……指一本分ほど、開いている。
「…………っ」
息を止め、その隙間から中を覗き込んだ。
そこには、僕の知っている「完璧な日比野 蓮」はいなかった。
ネクタイは引きちぎるように緩められ、机の上には数えきれないほどのモニターが、狂ったような速度でコードを走らせている。
「……違う。これじゃない」
蓮さんは頭を抱え、デスクに突っ伏していた。
床には、叩きつけられたのであろう硝子のコップが粉々に散らばっている。
「どうして……どうしてだ。今までの俺の行動は間違っていたとでもいうのか?このままじゃ…この世界は…っ」
あんなに冷静だった男が、今はまるで、暗闇で迷子になった子供のように自分を責め続けている。
「……俺のせいだ。俺の選択が、世界を…アイを……壊していく……。……すまない、すまない……」
謝罪。後悔。そして、隠しきれないほどの疲弊。
蓮さんは、自分の書いた「シナリオ」が思い通りに進まないことに、心身を削り取られているようだった。
(世界が壊れる!?それよりもアイって…なんで蓮さんが…)
驚愕で、身体がわずかに震えた。
その時、僕の足が、廊下に置かれていた小さな花瓶に、コツリと当たってしまった。
――静寂が、一瞬で部屋を支配した。
蓮さんの肩が、びくりと跳ねる。
次の瞬間、彼は猛烈な勢いでドアの方を振り返った。
「……誰だ」
その瞳は、絶望に濡れながらも、侵入者を逃さない鋭い光を放っていた。
僕は反射的に、音を立てないよう、影に滑り込むようにしてその場を離れた。
背中を壁に預け、荒い呼吸を殺す。
廊下の奥から、蓮さんのゆっくりとした足音が近づいてくるのが聞こえる。
(……まずい。見つかる……!)
僕は一か八か、自分の部屋のドアを静かに開け、中へと滑り込んだ。
シーツの中に潜り込み、寝たふりをして目を閉じる。
数秒後、廊下を歩く足音が僕の部屋の前で止まった。
ドア越しに、蓮さんの視線を感じる。
彼はしばらくそこに佇んでいたが、やがて重い溜息をつくと、再び奥の書斎へと戻っていった。
「…………」
布団の中で、僕は震える手を見つめた。
蓮さんが言っていた「違う」という言葉。
自分を責めるような、あの悲痛な叫び。
彼は、何を抱えているのだろうか。
考えたけど答えは出なかった。僕は諦めて瞼を閉じた。
翌朝、目が覚めると東京はひどい雨だった。
窓の外には、幾千もの雨粒が完璧な垂直を描いて落ちていく、色彩を失った街が広がっている。
「最適化」されたこの街では、雨の日でさえどこか機械的で、土の匂いも、不規則な風の音もしない。
することもなく、僕はただ、リビングのソファで雨音を聞いていた。
蓮さんは朝早くから書斎にこもったきりで、一度も姿を見せない。
昨夜の物音について尋ねる勇気なんて、僕にはなかった。
(……早く、あそこに行きたい)
現実の重苦しさに耐えかねて、僕は昼過ぎにはベッドに潜り込んだ。
瞼を閉じ、深く、深く、意識を沈めていく。
「……あれ?」
気づいた時、僕はいつもの運河の街に立っていた。
けれど、何かがおかしかった。
街は、これまで見たことがないほど賑わっていた。
空には見たこともないような鮮やかな虹が幾重にも架かり、広場には花びらが舞い踊っている。行き交う人々は誰もが着飾り、楽しげな音楽がどこからか聞こえてくる。
いつも以上に、美しく、完成された世界。
……それなのに。
いつもの待ち合わせ場所。あの壊れた時計台。お気に入りのカフェのテラス。
どこを探しても、アイは見当たらなかった。
僕は街を走り出した。
あんなに目立つ、空の色をした髪の女の子。
この世界の「案内人」であるはずの彼女は忽然と姿を消したのだった。
そして数時間後……時刻2030年の8月17日、深夜4:00をまわった。
目が覚めたら、そこは夜の東京だった。




