表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『リプレイ・コード ―千年の記憶を、君の手首に結ぶまで―』  作者: Camelia
正解の檻にいる、正解のない君へ
8/15

観測者の破綻

深夜。豪華なマンションの静寂を、僕の乾いた喉が鳴る小さな音が乱した。

(……水を、飲もう)

裸足の裏に伝わる大理石の床は、凍りつくように冷たい。

暗闇の中、ウォーターサーバーの青い光だけが、深海のようにリビングを照らしている。冷たい水を一気に喉に流し込むと、ようやく自分の意識が「今」という時間に定着していくのが分かった。

(……夏祭りの約束…叶うといいな)

コップを置いた、その時だった。

――ガシャァァン!!

家の奥、廊下の突き当たりから、何かが激しく砕け散るような音が響いた。

心臓が跳ね上がる。

そこは、蓮さんが「絶対に入るな」と警告していた、あの書斎だ。

僕は吸い寄せられるように、音のする方へと足を運んだ。

いつもは固く閉ざされているはずの重厚なドアが、今はわずかに……指一本分ほど、開いている。

「…………っ」

息を止め、その隙間から中を覗き込んだ。

そこには、僕の知っている「完璧な日比野 蓮」はいなかった。

ネクタイは引きちぎるように緩められ、机の上には数えきれないほどのモニターが、狂ったような速度でコードを走らせている。

「……違う。これじゃない」

蓮さんは頭を抱え、デスクに突っ伏していた。

床には、叩きつけられたのであろう硝子のコップが粉々に散らばっている。

「どうして……どうしてだ。今までの俺の行動は間違っていたとでもいうのか?このままじゃ…この世界は…っ」

あんなに冷静だった男が、今はまるで、暗闇で迷子になった子供のように自分を責め続けている。

「……俺のせいだ。俺の選択が、世界を…アイを……壊していく……。……すまない、すまない……」

謝罪。後悔。そして、隠しきれないほどの疲弊。

蓮さんは、自分の書いた「シナリオ」が思い通りに進まないことに、心身を削り取られているようだった。

(世界が壊れる!?それよりもアイって…なんで蓮さんが…)

驚愕で、身体がわずかに震えた。

その時、僕の足が、廊下に置かれていた小さな花瓶に、コツリと当たってしまった。

――静寂が、一瞬で部屋を支配した。

蓮さんの肩が、びくりと跳ねる。

次の瞬間、彼は猛烈な勢いでドアの方を振り返った。

「……誰だ」

その瞳は、絶望に濡れながらも、侵入者を逃さない鋭い光を放っていた。

僕は反射的に、音を立てないよう、影に滑り込むようにしてその場を離れた。

背中を壁に預け、荒い呼吸を殺す。

廊下の奥から、蓮さんのゆっくりとした足音が近づいてくるのが聞こえる。

(……まずい。見つかる……!)

僕は一か八か、自分の部屋のドアを静かに開け、中へと滑り込んだ。

シーツの中に潜り込み、寝たふりをして目を閉じる。

数秒後、廊下を歩く足音が僕の部屋の前で止まった。

ドア越しに、蓮さんの視線を感じる。

彼はしばらくそこに佇んでいたが、やがて重い溜息をつくと、再び奥の書斎へと戻っていった。

「…………」

布団の中で、僕は震える手を見つめた。

蓮さんが言っていた「違う」という言葉。

自分を責めるような、あの悲痛な叫び。

彼は、何を抱えているのだろうか。

考えたけど答えは出なかった。僕は諦めて瞼を閉じた。

 翌朝、目が覚めると東京はひどい雨だった。

窓の外には、幾千もの雨粒が完璧な垂直を描いて落ちていく、色彩を失った街が広がっている。

「最適化」されたこの街では、雨の日でさえどこか機械的で、土の匂いも、不規則な風の音もしない。

することもなく、僕はただ、リビングのソファで雨音を聞いていた。

蓮さんは朝早くから書斎にこもったきりで、一度も姿を見せない。

昨夜の物音について尋ねる勇気なんて、僕にはなかった。

(……早く、あそこに行きたい)

現実の重苦しさに耐えかねて、僕は昼過ぎにはベッドに潜り込んだ。

瞼を閉じ、深く、深く、意識を沈めていく。

「……あれ?」

気づいた時、僕はいつもの運河の街に立っていた。

けれど、何かがおかしかった。

街は、これまで見たことがないほど賑わっていた。

空には見たこともないような鮮やかな虹が幾重にも架かり、広場には花びらが舞い踊っている。行き交う人々は誰もが着飾り、楽しげな音楽がどこからか聞こえてくる。

いつも以上に、美しく、完成された世界。

……それなのに。

いつもの待ち合わせ場所。あの壊れた時計台。お気に入りのカフェのテラス。

どこを探しても、アイは見当たらなかった。

僕は街を走り出した。

あんなに目立つ、空の色をした髪の女の子。

この世界の「案内人」であるはずの彼女は忽然と姿を消したのだった。




そして数時間後……時刻2030年の8月17日、深夜4:00をまわった。

目が覚めたら、そこは夜の東京だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ