時計台
ショッピングモールから戻った僕は、慣れない手つきでキッチンに立った。
蓮さんの家の冷蔵庫には、相変わらず無機質な「完全栄養食」ばかりが並んでいる。けれど、今日僕が買ってきたのは、泥のついた不揃いな野菜と、形こそ悪いけれど瑞々しい果物だ。
「……よし。アイが言ってた『不適切な寄り道』、少しだけ形にしてみよう」
まな板を叩く音、パスタを茹でる湯気。
機能美に満ちたキッチンに、初めて「生活」のノイズが混ざり込んでいく。
「……ただいま」
玄関のドアが開く音がして、蓮さんが帰ってきた。彼はリビングに漂うガーリックとトマトの香りに、一瞬だけ足を止め、不思議そうに眉を寄せた。
「少年。……お前が作ったのか」
「はい。いつも置いてもらってるお礼です。不格好ですけど……一緒に食べませんか?」
蓮さんは少し戸惑ったようだったが、ネクタイを緩めると黙って席に着いた。
差し出した皿には、僕なりに一生懸命作ったトマトパスタ。
「……悪くない。……いや、美味しいよ」
蓮さんが一口運び、小さくそう呟いた。
その瞬間、彼の冷徹な仮面の下から、一人の「人間」としての表情が少しだけ覗いた気がした。
けれど、ふと僕の視線が、リビングの隅のサイドボードに置かれた、一つのフォトフレームに止まった。
そこには、セーラー服を着た一人の少女が写っていた。
長く整った黒髪。カメラに向かって少し照れくさそうに笑う、高校生くらいの少女。
「……あの、蓮さん。その写真の人は?」
尋ねた瞬間、リビングの空気が、氷を落としたように急速に冷え込んだ。
蓮さんのフォークを動かす手が止まり、視線が写真へと吸い寄せられる。
「……高校時代の、恋人だ」
彼の声は、これまでに聞いたことがないほど低く、掠れていた。
「綺麗な人ですね。今は、どこに……?」
「…………死んだよ。もう、ずっと前に…交通事故で……」
蓮さんはそれ以上、言葉を継ごうとしなかった。
部屋を支配したのは、時計の秒針の音と、エアコンの微かな駆動音。
完璧なこのマンションの中に、一つだけ修復不可能な「欠落」が鎮座している――僕は、聞いてはいけないことを聞いてしまったのだと、冷や汗をかいた。
「すみません。そんなこと、知らなくて……」
「……謝る必要はない。過去のことだ」
蓮さんはグラスの水を飲み干し、遠くを見つめるような瞳で続けた。
「ただな、少年。人間は、失ってから気づくんだ。どんなに悔やんでも、あの日、彼女が隣で笑っていた『偶然』に勝る正解なんて、どこにもないということに」
その言葉からは、蓮という男をただ一つの過ちを永遠に咀嚼し続ける、孤独な少年の成れの果てとしか捉えられなかった。
夕食を済ませ、蓮さんが書斎にこもるのを確認してから、僕は吸い込まれるようにベッドへと潜り込む。
目を開けると、そこはいつもの運河の街だった。
アイは橋の欄干に腰掛け、夕暮れの空を眺めていた。僕に気づくと、パッと花が咲くような笑顔を見せる。
「やっほー! 今日は現実の世界で何か面白いもの、あった?」
リプレイの世界はいつもと変わらぬ美しさを保っていた。
抜けるような青空と、穏やかに流れる運河。けれど、今日のアイは少しだけ足取りが軽やかで、僕の手を引く力がいつもより強かった。
「ねえ、めぐる。今日はちょっと、特別な場所に案内してあげようかな」
「特別な場所? 噴水広場とか、あのおいしいカフェの裏とか?」
「ううん。もっと、誰も来ないような……この世界の『忘れ物』みたいな場所」
アイに連れられて歩いたのは、華やかな目抜き通りを外れ、石畳が少し欠け始めた路地裏だった。進むにつれて、建物の壁には蔦が絡まり、現実世界の「最適化された街」では決して許されないような、無造作な雑草が道端に顔を出している。
「……ここ、なんだか時間が止まってるみたいだね」
僕が立ち止まったのは、小さな広場の隅に立つ、古びた時計台の前だった。文字盤のガラスはひび割れ、長針は中途半端な位置で止まったまま、二度と動く気配がない。
「ここはね、システムの計算から外れちゃった場所。効率も、役割も、未来も、何一つ期待されていない場所なの」
アイはそう言って、時計台の錆びた土台に腰を下ろした。
「こっちの方が、落ち着く気がする。完璧じゃないからかな。僕みたいに、記憶が欠けてる人間でも、ここにいていいって言われてるみたいで」
アイは僕の言葉を聞いて、ふふ、と喉を鳴らして笑った。その笑い声が、静かな広場に心地よく響く。
「めぐるは優しいね。……私は、この壊れた時計が好きなの。だって、動かないからこそ、一番大切だった『あの瞬間』をずっと守り続けている気がして」
二人はそこから少し歩き、街の端を流れる静かな水辺に座った。
夕暮れ時、水面がオレンジ色に溶けていく。
ちょっとした沈黙の後、アイが膝を抱え、水面を見つめたまま問いかけてきた。
「…ねえ、めぐる。もし……もしもだよ? もし、私たちが現実の世界で会えていたら、何をしたい?」




