日常の違和感
その日僕はアイに街にあるものをたくさん紹介してもらった。
どれくらい時間が経ったのだろうか。
「――そろそろ、お開きの時間かな」
アイが名残惜しそうに、けれど穏やかに呟いた。
運河を照らす夕日が、彼女の水色の髪を透き通るような琥珀色に染めている。
「えっ、もう……?」
「ふふ、そんな顔しないで。ここは逃げないから。……また、いつでもおいで。約束だよ、めぐる」
アイのその言葉が、遠くで鳴る鐘の音に溶けていく。
視界が急激に白く濁り、心地よい風の感触が、清潔なリネンの香りと、硬いベッドの感触に置き換わっていった。
「…………ん」
ゆっくりと目を開ける。
天井には、蓮さんのマンションの、隙一つない白い壁。僕は時計を見た。…8月11日の朝7:00。ここにきてからざっと8時間程度しか経っていない。
夢だったのだろうか。けれど、体は不思議と軽い。数年分の疲れが取れたような、奇妙な全能感さえあった。
パチリ、と微かな音を立ててドアが開く。
「……起きたかい、少年」
ドアの隙間から覗いたのは、すでに完璧に身支度を整えた蓮さんの姿だった。
寝起きの僕を見下ろす彼の瞳には、相変わらず感情の起伏が見えない。
「蓮さん……おはようございます」
「ああ。リビングに朝食を置いてある。適当に食べてくれ。俺はこれから仕事だ」
蓮さんは時計を一度だけ確認すると、玄関に向かいながら思い出したように足を止めた。
キッチンカウンターには、トーストとサラダ、そして一枚の封筒が置かれていた。
「当面の小遣いだ。服でも何でも、必要なものは自分で揃えて」
「えっ、あ、ありがとうございます……って、うわ」
封筒の中を覗き見て、僕は言葉を失った。
そこには、高校生が一度も手にしたことのないような、厚みのある札束が入っていた。
「あの、蓮さん。これ、多すぎませんか……?」
「……俺にとっては、効率的な投資の範囲内だ。気にするな。……ああ、それと」
蓮さんは玄関のドアノブに手をかけ、背中越しに冷ややかに言った。
「俺の書斎――あの突き当たりの部屋にだけは、絶対に入るな。それ以外なら、どこを歩こうが自由だ」
バタン、という重厚な音が響き、家の中に静寂が戻った。
僕は一人、広すぎるリビングで朝食を食べていた。
『――続いて、地域ニュースです。女子高校生の行方不明事件から、ちょうど十年となりました。事件発生当時、女性は通学路から忽然と姿を消しました。
警察は未だ、容疑者の特定に至っておりません。当時、現場周辺で目撃された不審な黒い車の存在が――』
テレビからニュースが流れてきた。特に興味はないが、情報収集はしたほうがいいと思い、最近のニュースを見る。
テレビを見ながら、パサパサのトースターを食べる。
……あんなに甘かったリンゴ飴が、嘘みたいに思い出せない。
一時間後。僕は蓮さんに借りた服を着て、外の街へと繰り出した。
眩しい太陽の下で見ても、やはりこの街は綺麗すぎた。
路上のゴミ一つなく、人々は等間隔で歩いている。
(まずは、服……。それから、少し街を歩いてみたい)
目的地を決めようとしたが、地図アプリの使い方も思い出せない。
僕は意を決して、向こうから歩いてくるビジネスマン風の男性に声をかけた。
「あの、すみません。大きなショッピングモールへ行きたいんですけど、どっちの方角ですか?」
「…………」
男性が足を止める。
その瞬間だった。
僕の視界が、一瞬だけ青白くノイズを走らせた。
男性の顔のすぐ横に、半透明のホログラムのようなウィンドウが浮かび上がったのだ。
[ 対象:不特定市民 ]
[ 思考選択肢(Options) ]
A:無視して通り過ぎる
B:忙しいと断る
C:目的地を詳しく教える
D:警察に通報する
「えっ……?」
僕は思わず後ずさった。
けれど、男性は気づいていない。無表情なまま、宙を見つめている。
次の瞬間、ウィンドウの中で A、B、D の選択肢が、まるで消しゴムで消されたようにスッと消滅した。
残ったのは、『 C:目的地を詳しく教える 』 という一行だけ。
「……はい。この道を真っ直ぐ行って、二つ目の交差点を左です。徒歩六分で到着します。それが最も効率的なルートです」
男性は、何事もなかったかのように流暢に答え、軽く会釈をして歩き出した。
まるで、最初から「教える」という答えしか持っていなかったかのように。
「…………なに、いまの」
僕は自分の目元を拭った。
浮かび上がったウィンドウ。消された選択肢。
それは、リプレイの世界で見た「工場」へ吸い込まれていくデータの流れと、どこか似ている気がした。
誰も気づいていない。
誰も疑っていない。
「……アイ」僕はなぜか彼女の名前を呼んでいた。
ショッピングモールの自動ドアを抜けると、むっとするような熱気と、完璧に管理された空調の涼しさが混ざり合った。
ふと、エスカレーターの脇に貼られた一枚のポスターが目に留まる。
そこには、夜空を彩る大輪の花火と、『伝統文化保存行事・夏季親睦会』という硬い文字が並んでいた。
「……これ、何だろう」
通りがかった案内係の女性に、僕はポスターを指さして尋ねた。
「これは『夏祭り』を模した地域交流会です。参加者はあらかじめ指定されたタイムスケジュールに従い、推奨されたルートで屋台を巡ることが義務付けられています。最も効率的に親睦を深められるよう、会話のトピックもアプリで配布されますよ」
女性はマニュアル通りの完璧な笑顔で答えた。
……義務。推奨。効率。
ポスターに描かれた花火はあんなに鮮やかなのに、説明を聞くほどに、それは味気ない「作業」のように思えてくる。
(アイなら、もっと違う教え方をしてくれるかな)
僕は買い物を早々に切り上げ、逃げるように蓮さんのマンションへ戻った。




