リプレイとアイという少女
鈴の音を転がしたような、涼やかな声。
振り返ると、そこに彼女がいた。
透き通るような白い肌に、鮮やかな水色のボブカット。
僕と同じくらいの年齢に見えるその少女は、柔らかな白いドレスを風になびかせ、僕の顔を覗き込んでいた。
「あ……えっと、僕は……」
「大丈夫、怖がらなくていいよ。」
彼女の瞳は、吸い込まれそうなほど深い紺色をしていた。
その眼差しに触れた瞬間、なぜか胸の奥がギュッと締め付けられるような、懐かしい痛みが走った。
「君、お名前は?」
「……わからない。気づいたらここにいて、自分の名前も、思い出せなくて」
僕が消え入るような声で答えると、彼女は少しだけ悲しそうに目を細めた。
けれどすぐに、ひだまりのような微笑みを浮かべて、僕の手をそっと包み込んだ。
「名前がないのは寂しいね。……じゃあ、私に付けさせてくれる?」
彼女は少し首を傾げ、街を流れる運河の水を指差した。
「『めぐる』。……どうかな? この世界の光のように、どこまでも巡って、またここに戻ってこられるように」
めぐる。
その響きが、空っぽだった僕の心に、すとんと落ちた。
「……めぐる。僕の名前……」
「うん。今日から君は、めぐるだよ」
彼女は満足そうに頷くと、僕の手を引いて歩き出した。
「私はアイ。この世界の案内人。よろしくね、めぐる」
僕はアイに手を引かれながら街を歩いていた。
「どう?この世界は?心地いいでしょ」アイは、街角のワゴンで買ったばかりの真っ赤なリンゴ飴を差し出しながら、いたずらっぽく笑った。
「……うん。なんだか、空気が柔らかい気がする。みんな楽しそうに笑ってるし。さっきのニュースみたいな、冷たい感じが全然しないんだ」
「ふふ、そうでしょ。最近の外の世界は、ちょっと『正解』を求めすぎているから」
アイは自分のリンゴ飴を小さくかじり、遠い目をして続けた。
「正しい効率、正しい選択、正しい幸福……。でも、人間ってそんなに器用じゃないじゃない? 正解だけじゃ息が詰まっちゃう人たちが、ただ自分らしくいられる場所……。ここは、そんな願いが集まって作られた、優しい『逃げ場』なの」
「逃げ場、か……」
「うん。みんなこの場所をリプレイと呼んでいるよ」
僕は、もらったリンゴ飴の甘さに目を細めました。パチパチと弾けるような甘酸っぱさが、脳に直接幸福感を届けてくれる。ここでは、食べることさえ一つのイベントのようでした。
「あっちの広場に行ってみよう! 週末はいつも音楽家たちが集まるんだよ」
アイに手を引かれ、僕たちは賑やかな大通りを歩きました。
大道芸人が火を吹き、子供たちが犬と追いかけっこをしている。
立ち並ぶショップからは焼きたてのパンの香りが漂い、ショーウィンドウには流行なんて関係ない、作り手の個性が光る服が並んでいる。
けれど、街の外れまで歩いてきたとき、僕の目にふとした違和感が飛び込んできました。
「……アイ、あれ、なに?」
僕が指差したのは、美しい街並みの遥か後方、地平線の向こうにそびえ立つ、巨大な鉄塔のような施設。それはこのパステルカラーの世界には不釣り合いな、鈍い銀色をした「工場」のように見えた。
目を凝らすと、空のあちこちから、半透明の小さな「立方体」のようなものが、川の流れのようにその工場へと吸い込まれていくのが見える。
「ああ、あれね……」
アイは足を止め、少しだけ考えるような仕草をしてから、空を見上げた。
「……工場の、名前はあるの?」
「うーん、名前……。私も詳しくは知らないんだけど、この世界を維持するための『エネルギー』を集めている場所、かな」
「エネルギー?」
「そう。この綺麗な空も、美味しい食べ物も、みんなの笑顔も、動かすには力がいるでしょ? あの工場は、世界中から集まってきた余分なデータを燃やして、私たちの『楽園』を守るための燃料に変えているの」
アイの説明は軽やかで、どこか他人事のようにも聞こえた。
けれど、僕はその工場の煙突から吐き出される、重苦しい紫色の煙から目が離せなかった。
「……なんだか、あそこだけ、すごく冷たそうに見える」
「……そうかもね」
アイは僕の手をギュッと握り直し、無理に明るい声を出した。
「でも、大丈夫。あそこは私たちの街からはずっと遠い場所。めぐるは、こっちの楽しいことだけを見ていればいいんだよ。ほら、あそこのカフェ、私のお気に入りなんだ。一緒に行こう?」
「……うん、そうだね」
僕はもう一度だけ、無数のデータが吸い込まれていく工場を振り返った。
その時、僕の視界の端に、ノイズのような文字が一瞬だけ浮かんだ。
『 ―― 削除対象:不適切(Error) ―― 』
「めぐる? どうしたの?」
「……ううん、なんでもない。行こう、アイ」
僕はその不吉な予感を心の奥に押し込み、アイの隣で、再び鮮やかな街の中へと歩き出した。




