現実と仮想
到着したマンションは、僕の乏しい想像力を遥かに超えていた。
エントランスはホテルのように広く、エレベーターは吸い込まれるように音もなく上昇する。
「お邪魔し、ます……。わあ、すごい……」
通されたリビングに入った瞬間、僕は履き替えたばかりのスリッパで立ち尽くした。
床から天井まで届く大きな窓からは、宝石を散りばめたような東京の夜景が一望できる。家具はどれも洗練されていて、生活感というよりは、美術館の展示品のような清潔感があった。
「適当に座って。今、何か作るよ」
「あの、蓮さん、ここ、一人で住んでるんですか?」
「ああ。早く親元から早く離れたくて、大学生の時に。関係がうまくいってなくてね」
出されたのは、温かいココアだった。
一口飲むと、甘さが体に染み渡り、緊張が少しだけ解けた。
やがてキッチンから、食欲をそそる香りが漂ってきた。蓮さんがテーブルに並べたのは、彩り豊かなパスタと温かいスープだった。
「……食べていいんですか?」
「遠慮せずどうぞ」
促されるまま、パスタを口に運ぶ。
「おいしい……! こんなに美味しいもの、食べたことない気がします」
「大げさだな。レシピ通りに作っただけだ」
蓮さんは自分の分には手をつけず、タブレットで何かのコードを眺めている。
僕は夢中で食べた。温かい料理が胃に落ちるたび、自分が「生きている」という感覚が戻ってくる。
「食べ終わったら風呂に入るといい。着替えは脱衣所に置いておくから」
借りたパジャマは、僕には少し大きめのシルク製だった。肌触りが良すぎて、逆にそわそわしてしまう。
「……今日は、その部屋を使っていい。何かあったら呼んでね」
案内されたゲストルームも、僕には勿体ないくらい綺麗だった。
ふかふかのベッドに横たわると、一日の疲れが重い砂のように体に溜まっていることに気づく。
「あの、蓮さん」
「なんだい」
「……助けてくれて、ありがとうございました」
ドアを閉めようとしていた蓮さんの手が、一瞬だけ止まった。そして少し笑みを浮かべ、
「……礼を言われるようなことじゃない。俺が、そうしたかっただけだ」
パチリ、と電気が消える。
暗闇の中、僕は自分の手首を無意識に握った。
(正しい、世界……)
ニュースの声が耳の奥でリフレインしながら僕は重い瞼を閉じた。
重く、深い眠りの底へと沈んでいく感覚があった。
意識が遠のき、重力が消えていく。
(……温かい)
ふいに、頬を撫でる風の柔らかさに気づいて、僕は目を開けた。
「えっ……?」
思わず声が漏れた。
そこは、さっきまでいた蓮さんのマンションでも、冷たい高架下でもなかった。
視界いっぱいに広がっていたのは、信じられないほど透き通った夜空と、光を反射してキラキラと輝く運河の街。建物はどれも白亜の石造りで、窓辺には色とりどりの花が咲き乱れている。
「……夢、なのかな」
足を踏み出すと、石畳の感触が驚くほどリアルに伝わってくる。
驚いたのは、街を行き交う人々だった。
現実の東京にいた「感情の欠落した人々」とは、明らかに違っていた。
「わあ、見て! あの花、すごく綺麗!」
「本当だね、次の角のカフェに寄っていこうか」
あちこちから笑い声や、弾むような話し声が聞こえてくる。誰かの肩がぶつかれば「おっと、ごめんよ!」と快活な声が返ってくる。
そこには、僕がさっきまで感じていた不気味な気配は微塵もなかった。
あまりにも美しく、あまりにも“人間らしい”世界。
僕はその眩しさに圧倒され、迷子のように立ち尽くしてしまった。
「――ふふ。初めまして。迷い込んじゃったかな?」




