未来を変えるために
「……うちに来るか?」
蓮さんの差し伸べた手。以前の僕なら、そこに救いを見ていた。けれど今の僕が見ているのは、その指先が叩く冷酷なアンインストールのキーボードだ。
「……はい。お願いします」
僕は震える声を抑え、怯えた迷い子のふりをして彼のマンションへ足を踏み入れた。
一週間。リミットは8月17日。
その日、蓮さんが書斎でアイを消去するプログラムを起動する前に、彼を無力化しなければならない。
翌日、僕は「街に慣れたい」と嘘をついて、ショッピングモールへ向かった。
監視カメラの目を盗み、ドラッグストアの隅で、強い催眠作用のある導入剤を手に入れる。
(……ごめんなさい、蓮さん)
ポケットの中で薬の瓶を握りしめる。
彼は「正解」のためにアイを消そうとしている。僕は「愛」のために彼を眠らせる。
どちらも自分のエゴだ。けれど、僕はもう迷わない。
その夜、僕は早々にベッドに入り、祈るように意識を沈めた。
二度目の、けれど僕にとっては「再会」の場所へ。
目を開けると、そこはあの懐かしい運河の街だった。
夕暮れの色、潮の香り、そして――。
「初めまして。迷い込んじゃったかな?」
背後から聞こえた、聞き間違えるはずのない声。
僕は勢いよく振り返った。そこに立っていたのは、まだ「消去」の影すら知らない、無邪気に微笑むアイだった。
「……ア…」
思わず名前を呼びそうになり、僕は寸前で言葉を飲み込んだ。
今の彼女にとって、僕はただの「初めて会う迷い子」でしかない。
アイはくすくすと笑い、僕の顔を覗き込んだ。
その瞳の輝きを見るだけで、胸が張り裂けそうになる。
彼女を、あの冷たい光の粒子になんてさせない。絶対に。
「……僕は、めぐる。君に、会いに来たんだ」
「…めぐる? 素敵な名前だね。」
アイが僕の手を取ろうとして、ふと僕の左手首に目を留めた。
そこには、彼女が「未来」で僕に贈った、あのミサンガがあった。
「……。」
アイは少し目を丸くしたが、すぐに平常に戻った。
僕は彼女の手を、今度は自分から強く握り返した。
「アイ。……16日に、この街で夏祭りがあるよね」
「えっ、どうして知ってるの? 」
驚くアイに、僕は精一杯の笑顔を作って告げた。
「約束して。その日、必ず僕と一緒に花火を見よう。何があっても、僕が君を守るから」
アイは目を丸くしていたが、やがて顔を赤らめ、嬉しそうに頷いた。
「……うん。約束だよ、めぐる!」
8月16日
街のあちこちに吊るされた提灯が灯り、遠くから聞こえるお囃子の音が、祭りの始まりを告げている。
「めぐる、こっちだよ!」
浴衣姿のアイが、人混みの向こうで弾むように手を振った。
淡い水色の浴衣に、白い花。その姿は、僕が前回見たものと同じく、世界で一番綺麗な景色だった。
「ごめん、待たせたかな」
「ううん、全然! さあ、行こう。今日は魔法の時間なんだから!」
アイは僕の手を取り、賑やかな屋台の列へと駆け出した。
型抜き、金魚すくい、ソースの焦げる匂い。
二人で笑い合いながら、焼きそばを分け合い、甘い綿菓子を頬張る。
(……この笑顔を、明日、僕は守り抜かなければいけないんだ)
隣で笑うアイを見るたび、胸の奥が熱く、そして冷たく締め付けられる。
明日、17日。僕は現実世界で蓮さんを眠らせ、彼女を消去の運命から引きずり出す。
この幸せな時間は、戦いの前の、ひとときの猶予に過ぎない。
やがて、祭りの喧騒が少し落ち着き始めた頃、僕たちは小高い丘へと登った。
そこからは、お祭りの明かりが宝石を撒いたように美しく見渡せた。
ドォォォォン……!
その時、一発目の花火が夜空を震わせた。
大輪の光が、アイの横顔を鮮やかに、そして儚く照らし出す。
「綺麗だね、めぐる……」
「……ああ、本当に」
僕は、彼女の隣に座り、あえてその手には触れなかった。
今、この不完全な幸せを噛みしめる代わりに、明日の決意を固めるために。
次々に打ち上がる花火の光の中で、アイは静かに瞳を閉じ、祈るように手を合わせていた。
その願いが何なのか、僕にはわからない。
けれど、明日、僕が手にする「正解」の中に、必ず彼女の笑顔があることだけは、心に深く誓っていた。
花火が終われば、この魔法の夜は明ける。
そして、すべてが決まる「8月17日」がやってくる。




