消失
現実世界の静寂は、時として耳を塞ぎたくなるほど痛い。
蓮さんは相変わらず書斎にこもり、僕はリビングで所在なく過ごしていた。
けれど、最近の蓮さんは明らかに「異常」だった。食事中も独り言を呟き、モニターを見つめるその瞳には、かつての冷静な知性ではなく、
何かに追い詰められたような狂気が宿っている。
(……何をしてるんだ、あの部屋で)
その時、書斎のドアが開き、蓮さんが足早に廊下を通り過ぎていった。
トイレへ向かう僅かな隙。僕は迷わず、滑り込むように書斎へと足を踏み入れた。
暗い室内には、幾重にも重なったモニターの青白い光が揺らめいている。
「…え?」
そこに映し出されていたのは、僕が見慣れた、「リプレイ」の俯瞰映像だった。
「……リプレイ? どうして蓮さんの部屋に……」
困惑しながらメインモニターを凝視した。そこには、赤く点滅する無機質な文字列が並んでいた。
[ WARNING ] システム最適化:大規模クリーニング実行中
対象データ:リプレイ案内人(Navigator-AI)
プロセス:アンインストール開始…… 86%完了
「アンインストール……? 案内人って、まさか……」
リプレイの案内人なんて、一人しかいない。
アイだ。蓮さんは、理由はわからないが、アイをこの世界から完全に消し去ろうとしている。
心臓が口から飛び出しそうなほどの衝撃が僕を襲った。
ガタン、と廊下で音がする。蓮さんが戻ってくる。僕は転がるように部屋を抜け出し、自室のベッドへ飛び込んだ。
(行かなきゃ。アイのところへ……!)
僕は祈るように目を閉じ、意識をリプレイへと飛ばした。
次に目を開けたとき、そこはいつもの運河の街だった。
けれど、何かが決定的に違っていた。
空は灰色に濁り、あんなに賑やかだった街からは、人っ子一人いなくなっている。
「アイ! アイ、どこにいる!?」
叫び声は虚しく響くだけだ。
僕は直感的に、あの「工場」へと走った。不適切なデータを処理するあの場所なら、アイが捕らわれているかもしれない。
「はぁ、はぁ……っ!」
息を切らして辿り着いた工場の前で、僕は立ち尽くした。
……静かだった。
空を汚していた紫色の煙も、地響きのような駆動音も、すべてが嘘のように止まっている。巨大な鉄の門は固く閉ざされ、そこには「役割を終えた」という冷たい拒絶だけが漂っていた。
「……アイ、いないの……?」
絶望が足元から這い上がってくる。
その時だった。
――カチッ。
静寂を切り裂くように、硬い、金属質な音が響いた。
――カチッ。カチッ。
それは、この世界に「時間」という概念が戻ってきたかのような、冷酷な秒針の音。
音のする方へ、僕は吸い込まれるように歩き出した。
辿り着いたのは、あの「名もなき場所」。
アイが「一番大切だった瞬間を守っている」と言った、あの古びた時計台の前だった。
見上げると、止まっていたはずの長針が、ゆっくりと、けれど確実に動いていた。
「……めぐる? 来ちゃったんだね」
時計台の影から、か細い声がした。
そこにいたのは、アイだった。
けれど、彼女の姿は足元からノイズに溶け、向こう側の景色が透けて見えるほどに薄くなっている。
「アイ! よかった、探したんだよ! 蓮さんが……君を消そうとしてるんだ、今すぐここから逃げないと!」
僕は彼女の肩を掴もうとした。けれど、僕の指先は空しく彼女の体を通り抜け、冷たい空気だけを掴んだ。
「……無駄だよ、めぐる。もう、私のデータのほとんどはなくなちゃった。……この時計が一周したら、私は完全に消えるの」
アイは悲しそうに、けれどどこか清々しい顔で、動き出した時計を見上げた。
「……どうして? 蓮さんは、あんなに君のことを……」
「…彼にとって、私は『正解』じゃなかっただけ。……めぐる、覚えてる? 私が言ったこと。この時計は、動かないからこそ瞬間を守れるんだって」
アイは消えかかった手で、僕の頬に触れようとした。
感触はない。けれど、そこには確かな熱があった。
「動き出したっていうことはね、もう『その瞬間』は終わったってこと。……リプレイは終わるの。めぐる、あなたは現実に戻らなきゃいけない」
「嫌だ! アイがいない世界に戻ったって…っ!」
僕は叫んだ。手首のミサンガを強く握りしめる。
時計の針は、容赦なく、最後の一分を刻もうとしていた。
「めぐる。……私を忘れないで。でも、私に縛られないで。……あなたが私にくれた『不適切な感情』は、全部、本物だったよ」
アイの体が、光の粒となって空へ舞い上がり始める。
「アイ……! アイ!!」
「さよなら、めぐる。……また、いつか……どこかのリプレイで」
カチリ、と重なる音がした。
長針が真上を指した瞬間、視界が真っ白な光に塗り潰される。
僕は、彼女の手を掴めないまま、奈落のような忘却の淵へと突き落とされた。




