69.二つのうわさ
狼の群れが王都で暴れているらしい。
狼男の陰に隠れていたけれど、たしかにそんなうわさはあった。
しかし狼男が怪盗ガゼッタに討伐された、と聞こえてくると同時に、狼の話も消えてしまった。
それじゃあ狼たちは一体どこに行ったというのか?
そう、その答えが今、目の前に現れた。
「絶望だ……」
誰かの声がアーシュラの耳に届いた。
「ふっ……」
この程度が絶望? 笑わせるな。私は本当の絶望を知っている。
女だてらに騎士を目指すだなんて、とんだ笑い話。そんなもの親に反発した子供のただの我がままだ。そんな情けない自分にどれだけ絶望してきたと思っているのか。
そんな自分をかっこいいと言ってくれた、その純粋なまなざしを受けて、自分で自分にどれだけ絶望しているか。
その絶望がどれだけ深いものなのか。
回復の魔法薬? 分かってる、もう無いんだろう?
ニュマとはだてに四日も同じ馬車で過ごしてきたわけじゃない、そんなことぐらいは言われなくても感じ取れる。
もしもここで私が死んだら、あの泣き虫は号泣するんだろうな。
後ろのクラスメイトたちの誰か一人でも傷ついたら、もしかしたら二度と、あんな風に無邪気な笑顔を見せられなくなってしまうかも知れない。
それだけは断じて許すことはできない。
断じてだ!
死ぬことはできない、取り返しのつかない大怪我をすることも。その上、敵を一匹も通さないだなんて……。
アーシュラの脳裏にあの、ほけーっとした阿呆ヅラが浮かんでくる。
「ぷっ!」
あの阿呆ヅラ、どれだけ我がままで厳しい主君なんだか……。
思わず噴き出したことで、どうやら余計な力が抜けたみたいだ。
来い、絶望よ! この私が本当の絶望の味を教えてやる!
そして後悔する余裕など、どこにもないと知るが良い!
~~~~~
それははるか昔の物語。
国境を巡る激しい戦の中で、国王が大量の敵に囲まれ討たれそうになった時、たった一人で国王をその背に守り、一歩たりとも敵を通さずに戦い続けた騎士がいた。
援軍が遅れてやって来た時には、その騎士は剣をしっかりと構え、敵の逃げ去る方向を睨みつけたまま、倒れることなく息絶えていた。
国王はこの騎士を、国一番の剛の者、剛爵と呼び称えたという。
~~~~~
剛爵。もう今では昔話に過ぎない。
ただの作り話だと笑う者も多い、そんな与太話のうちの一つ。
そんな伝説の剛爵の末裔が、今ここにいる。
「ここにアーシュラ・スフォルツァーテがいる限り、仲間に傷一つつけることは、絶対に許さない!」
アーシュラの燃えるような魔力を受けて、その目が赤く輝く。瞳の奥では渦巻く魔力がまるで魔法陣のような複雑な模様を描きながら回転する。
右横に大きく突き出した剣を、ゆっくりと正面に向ける。
その鋭い剣先には、赤い魔法陣が二重、三重に重なって、回転しているのが誰の眼からも見えた。
それは完全な魔力の暴走。
いや、覚醒と呼ぶにふさわしいもの。
「キエェェーーイッ!」
烈迫の気合を込めた『阿修羅』が、誰も通さなとばかりに、不知火のごとく両手を広げた。
飛び込んできた狼が、そのまま空中で二つに千切れる。
一匹、二匹。そのたびに血しぶきが赤い霧のように宙を舞う。
「その程度かっ!」
アーシュラの一喝に引き寄せられるようにして、今度は三匹の狼が同時に彼女に襲い掛かった。
「シッ!」
しかし彼女の剣は空を切る。
狼たちは襲うと見せかけてすぐに引く。一撃離脱というより、これは……牽制だ!
それは間違いなく罠。
隙を見せたアーシュラに、別の二匹の狼が同時に襲い掛かった。
もしもこれが試合であれば、この時点で狼たちの勝利だっただろう。
しかしこれは試合ではなく命の奪い合い。相手の命を確実に刈り取るまでは終わらない、競技などと呼べるはずもない、命と命の激突なのだ。
「ムンッ!」
彼女の足元に噛みついた一匹が、そして首を狙った一匹が、力いっぱい切り上げられた大剣の前に、一瞬にしてただの肉塊に変わる。
「まだまだっ!」
アーシュラは大声を張り上げることをやめない。
これはもちろん気合という意味が大きい。だがそれ以上に敵を引き付けるためという目的があった。
彼女はたった一人。もしも狼たちに後ろに回られたら、止めるのはもう絶望的になる。
こうして気合で相手を威嚇してその爪を、その牙のすべてを自分に向けさせる。それが彼女に与えられた、たった一つの手段なのだ。
また三匹、そして二匹と、狼が血煙を上げて息絶えていく。
それは返り血なのか、それとも自分が流した血なのか。もう誰にも、本人すらわからないぐらいに血まみれの姿で、ただ剣を振り続ける少女。
絶対に通さない!
その言葉通りの鬼神の姿。
「畜生ども、生きて帰れると思うなよ?」
まるで耳まで裂けるように口を吊り上げて、アーシュラは声を上げて笑った。
狼たちは粘り強く、そして狡猾だ。
牽制、牽制、突進、牽制、襲撃、突進。
多彩な攻撃を織り交ぜながら、アーシュラを追い詰めていく。
ガシュッ!
しかしそれでも、アーシュラの剣が一閃するたびに、一匹、また一匹と血濡れた肉塊へと変えられてしまう。
アーシュラの後ろには柔らかそうな餌が山ほどいるのだ。彼らとて馬鹿ではない。そっちを先に襲えばいいことぐらいわかっている。
それでもアーシュラを先に倒すしかない、彼女の威圧を跳ね返せない。
ただ無駄な命を散らしていくしか術がないのか。
アォーーーンッ!
それはたった十分ほどだったのか、それとも数時間は流れたのか。誰にもわからない激しい戦い最中、突然それは終わりを告げた。
狼の群れがまるで煙のように消えたあと、そこには真っ赤に染まった毛むくじゃらのかたまりが大量に転がっている。
もう数えるのも馬鹿らしくなるような数だ。
「終わった……のか……?」
静けさの中で、落ち葉が一枚はらりと舞う。
シュパッ!
それは地面に舞い落ちる前に粉々になる。
そう、彼女の戦いはまだ続いていた。
体中から血を流しながら、狼が去った後も、気を失いながらも、ずっと……。
「もういい! もういいんです!」
ショミンダが後ろから生ぬるい血みどろのローブに無理やり抱き着く。それでもなお……。
「これが剛爵……真の伝説……」
すうっと空気が澄んでいく中に、殿下の震えるような声だけが響いた。
殿下の腰には剣は無い。その手には棒切れ一本すら握られていない。
でもそれだけじゃない。もしも剣があったとしても、彼は立場上、助けに前に出ることはできなかった。王子である自分が、貴族の子息たちよりも先に傷つくことはできなかった。
そして今なお戦い続ける英雄に、過去に国王が与えた剛爵、その名を勝手に与えることもできなかった。
真の伝説。それは殿下が言葉にできる、せいいっぱいの賛辞だった。
その時キャナリーは、この血の匂いが充満する場所から移動するため、いち早くリリスと一緒になって山のお友達情報を集めていた。
山の中での迷子経験に関してなら、彼女の右に出るものは誰もいないのだ。
そう、危機はまだ去ってはいない。
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます!
アーシュラの頑張り、そして次回のキャナリーの活躍に期待してくださる皆さん、ぜひとも★感想と評価★をお願いいたします!




