68.軽口と笑い
真っ白な霧が辺りを覆って、もう目指すべき山頂はまったく見えなくなっていた。
「ねえ、もしかしてこの道、間違ってない?」
「ああ、私もなんとなくそんな感じがしてきたところだ」
今まで何度も山の中で迷子になってきたキャナリーの経験が、この時になってやっとはっきりとした警鐘を鳴らした。
この道は山頂には向かっていない。
どこかで道を間違えたのだ。
キャナリーだけではない。同じく山岳地帯出身のアーシュラも、同じような違和感を感じていた。
「霧も深くなってきましたし、前の班を止めませんか?」
「そうだね、ボクがちょっと行ってくるよ」
アーシュラは自分が行こうかと少し迷ったが、ここは自分が出るよりもクルルに任せた方が良い。そう判断して彼の荷物を預かる。
かなり視界が悪くなって足元は不安だけれど、おそらく彼に声をかけてもらったほうがみんなが無事に集まってくれるだろう。
A組のほとんどとB組の半分程度、その全員が一ヶ所に集まる頃には、霧は完全に周囲一帯を包み込み、伸ばした手の先が見えるかどうかというほどに濃くなっていた。
「道を間違えていると聞きましたぞ! このデブリス・デブラン、にわかには信じがたい事ですぞ!」
「わたくしたちはしっかり案内通りに歩いてきましたわよ?」
デブリスやトルネ嬢だけではない。他の生徒たちも同じ意見のようだ。
「そうね、誰かがわざと標識にいたずらした……その可能性はあるわ」
ジャネの言葉に集まった生徒たちがざわつき始める。
「みんな落ち着け。今は道のことは忘れよう。この霧が晴れるまではここで休憩、それでどうだろうか?」
こんな状況で犯人捜しでも始めようものなら収拾がつかなくなる。殿下の一言でみんなは静かになり、その場でへたり込むように座る。
「ねえ、リリス。お友達に頼んで、どっちに進んだらいいのか教えて貰えないかな?」
「任せてモモ!」
リリスの呼びかけにすぐに森が……いや、何も聞こえない。
白く静まり返ったままだ。
お昼ご飯の時には挨拶してくれたのに……。
キッキッキ!
甲高く鋭い鳴き声が遠くから聞こえた。
なんだかわからないけど、どこか不安を感じさせるその鳴き声……。
「危ない、そう言ってるモモ!」
「リリス、何が? この霧のこと?」
「違うモモ! 危ないのは……」
ワォ~ンッ!
アォ~~ンッ!
その時、かなり近くから聞こえる獣の呼び声。そしてそれに応える声がこだまになって一帯に響く。
間違いない。
それは狼の群れ、その仲間を呼び合う遠吠えだった。
べたつくような霧が、どこか生暖かくまとわりついてくる。
風もまったくないのにガサガサと草むらが揺れ、その冷たさで足が、そして背中がブルッブルッと震える。
真っ白な世界で何も見えないはずなのに、しっかりと感じる複数の眼光。それは圧倒的強者の力のなせる業なのか。それともただの幻なのだろうか。
「ひっ!」
「うわ~っ!」
「待て、走るな!」
「た、たすけてっ!」
「いや! いやよぉ~!」
一瞬で霧に飲まれる数人の生徒たち。
それにつられるように、みんなが動き出そうとしたその時、
「動くな! 敵は私がぶった斬る!」
高く、それでいてしっかりと落ち着いた声。
「戦いはすべてこの、アーシュラ・スフォルツァーテに任せろぉっ!」
強烈な殺気で、生徒たちの足が止まった。
その目の前を、赤い魔力の光が真っ白な世界を切り裂いて駆け抜ける。
「ワウッ!」
「ぎゃあっ!」「うぎゃっ!」
ザシュッ! ズバッ!
何も見えない、一体どうなったのか?
「……キャナリ―、来てくれ」
ゆっくりと足元を確認しながらキャナリーはそこに近づくと、どうやら数人の生徒が倒れているのがわかった。
強い鉄さびの匂い。
手を伸ばすと……、暖かく濡れている。
これは助からない。そんなこと、わかりたくもないのに。
「誰か……」
キャナリーの言葉を遮るように、淡く優しい光が辺りを包み込んだ。
「……ニュマ?」
彼がすぐ隣に来ていた。
「大丈夫……治療の……魔法薬……いっぱいある……運んで……急いで……」
大怪我をしていたはずの生徒たちが瞬く間に息を吹き返す。
実はこれで治療の魔法薬は品切れ。でもそれを口にするほどニュマは愚かではない。
「助かる……落ち着いて……みんな固まって……」
戻って来たニュマが、震えているのがクルルにはわかった。
他の生徒に知られてはいけない、なぜかそう感じて、彼を支えるようにしっかりと抱きとめる。
「はっはっは、ボクのこの横ロールだって伊達じゃないさ! 見てくれ、このビヨンビヨンを!」
「み、見えないよ!」
「ならばこの音を聞きたまえ! それ、ビヨヨ~~ンッ!」
震えるニュマを抱きしめる両手は離さない。霧で誰にも見えないのをいいことに、横ロールになんて触れてもいない。
本当に何もない、ただの軽口。でも救われる、今この時だけはその軽口に救われてしまう。
それでもなお、緊張と恐怖が世界を支配し続けていた。
キャナリーはふと、長兄で狩りの名人タロイモンの言葉を思い出す。
『野獣に襲われた時、怯えると向こうはやる気になるからな。そんなときはそう、無理にでも笑ってやるんだ。お前らなんて大したことない、ってな!』
「わっはっはっはっは! みんなも笑って!」
キャナリーは大声で笑いだすと、同時にニュマに預かっていた魔法の壺、笑いの魔法のフタも開ける!
「ギャーハハハハハッ!」
笑え! 危ない時こそ笑え!
真っ白な霧の中を飛び回る赤い光。
ザシュッ! ズシャッ!
何も見えない。しかし襲い掛かってきた狼たちが、アーシュラの剣で両断されていくのがはっきりと聞こえる。
「助かった……の?」
「まだモモ……」
みんなが安堵しはじめた時、薄れていく霧の中に光り輝く無数の双眸が浮かび上がった。
「ぜ、絶望だ……」
誰かの声が森の中に静かに響いた。
まだ続くピンチ!




