10.アフター・ザ・レイン
彼が焦ったように声を上擦らせるのが可笑しかった。
そして、少しだけ悲しかった。
目が覚めると、自室のベッドの上にいた。
ぼんやりしている頭で考える……そんな暇もなく、自分付きのメイドのリリアが部屋に入ってきた。
おはよう、と言う。いつもの挨拶だ。
それなのに随分久しぶりな気がするのは一体どうしてだろう?
「お嬢様! 目が覚めたのですか!?」
「……?」
起きたくらいで大袈裟だと思っていると、リリアは「お医者様!」と叫んで部屋を出ていってしまった。
ぱたぱたと騒がしい足音が小さくなっていく。
そうして静かになった部屋だが、外の降っている雨音が完全な静寂を遠ざけていた。
雨は好きだ。正確には雨の日の音が。
自分の代わりに泣いてるみたいだから。
目を閉じて雨音に意識を集めると、心が落ち着いていく……はずだったのだが、しかし。バンっと大きな音が部屋に響いてぼんやりしていたベアトリクスは今度こそ完全に覚醒した。
大きな音の正体は扉を乱暴に開いた音で、その発信源は部屋にずかずか入ってきたエヴァンだった。
「心配させんな、馬鹿」
安堵の息を長く長く吐いた後、エヴァンが笑うのを見てベアトリクスは思い出した──先程まで齊藤 幸という女の中にいたことに。
「でも、すっきりした。あいつの親に、俺がずっと思ってることだったからさ。あんたの啖呵、すっげえ格好良かったぜ!」
──そして 幸が、ベアトリクスの中にいたことも知る。
「……啖呵」
切ったのか、両親に。
あの幸が。
小物相手に言いなりになっていた幸が、ベアトリクスの為に。
怒ることが苦手なくせに。一番最初に思ったことはそんなことばかりで、父と母に自分がどう思われるかなんて心配は一ミリもしていなかった。
「痛いとこあるか? どこも打ってないと思うけど、急に意識なくすから焦った」
気安い口調で笑うエヴァンだけど、ベアトリクスを心配しているのが分かった。
でも、見慣れない表情と態度に戸惑ってしまう。
「どう、して?」
エヴァンの自分への態度を問うたつもりだったが、目の前の婚約者はそう捉えなかったようで悪戯っぽく笑いながら「どうしてだと思う?」なんて聞いてくる。
質問を質問で返すなんてナンセンスだと、以前のベアトリクスならば言うだろう。でもそれはエヴァンが眉と目を吊り上げている場合に限る話だ。
それに、ベアトリクスには怒りがまったく湧いてこなかった。
だから素直に「分からないわ」と返して、考える。
「あんた、階段から落っこちたんだよ。ま、俺がタイミング良く受け止めたんだけどなー。感謝しろよ?」
へへん、と得意そうに笑うエヴァンを見て気付いた。
自分はこうして笑ってほしかったのか、と。
「ありがとう、エヴァン」
こんなに簡単なことがなぜ分からなかったのだろう、と思うと同じタイミングで「あれ?」とエヴァンが声を上げた。
「……お前、ベアトリクス?」
「? そうよ?」
顎から指を離してエヴァンを見ると、その顔は真っ赤に染まり慌てだした。
「いや、これは違うんだ、えっと……」
「大丈夫、分かってるわ。私を幸だと思ったのでしょう?」
「そうだけど……」
すっかり気安い態度を引っ込めるエヴァンに、挫けそうになるけれど、ベアトリクスは言葉を紡いだ。
「幸の話を教えて? そして私の話も聞いてほしいの」
断られたらどうしよう、と思わないこともなかった。
けれど、根拠のない確信もあった。
「……ああ、もちろん」
きっと大丈夫だ、という根拠は見事に当たった。
報告をし合う過程で、お互いの近況を知り驚いた。
いや、驚いたなんてものじゃない。
驚きすぎて、笑うしかない。
そして『自分達よりも十二も年上なのに、とてもそうとは思えない』と、二人で顔を見合わせてまた笑う。
「幸って馬鹿なの?」
ベアトリクスが溜息混じりで言うと、「間違いない」とエヴァンが声を上げて笑う。
言い訳をさせてもらえば、これは幸を馬鹿にしているわけではなく、まだほんの少し素直になれない二人が幸という人物の想い出を共有することで、仲直りをはかる行為である。
個々に面倒くさい面があり、捻くれ拗れている二人にしては及第点なのではないだろうか。
それに、仲直りの口実に使われている人物もきっと怒らない。かえって喜びそうだ。
「あいつ、何にもないところでコケるんだ」
「ふふっ、幸らしいわね」
「俺がいなかったら、今頃お前の足は痣だらけだ」
「まあ大変」
エヴァンの笑顔で、ベアトリクスも笑顔になる。
こちらが心を開けば、こちらから笑えば、こちらから歩み寄れば、エヴァンも同じように返してくれる。
子供扱いされるはずだ。
こんな簡単なことが分からなかったのだから。
「美味しそうなものばかりね」
医者から問題ないとお墨付きをもらった後、幸の置いていったレシピノートを見たベアトリクスの感想である。
『マル秘☆ビーちゃん専用レシピ☆』と書かれた星やハートが賑やかなノートを撫でながら、笑みが溢れた。
「だろ?」
「この『角煮』という料理、とっても気になるわ」
「ああ、それならすっげえ美味いから驚くぞ。今度食いに来いよ」
「ええ、是非!」
「でもさ……このノート、お前が持ってなくてもいいのか?」
「ええ、いいの。エヴァンが持ってて」
幸がエヴァンにノートを預けた理由を、エヴァンは分かっていないみたいだったけれど、ベアトリクスには分かった。
同時に、やっぱり敵わないと思った。
幸は、本当にとんでもない。
ドジだし、すぐ謝るし、両親に反抗するし、学園をズル休みするし、草の上に寝転がるし、ベアトリクスなんかの為に心を痛めてるし、お人好しだし、こちらが心配になるくらい素直だし、そしてとんでもなく可愛い女だ。
──だから、彼は彼女の中に入ったベアトリクスのことを大事にしてくれたのだろう。
祭り囃子の中。階段から落ちると思った刹那、涼が呼んだのは幸の名前だった。
気付いた瞬間に失恋なんて間抜けな話だ。
成就する恋ではなかった。分かっている。
分かっていた。
涼がベアトリクスの中に自分の大切な女がいないかと、探る目をしていることに気が付いたのは、出逢ってすぐのこと。
まったく、失礼な男だ。
失った恋の数だけ女は美しくなると言うし、その諺通りにベアトリクスを選ばなくて後悔するがいい……なんて。そんなことある訳ないけれど、もう『悲しい』だけを持つのは止めにしたい。
今は、ぎこちない強がりをしてもいい。
これが正解かは分からないけれど。
でも、いつか、その強がりが本物になりますように。
そして、願わくば。
幸のような、優しい女性になりたい──
「私、決めたわ」
「おー? 何を?」
「寮から学園に通おうと思うの」
「そっか。うん、いいんじゃないか? 俺も週の半分は寮だし、何かあれば言えよ」
「ええ、ありがとう」
エヴァンは怒りっぽくて口も悪いけれど、それだけが彼を表す全ての言葉ではない。
これから、彼の良いところをたくさん見つけていこう。これを伝えるのはまだ少し……いや、かなり難しいけれど、いずれはしてみせる。
二人の間に親愛以上の情が芽生えるかは、今は分からない。
それにベアトリクスはついさっき失恋したばかりで傷心中でもある。
ただ、エヴァンと二人で、お互いを思いやれる関係を作っていきたい。
そうやって、将来は本物の家族になりたい。
今は、本心からそう思っている。
階段から落ちることはなかったが、娘が三時間も意識を失っていたというのに彼らはベアトリクスの元へは来なかった。
ベアトリクスの胸は酷く痛んだけれど……いや、だからこそ、決めた。
ベアトリクスの決心、それは『もう彼らの気を引くことはしない』である。
もっと上手くやれるのではないか、と思わないわけではない。
でも、どうしたって無理だということも随分前から理解していた。
目を背けていただけで、ずっと前から気付いていた。
だから、手放す。
──『ビーちゃんは無敵の女の子! 大丈夫、何だってできるよ!』
ノートの最後のページの隅に小さく書いてある文字は、まるで、ベアトリクスを励ましてくれる大きな力を持っているようだった。
「あなた達、そっくり」
まさか同じ愛称で呼ばれているなんて、思いもよらなかった。
完敗だ。
悲しいと思うのに、同時に嬉しくもあるこの気持ちの名前を、ベアトリクスはまだ知らない。
だってまだ十四歳だもの。
知らないものがあったっていいはずだ。
そうでしょ?
肩の力を抜いて、『自分らしく』の自分を知っていけばいい。
きっと、できる。
できないかもなんて考えないで、飛び込んでみよう。
兄とも話をして、自分の気持ちを言って、気持ちを聞こう。
怖いけど、勇気を出して踏み出そう。
失敗しても、それは成功に近付いている証拠だ──そう教えてもらった。
「……ありがとう」
ぽつり、と水滴がノートの文字を滲ませる。
エヴァンは何も言わず、側でベアトリクスの気持ちが落ち着くまで待ってくれた。
雨はいつの間にか止んでいた。




