043:甘え上手
階下で何があったか知っている美波は、野乃花が落ち込んでいるだろうと慮った。
「私ね、甘え上手なの。二×四ビルのみんなには“人遣いが荒い”って言われるけどね。
……暇そうな人を見たら捕まえて、手伝ってもらったり、喜多の面倒を見てもらったりしているわ。
ああ、それから営業形態自体、お客様に甘えているでしょう?
そして今は野乃花さんに甘えようとしているの。一人では難しかったことを、野乃花さんに手伝ってもらえるから、ラッキーって。
お客様も凝ったものが食べられて喜ぶわ。
人に甘えるのも悪いことばかりじゃないと、私は思うの」
『おひるごはん』と『ティースプーン』では事情が違う。
だが野乃花が来たせいで調子が狂っているに違いない。
本当は今日のメニューはロールキャベツではなかったはずだ。野乃花が来た日の料理は銀サケの照り焼き、次の日はポークジンジャー。魚と肉。毎日、食べに来ているお客さんのことを考えれば、今日は魚、そうでなくても豚肉以外をメインメニューにするのではないか。客に甘えていると言っていたが、だからこそ、毎日のメニューは工夫のしどころだ。
それでも野乃花は言えなかった。
人参を千切りにし、美波が作ったタネを丁寧にキャベツで巻き、干瓢で縛った。
気になって、これまた『おひるごはん』まで様子を見に来た名取は、常変わらぬ表情の野乃花に、やや憤慨して光に報告した。
「ちっとも気にしていないみたいでした! 心配して損した」
「どうかしらね?」
光は名取に言ってから、自分も上がって顔を覗かせた。野乃花はずっと下を見て作業して気が付かなかったが、美波の方は首を振った。「落ち込んでいる」……らしい。
あの野乃花が人参サラダに使った蜂蜜の種類に関心を寄せなかったのだ。相当、凹んでいる……と言うことらしい。
申し訳ないが、光はちょっと笑ってしまった。蜂蜜が基準なんて。でも、二×四ビルの管理人にはピッタリの人材だ。もっと自信を持てばいいのに。
***
ロールキャベツがコンソメスープの中で煮込まれる。美波は野乃花にお昼ご飯を食べるように勧めた。
野乃花は言われるまま、箸を進める。
美波のご飯は温かくて美味しくて、泣きそうになった。
食べ終わった頃、そろそろ開店時間ということで、店の外に数名が並び始めた。今日はもう、下拵えの作業はなかった。洗い物もすぐには出ないだろう。では、また接客か……と思うと、野乃花は躊躇した。
「ねぇ、野乃花さん? お願いがあるんですけど」
「はい?」
美波は野乃花に出来立ての”今日の定食”が乗ったトレイを差し出した。
「これ、一階下の『琥珀海岸』の遥ちゃんに持って行ってくれる?」
「分かりました」
機械的に野乃花は美波からトレイを受け取り、並んでいる人たちに美味しい匂いを振りまきながら、階段を使って下に降りた。
ああ、美波さんは私に接客させないようにしてくれたんだ――。
野乃花はやっぱり泣きそうになりながら、『琥珀海岸』の扉を開ける。
カラン、とベルが鳴った。




