029:三階『はちみつmoon』
『ティースプーン』を体よく追い払われた野乃花は『おひるごはん』に向かおうと、階段を登りはじめた。三階を過ぎ、踊り場に差しかかった時、声を掛けられる。
「あ、野乃花さ~ん? 良かった!
悪いけど、手伝ってくれない?」
見れば、朝にも会った星陵子だった。
「はい……!」
呼ばれた野乃花がいそいそと声の元に行くと、三階の世界の蜂蜜専門店『はちみつmoon』の店主・青葉理子もいた。彼女は着物を着ていた。野乃花も『中鉢』で上等なものを着ていたが、理子の着物は大正や昭和初期の華やかな柄のアンティークもので、その上にフリルのついた白いエプロンをしているから、カフェの女給さんめいた雰囲気があった。そして、その傍らには重そうな段ボール箱が二つ。
「届いた蜂蜜を裏に運びたいの。いつもはうちの工にお願いしているんだけど、今日はまだ来ていなくてね」
『手を貸して欲しい』という言葉に、野乃花は二つ返事で引き受け、箱に手を掛ける。
「ああ、一人でなんて無理よ。二人で一緒に運びましょう」
それでも慣れている理子は一つの段ボールを持ち上げながら言った。
「そうよ。無理したらいけないわ。
腰をやったら大変、大変。
こういうのは、出来るだけ楽できるように互いに協力しないとね」
陵子は野乃花を反対側に促し「せーの」と声を掛けたが、一度目はタイミングが合わず、二度目でやっと持ち上がった。
しっかり梱包されているとはいえ、なるべく振動を起こさないようにゆっくりと運んだ。
「野乃花さん、そこ段差あるから気を付けて」
「野乃花さん、そこちょっと傾けて。あ、そっちじゃなくって……そうそう」
短い距離で陵子が何度も声を掛けた。
『はちみつmoon』の店内は、あたかも朝ぼらけの森のようだった。レジのあるカウンターの方が星と月の浮かぶ群青の夜。天井には太い梁が巡らされ、そこから星の形の照明がいくつも下がっていた。段々と明るい色調になっていく壁や、柱に埋め込まれた棚には、数多の蜂蜜の瓶が並び、輝いている。その近くで蜂蜜色の着物に白いフリルのエプロンをつけた店員が、客の一人に試食を勧めていた。
思わず見とれた野乃花だったが、陵子の「野乃花さん、こっち、こっち」という声に、我に返り、段ボールを裏の倉庫に運び込んだ。
そこにも何箱か、蜂蜜の在庫があった。
「その箱は、そこに置いてくれる?」
指示通りに蜂蜜の入った段ボールを置くと、早速、理子が在庫表になにやら書きこんだ。
「アカシアですか?」
野乃花の運んだそれは奇しくも、先程も食べたアカシア蜜だった。どうやら今日はアカシア蜜と縁があるらしい。
「ええ。アカシア蜜は癖が少なくて日本人好みだから、よく出るのよ。うちの主力ね。
ありがとう。助かったわ。
……お礼に、どう? うちの蜂蜜、試食していかない?」
一瞬、同意しかけた野乃花だったが、首を振る。
「これから『おひるごはん』に行きますので。……あ、五階の。何かお手伝いできることがないかと思いまして。
ただお約束はしていませんので、こちらで何か手を貸せることがあれば、お申し出下さい」
理子は困惑した。
広瀬耕之進は重いものを運ぶのを手伝ったり、電気系統のトラブルを解消したりはしていたが、店の手伝いをしている訳では無かった。それは彼の仕事ではない。となれば、野乃花の仕事でもないはずだ。
結果、理子と陵子の二人はこれまた光に倣って、川内美波に任せることにした。




