カスハラ客登場
アルバイトをしなければ食べていけない売れていない俳優
カスハラ客が来る店でも我慢我慢の毎日
カスハラ四天皇
話を五年前に戻そう。
節子が大学二年生のころだ。
義父に頼りたくなくて、意地でも生活費くらいは自分で稼ぐつもりだった。そんなわけで、大学の授業が終わればアルバイト、という日々を送っていた。
アルバイト先は、節子が住んでいる駅から都心のターミナル駅に向かって五つほど先の駅前にある、雑居ビルの中の本屋だった。
勤め始めて、三か月になろうとしていた。
本屋というものは、静かで知的な職場だと思われがちである。
しかし、それは本屋で働いたことのない人の幻想だ。
本屋にも当然、いろいろなお客さんが来る。
そして、いろいろなお客さんがいるということは、当然、いろいろな種類のカスハラも存在する。
その本屋には、店員たちの間で密かに「カスハラ四天皇」と呼ばれている常連客がいた。
なぜ「四天王」ではなく「四天皇」なのか。
誰が最初にそう呼び始めたのかは分からない。
ただ、四天王などという言葉では、とてもじゃないが格が足りなかった。
彼らは入れ替わり立ち替わり、ほぼ決まった曜日、決まった時間に現れる。
まるでシフト表でも持っているかのようだった。
「今日は誰が来るんだろう」
店員たちは朝から、それとなく警戒していた。
本の出し入れやバックヤードでの作業中なら、客と対峙しなくて済むので助かる。
ところがレジに立っていると、そうはいかない。
カスハラ四天皇がご来店になった場合、店員には逃げ場がない。
それでは、まず一人目から紹介しよう。
第一天皇――新聞書評至上主義者
この人が来るのは、決まって週初めの月曜日か火曜日だった。
店に入ってくるなり、開口一番、
「新聞の書評に出ていた本がないじゃないか」
と言う。
こちらとしては、
「昨日の今日なんですが」
と言いたい。
われわれだって忙しく働いている。
毎月どれだけの新刊が出版されていると思っているのか。
新聞の書評欄を一冊残らずチェックして、翌朝には全部平積みにしておけというのだろうか。
しかし、そんなことを口にできるはずもない。
「申し訳ございません。その書籍は現在、入荷しておりませんので、ご注文いただければお取り寄せいたしますけれども」
「君たちは本のプロだろう」
始まった。
「新聞の書評に載っている本を並べるくらいのことは常識なんじゃないのか」
「はい、それはいつの新聞に載ったものでしょうか」
「昨日だよ」
節子は心の中で叫んだ。
――昨日の今日であるわけないだろ!
しかし、顔には出さない。
「申し訳ございません。どうされますか」
「注文したらいつ頃入荷するんだ」
「出版社や取次に在庫がございましたら、一週間ほどで届くと思います」
「一週間?」
彼は驚いたような顔をする。
「そんなにかかったら、読む気なんかなくなるに決まっているだろ。君、それが分からないのか」
――分かるわけないだろ。あなたが何を読む気になるかなんて!
しかし、もちろん口には出さない。
「ご注文なさいますか?」
「いや、考えておく」
それで終わり。
注文はしない。
毎回これである。
前日の新聞書評に載った本を探す。
店になければ文句を言う。
取り寄せを提案すると「考えておく」と言う。
そして帰る。
何のために来ているのか、最後までよく分からない。
おそらく本人にも分かっていないのではないか。
第二天皇――棚割り評論家
次のお方は、閉店間際にやってくる。
これもまた、ほぼ決まっている。
店内をしばらく歩き回ったあと、店員を捕まえる。
そして、
「陳列がよくない」
と言う。
来た。
「これじゃあ、せっかくの良い本も売れなくなる」
この人はレジ係に限らない。
本屋の店員だと分かれば、誰彼かまわず話しかける。
「本屋がどんどん潰れているだろう」
「はい……」
「それは、あんたたち本屋の店員が悪いんだ」
――来たぞ、全国の本屋を背負っている。
「こんな並べ方をしていれば、本が売れなくなるに決まっているからね」
節子は思う。
――あんた、全国の本屋を見て回ったのかよ。
――うちだけが本の売り上げを落としているわけじゃないんだぞ。
――日本全国そうなっているんだから、現実を見ろよ。
しかし、店員はそんなことを言わない。
「そうですねえ」
「なるほど……」
「貴重なご意見ありがとうございます」
この三つくらいを適当に組み合わせる。
すると、評論家先生は満足したのか、不満を残したままなのか、それとも単純に話し疲れたのか、そのうち姿を消す。
本屋というのは、本を売るところだと思っていた。
いつの間にか、棚の評論までしなければならなくなっていた。
第三天皇――文学国防婦人
三番目のお客は、七十歳代後半の女性だった。
彼女は、他の客とはまったく違う。
怒鳴らない。
威張らない。
むしろ、たいへんおしとやかである。
厳かな雰囲気をまといながら、われわれ店員に近づいてくる。
「日本文学全集は、いつごろここに並ぶのかしら」
――そんなもん、とっくの昔に新刊本ではなくなっているわい。
もちろん、これも口には出せない。
「現在はお取り扱いがございません」
などと説明していると、彼女は遠い目をして言う。
「子供たちがちゃんと文学を読めなくなる社会なんて、嫌よね」
「そうですねえ」
としか答えられない。
すると、
「あなたも同感してくださるの?」
と、子猫のような哀願する目つきでこちらを見る。
これが困る。
怒鳴られるほうが、まだ楽なのだ。
「はい」
われわれ店員は、胸を締め付けられそうになりながら答える。
すると彼女は、満足そうに微笑む。
「そうよね」
そして、優雅に、そして絶え間なくおしとやかに帰っていく。
さて、これは果たしてカスハラなのだろうか。
少なくとも、典型的なハラスメントとは少し違う。
言うとすれば、業務妨害。
いや、もっと正確に言えば、
「店員の良心に対する精神的圧迫」
とでも呼べばいいのだろうか。
彼女は決して怒鳴らない。
ただ、こちらが「はい」と言わざるを得ない空気を完璧に作り上げて帰っていく。
その意味では、四天皇の中でもかなりの実力者だった。
節子は、この人が大の苦手だった。
粗暴で訳の分からない相手なら、ほとんど無視に近い対応で乗り切れることがある。
しかし、この人にはそれができない。
「文学は大切ですよね」
「そうですね」
「子供たちには本を読んでほしいですよね」
「はい」
「あなたもそう思いますよね」
「はい……」
気がつけば、完全に同調圧力に敗北している。
節子は、この女性が来る曜日になると、できるだけバックヤードの仕事を買って出るようになった。
逃げるのである。
戦略的撤退だ。
第四天皇――反文学帝国軍人
そして最後が、七十歳代後半の男性。
この人は、四天皇の中でも最も分かりやすい。
怒鳴る。
以上。
文学ばかり目につくところに並べているのが気に入らないらしい。
「文学ばかり目の付くところに並べやがって!」
店員を見つけると、とりあえず怒鳴る。
「文学なんぞが好きな奴は、反日の左翼だぞ!」
――はい、来ました。
「もっと世の中のためになる本を目立つ場所に置け!」
――どの本が世の中のためになるのか、それは誰が決めるんですか。
――あなたですか。
――この店の店長ですか。
――それとも政府ですか。
いろいろ聞いてみたいことはある。
だが、絶対に聞かない。
こういうときこそ、男の店長の出番だ。
強硬に対処してほしい。
「お客様、そのような言い方はおやめください」
くらい言ってほしい。
ところが、前記の焼肉屋の店長と同じく、こちらの店長も立派な「クズ」だった。
こういうときに限って、絶対に表に出てこない。
店の奥で気配を消している。
――店長というのは、こういうときに出てくるものではないのか。
節子は本気で、
「クズな男しか店長になれないのではないか」
と考えたことさえあった。
結局、われわれ店員は耐えるしかない。
経験上、それが一番安全なのだ。
「申し訳ありません」
「申し訳ありません」
「申し訳ありません」
これしか言わない。
絶対に、それ以上は言わない。
言い返せば修羅場になる。
下手をすると暴力沙汰になり、警察を呼ぶことになるかもしれない。
こちらが平身低頭して、暖簾に腕押し状態を続けていると、こういう人は、やがて攻撃のしようがなくなるらしい。
「気をつけろよ!」
最後に捨て台詞を残して帰っていく。
――何に気をつければいいのかは、最後まで分からない。
そして翌週、また来る。
懲りない。
四天皇とは、そういう人たちだった。
金曜日の女帝
……と言いたいところだが、実は四天皇だけではない。
最後に、もう一人いた。
中年の女性である。
この方はイケメンが大好きらしい。
その筋の雑誌を特に所望される。
ところが、節子の働いていた本屋は、雑誌より単行本の新刊の売り上げのほうが多かった。
客層も男性が約七割。
したがって、韓国系スターの雑誌や男性アイドルのムック本などは、ほとんど置いていない。
当然、この女性には、それが気に入らない。
「どうしてこういう雑誌がないの?」
――いや、売れないからです。
「他の本屋には置いてあるわよ」
――だったら他の本屋に行ってください。
そう言いたい。
本当に言いたい。
しかし、あいにく、この町には本屋が一軒しかない。
だから、この店が標的になる。
「どうして置かないの?」
「申し訳ございません。当店では……」
「こういうのを読みたい人だっているでしょう?」
――います。
――だからこそ、どれくらいいるかを考えて棚を作っているんです。
本屋の棚というのは、無限ではない。
置きたい本を全部置けるほど広くない。
需要のない雑誌を大量に置けば、その分、売れる本を置く場所がなくなる。
そんな単純なことなのだが、客にはなかなか理解してもらえない。
結局、彼女はぶつぶつ言いながら引き揚げていく。
決まって毎週金曜日の夕方。
つまり、
月曜日・火曜日は新聞書評至上主義者。
閉店間際は棚割り評論家。
文学国防婦人は、その決まった曜日。
反文学帝国軍人も、決まった曜日。
そして金曜日の夕方には、イケメン雑誌女帝。
本屋というものは、意外と規則正しい職場だった。
本屋はカスハラ天国か
こうして考えてみると、節子が働いていた本屋は、ずいぶんと個性的な客に恵まれていた。
いや、恵まれていたという表現は正しくない。
「鍛えられていた」と言ったほうがいいかもしれない。
カスハラ。万引き。そして、店長。
考えてみれば、ろくなものではない。
それでも節子は、その本屋を辞めなかった。
結局、二年間勤めた。
時給は決して高くなかった。
嫌な客もいた。
面倒なこともあった。
店長には期待できなかった。
それでも、何だかんだ言って居心地はよかったのである。
本に囲まれて仕事をする。
大学生の節子にとって、それはそれほど悪い時間ではなかった。
何より、カスハラ四天皇が毎週決まった曜日にやってくるということまで含めて、いつの間にかそれが日常になっていた。
人間というのは不思議なものだ。
最初は「こんな客、二度と来るな」と思っていたのに、二年も働いていると、
「ああ、今日は月曜日だから、そろそろ新聞の人が来るな」
などと、こちらのほうが予定を立てるようになる。
もはや客ではない。
季節の風物詩である。
節子にとって、その本屋での二年間は、決して華やかな学生生活ではなかった。
けれども、後から思い返してみれば、それなりに笑える思い出になっていた。
――もちろん、当時はまったく笑えなかったけれど。
売れない俳優の家族関係




